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現れた金の瞳。
愛らしいリーと同じであって、まったく違う瞳だった。
ーーーー怖い。
あの夜を思い出させる、金の輝き。
震えを止めるために、強くリーを抱きしめる。
「おかぁさま、だいじょぶ。リーがいるの。」
見上げる幼い笑顔に、暖かい体温に落ち着きを取り戻す。
私には守るべき者がいる。この子を守れるのは私だけ。
「………今なら妹君に似た平民だったと放逐できますわ。グランシェス卿?寡婦の修道女見習いの事など忘れてご帰還下さいませ。」
閣下は取り敢えず放置で。だって紹介もされてもいないのに、私から声をかけるなんて出来ないもの。
兄にのみ話しかける。
本当にこのまま会わなかった事にして欲しい、切実に。
「そんな事出来るはずないでだろ!あれからすごく大変だったんだぞ。いくら探してもおまえは見つからなくて、取り敢えずお前は他所の国へ病気療養に出た事になってる。婚約は破棄された。父上は塞ぎ込む、母上は倒れる。そんな親を前にしても同じ事が言えるのか?」
その事は噂で聞いていた、親友から。
娘の事は駒ぐらいにしか考えていないと思っていたから、逆に驚いた覚えがある。使える駒がいなくなったからだと思えば納得もできた。
「未婚で子どもを産み落とし、その子を連れて戻るよりは余程良いのではないでしょうか。ーーグランシェスの恥だと追い出されるだけではないですか?」
こんな話し、リーの前でしたくなかった。グランシェスにとって恥でも、私にはとてもとても愛おしい大切な存在なのだから。
「これ以上の話しは、この子の前でしたくありません。」
ツンと顔を晒す。
このまま知らないふりをして、自分達の部屋に隠れてしまいたい。
だからお願い、私に話掛けないで欲しい。
その願いは届きはしなかったけれど。
「それは誰との子だ。」
初めて聞いたその声は、低くてでも良く響く平坦ものだった。
やはり放っておいてはくれないわよね。
それでも僅かな抵抗に、聞こえないふりをした。淑女の嗜みというやつだ。
「おい。閣下にお答えしろ。」
兄は焦って催促するが、知りません。
紹介もされずに、下々から声をかけられる身分の方ではないのだから。
「私、ご紹介も頂いておりませんから。とてもとても…」
「君は平民なのだろう?ならば貴族に倣う事はない。」
「平民と認めて頂けるのなら、貴い血を持つ方の前に座っていられません。お暇してもよろしいですよね?グランシェス卿?」
目の前の方とは目も合わせず、にこやかに兄に声をかけた。
兄は顔を強張らせ、半目で私を見た。
「口が立つ女だ。ーーーシエラ、紹介しろ。」
はぁーと声を漏らして兄は言葉を紡ぐ。
出来たら聞きたくはなかった。
「閣下、私の妹を紹介させて頂きます。コレはシアン・グランシェスが長女カロリーナです。カロリーナ、こちらはハイルフェスラ公爵閣下だ。」
もちろん知ってますとも。
ディアンカエン・デゥ=アナ・ハイルフェスラ様。公爵閣下にして王弟であらせられます。デゥは王族に、アナは公爵位につける総称。この場合、王族にして公爵位、つまりは王位継承権を破棄し、臣下に降った者を示す。
「初めまして。ご機嫌麗しゅう、公爵閣下。」
げんなりです。かなり大雑把なご挨拶ですが、コレも不敬になりますか。
「で、カロリーナ嬢。それは誰との子だ?」
「……それとは、どれのことでしょうか?」
「ーー膝に乗せている娘は誰の子だ。」
王族なんて皆んなこんなモノなのかしら。
なんて傲慢で、高慢なことか。
笑顔は淑女の武器とは言ったものね。にこやかに、優しく、拒絶を示す。
「それを知って閣下はどうするおつもりなのですか?知らない方が、捨て置いた方が良い事もありましてよ。」
あの外道とは違ってまったく揺さぶれない、流石年の功。ここでイラッとでもしてくれたら、まだ私に勝機がある。でも敵は一切表情を変えない。だいぶ詰んでいる。
「もし、その子の父親が私の考えている者ならば、他国に出すわけにはいかない。それが、理だからな。」
立ち上がり、リーに、私に近づいて来る。テーブルひとつ分の距離が縮まって、直ぐそこに金の瞳がーーーー。
闇でも煌めく輝きが、私に近づいて、ダメ、思い出しちゃダメなのに!
近づく影、覆いかぶさる重み、吐かれる吐息に、動かない体。不意に蠢く手の指の感触が思い起こされて。
「イヤ、だめっ、こ、こないで。私に、触らないで!」
イヤだ。
気持ち悪い。
怖い。
痛い。
怖い。
怖い。
怖い。
「いやぁぁーーーーーーーっ!!」
ガクガク体が震えて。
抱きしめる暖かな小さな体もふるえている。
横からも誰かの手が触る。
もう、嫌なの、吐き気がする。
誰も、私に触れないで。
焼き切れた私の意識は、プッツリと暗転した。
*****
次に目覚めた時、辺りは暗闇に包まれていて仄かにランプの光が揺れていた。
脇にはしがみつく形でリーが眠っている。
どう言う状況なのか。思い出すに、私はあの眼を見て思い出してしまったらしい。あれから時間が経って、克服出来たと思っていた。でも、まだまだダメだったみたいだ。
「リーナ、目が覚めた?」
兄の声だ。窓際に置かれた椅子が軋む。
流石に目は離せないか。
ベッドの側に佇む兄の目が痛々しく私を見つめる。
「お前、大丈夫か?」
「私、倒れたのですね。……ここはどこです?」
「あの部屋の別室だよ。閣下は隣におられる。ーーお前には説明する義務があると思う。」
私のいない間に、リーの瞳を見たのだろうか。秘密は、秘密でなくなってしまったのかもしれない。もう、ひっそりと慎ましやかに生きて行くことはできない、隠れてはいられないのだ。
それを思うと、悲しくて、虚しくて、涙が溢れる。
「今まで良く頑張ったな。これからは俺がいる。閣下もいる。もうひとりで頑張らなくても良いんだ。」
小さい頃のように頭を優しく撫でられる。それが懐かしく、それでいて切なくて、少しの間さめざめ涙は流れ続けた。
「先程は、失礼いたしました。」
涙は自己憐憫だ。いくら泣いても、何も変わらない。だから泣くのは嫌いだった。溢れた涙を止め、身支度を整えて彼の方の前に立つ。一定の距離を取り、目は伏せる。あの瞳とかち合う勇気はまだ持てないから。町娘が着る古着に、肩までの短い髪、そんな私が淑女の礼を取る。滑稽でしかないが、この国の上位の方へ謝罪をする必要はある。
「ーーーー良い。座ってもらえないだろうか。」
昼間より若干、柔らかく聞こえる声。
一応は心配していたのかしら。
閣下の声かけで兄も私もソファに腰をかけた。
昼間と同じ場所。
違うのは仄暗さと、リーがいない事。それがとても落ち着かない。
前には3つのグラスとワインのボトル。兄がそれぞれに注ぎ入れて、グラスを配る。
「お兄様、申し訳ないのですが、私は不要です。」
「アルコールはダメだったか?以前は飲んでたよな。」
確かに、以前は舐める程度には嗜んだ。特に発泡酒は好きだった。でも、あの夜から飲めなくなった。アルコールだけでなく、渡される飲料全てダメだ。ーーーー飲むのが怖いから。また、同じ事が起こるのではないかと、心が体が拒む。
なんと言えば良いのか、眉を落として困ってしまった。
「それならこれを飲めば良い。」
アルコールがダメだと認識したのか、閣下に渡されたのは封の開いていない、ただの水。
「……ありがとうございます。」
礼は言ったが、これも飲めない。同じ瞳の持ち主からの物、吐いてしまいそうだ。
ひと時の沈黙。
誰も、何も、話し出さない。違う、話し出せない。
リーの瞳を見て大体の事は予測出来ただろうけれど、本当にそれが真実だとしたら。
それを知るのが憂鬱でたまらないのだと思う。