1-2
辺境を後にして5日。
出発の地からだいぶ離れた海辺の街へ辿り着く事が出来た。
ここまで来れば大丈夫だろうか。
それとも私達が追われていると感じる事自体が思い違いだろうか。
今の辺境伯と閣下は親しい仲なのかも知れない。
全てが私の思い違いならば、それで良い。
ただ、私の勘が逃げろと言っていた。幾度となく助けられたこの勘を信じるしかない。あの外道ならば、逃げおおせる自信がある。けれど閣下だとその自信が揺らいでしまう。私よりもだいぶ年上の、経験豊富な外交官。こんな浅はかな娘の考えなど直ぐに考えつくはずだ。
少しの不安ともう少しだという安堵に心が揺れる。
明日には船に乗って、隣国へ抜ける予定だ。陸路を行けなくはないが、最速で移動する為には船が最良だった。
まさかシスター見習いが船に乗れるほどの旅費を持ち合わせいるとは思うまい。
後を追って来ているならそれも読まれているのかもしれないが、それでもそれを振り切って逃げてみせる。
膝の上で眠ってしまったリーを抱きしめて、そうなる事を願った。
*****
船の旅といっても一晩を船で寝起きするだけのもので、それほど危険を伴うものではない。陸路だと国境に跨がる峠越えがあり、まる5日はかかってしまう。だから費用の捻出できる階級や、急ぎの用がある者は船を使う。陸路の倍はするから平民は陸路を選択する事が多い。
船室にはグレードがあって、上は特室から下は4等までピンキリだ。私が購入したチケットは小さいながらも個室の2等客室のもの。女でしかも子連れだから用心した結果で、懐は寂しくなったけれど、安全には変えられない。必要な出費だと思う事にした。
出発時間は午後だから、それまでに旅に必要な物を準備しようと市場を歩いていた。
突然、後ろから肩を叩かれる。
驚いて身を引きつつ振り返る。目深にフードを被っている為、相手の顔はまったく見えなかったが若い男だった。身にまとっている衣服は、平民風を装いながらも決して安くはない生地を使っていて、明らかに高位の者。わざと汚して質を隠そうとしているがブーツはかなり仕立ての良い物だった。
「ーーーー何か、御用でしょうか?」
ドクリと大きく高鳴った胸を押さえつけて、平静を装う。
知らずにぎゅっとリーの手を握りしめていた。
何が、どうして、バレた、捕まるの、どうしよう、どうすればーーーー
一瞬の内に頭を回る。
「ーーーーその子どもは君の子?大通りは人が多い。抱いたほうが良いと思うよ。連れはいないのか?」
「まぁ、ご親切にありがとうございます。今は2人なんです。主人は他の用事があって別行動をしております。」
足にぎゅっとリーが抱きつく。男の探るような気配に、嫌な感じを覚えた。
これは、ダメなやつ。
「そうなのか?ひとりで大変だろ?どこに行く?そこまで送ろう。」
そう言ってリーを抱き上げようと手を出した。
これはどちらにしろダメなやつ。
見知らぬ人に子どもを託すなんてあり得ない。
「いやぁぁーーーっっ!ああっっやめて!何するの!!私の子をどこに連れて行くの!人さらいっっ!!!」
大きな声を張り上げて、リーを庇うよう抱きしめて男から隠す。涙声で震えていれば、周囲の人々が騒ぎはじめた。
「ちょっと、あんた!何してるの!人さらい?子ども拐かしてどうするつもりだい!」
「テメェー!こんな街中で何してやがる!誰か衛兵を呼んでこい!」
他にも色々と声が上がる。
男はたじろいて、出した手を引く。
「いやいや!違うから!人さらいなどではない!」
周りの厳しい眼差しとどんどん多くなる人だかりに、さらにたじろいで距離が離れる。人の目が男に集まっている隙に、リーを抱えてそろりそろりとその場を離れ、野次馬に紛れて逃げ出した。
リーを確認する為に近づいたのか、それとも本当に親切心からだったのか、本当の人さらいか。疑心暗鬼で嫌になる。でも、男は貴族の子息で間違いないと思うし、身分を偽って近づいて来た辺り、私の勘は外れていないはずだ。母子の2人連れで子どもの目は金。それだけの情報で捜索しているとしたら?
これは困った事になったと、近くの雑貨屋に入り込んでため息をついた。
船の出発まで隠れて、乗船を締め切るギリギリに駆け込んだ。陸路に変更しようか悩んだが、陸路の場合最悪追いつかれる。船ならば一度陸を離れてしまえば、それまでだ。もうこれは賭けでしかなかったが、船に掛かっていた架け橋が外されたのを見て、ホッとした。
これで逃げ切れた?本当に?
それでも隣国へ渡れれば、道が拓けるような気がした。
「おかぁしゃま?」
「ごめんね?窮屈だったでしょ?まずはお部屋に行って、それからお船を探検しましょう!」
胸もとに抱いたリーを下ろして手を繋ぐ。ふっくらした小さな手。ここなら少しは安心かしら。並んでゆっくりと歩き部屋を探す。二等客室はまずまず裕福な平民の人たちが多く、客層も悪くない。3等、4等は船底に近い客室で大部屋。値段が下がる分、ガラが悪い者が多い。
上の階は貴族や金持ち達の階層だ。下々が紛れ込まないよう、乗り口も違えば行き来出来ないように階段は固く閉ざされている。社会の縮図。前の私ならば考えるまでもなく上の階層を選べたが、今の私はもっと下の階層を選ぶべきなのだと思う。でもまだそこまでの勇気は持てなかった。なんて中途半端な存在であることか。
混み合った甲板を人を避けて進む。
人の騒めき、鳥の鳴き声、波の音、潮の匂い。
私は少しばかり気が緩んでいたのだと思う。
目の前に立ち塞がった2つの影に気がつくのが遅れてしまった。
リーが立ち止まって私の後ろに隠れ、それで気がついたのだから。
ひとりは地味だが仕立ての良い外套で顔立ちを隠し、私たちを見下ろしていた。もうひとりはひとつに結んだ少し長めの金茶の髪を風になびかせてーー。
「カロリーナ !」
おもむろにフードが外されて、肩口までの同じ金茶が風で揺れた。
見上げれば藍の瞳とかち合って。
「ーーーーお兄様。」
続いて強い力で抱きしめられ、震えた腕に閉じ込められる。
4年ぶりの兄妹の邂逅だった。
呆然とした私を兄は一等客室の一室に押し込んだ。そこは私が予約した客室よりも格上の小さいながらリビングも付いた広々とした部屋だった。
「リーナ、そこに座って。」
兄に誘導されソファに座らされる。黙ってついて来たリーが膝の上に登ってしがみついた。
どうしてこうなったの?
よりによって身内が出て来たら誤魔化しようがない。
私たちの後を塞ぐように着いて来た男が部屋の鍵をかける。
その音が私に逃げ道はないのだと告げた。
男がローテーブルを挟んで、私の前に座る。兄よりも背が高く、ガッシリとした体つき。態度からして兄の護衛ではない。まさかとは思うが、どうか当たらないて欲しい。
「これ飲んで、少し落ち着いて。この子には何が良いかな?お茶はまだ早いよね?」
テーブルの上には紅茶の入ったカップが置かれた。まさか兄が入れたのか?微妙な色合いだ。
男と兄はワイン。リーにはレモン水をくれた。
「さて、カロリーナ 。お前はどうして突然いなくなったのか、この4年どうしていたのか、何故逃げ出したのか。わからない事だらけだよ。それに、その子。どうしたの?まさかお前が産んだとか言わないよね?ーーーー全部話してもらうよ。」
ああ、もうどうやっても逃げられない。
覚悟を決めるしかないのか。
それとも本当の事を話せば、見逃してもらえるのかしら。
私の事など所在不明で鬼籍に入れてくれたら良かったのに。
グルグル回る考えを整理していれば、前の男が外套を脱いだ。
歳の頃30半ば、濃紺の髪に、金の瞳。
私が辺境を出た原因がそこにいた。