先生
「マーサ?」
急に名前を呼ばれたので、やや驚いた表情で声の方へと振り向いた。
場所はあたしの住まう集合住宅の玄関前。あたしは手紙を出した帰りの時だった。
振り向くと艶やかなグレーの髪を纏めた品の良い御婦人がにこやかに笑っていた。
「やっぱりマーサね。元気してた?」
「はい…先生。」
先生は元の場所にお世話になった美術の先生。
姿は勿論、立ち振る舞いも品があって美しく聡明な方だった。
この国で生活するのも、この集合住宅に住まいを構えたのも実は先生の口利きがあったからだ。
あの頃に比べると少し年を取られたか、一回り小さな姿に見えたけど、雰囲気は昔のままだ。
「昔よりは顔色が良く感じるわね。新しい生活は如何?」
「あ、はい。上手くやれてるとは思います。」
「そう。良かったわ。」
「あたしこそ、中々ご挨拶に伺えなくて…。」
「いいのよ。此処までの引越しは大変だったでしょう?」
先生の懐かしい表示してを見ていると、学生時代の思い出が次から次へと溢れてくる。
あの頃は良かったなぁ………。
「あれ?マーサじゃん?」
背後から聞き覚えがある声へと振り向くと、灯屋の店主が笑って手を振ってくれた。
「あ…あの店の人…。」
「あれ?名前、教えていなかったっけ?」
首を縦に振ると「サイだ。」と手を差し伸べられたので、そのままあたしもサイの手に触れた。
「あら。マーサはもうお友達が出来たのね。」
「あ…友達と言うか…。」
余りにも先生は楽しそうに話すので上手く否定が出来ずにいると
「はい。マーサの友達のサイです。一応はじめまして。かな?」
「そうね。直接キチンと話すのは初めてかしらね。」
2人は知り合い?なのかな?
会話の所々にそんなやりとりが感じられた。
先生もあの祭に参加してるのであれば会う事もあるか。
あたしはと言うと未だ1回しか会った事の無い人物から「友達」と言い切られる事が今まで無かったので、どんな顔をしていいのか分からずにいた。
「マーサはね。」
突然、先生はあたしの事を目を細めながら静かに微笑んで
「とても素敵な子なんだけど、自分の事を上手く表現出来なくてね。何時も損をしてしまうタイプなの。」
「せ…先生…!」
「だけどサイと会ってみて、ちゃんと友達を作れる様になれたんだって先生は安心したわ。」
先生は安堵の表情を見せると「じゃあね。」と手をゆっくりと振って、すぐ先の曲がり角を左へと向かって行った。
サイと2人きりになる。
いつの間にか日陰だった玄関前には茜色の日差しが足元に降り注いでいた。
「あの、サイ。」
此方を向いて軽く首を傾けてくれる。
「如何して声を掛けてくれたの?」
「ん?誰も居ないのに話してたからさ。」
誰も居ない?
「誰も?」
「誰もって言うのは語弊があるかな?まぁ『居た』は『居た』訳だし。」
「それは…どういう意味?」
こっち来て。とサイはあたしの手を取って先生が去って行った曲がり角まで進んで見る。
そこにはあの日みた蛍火がふわふわと浮遊していた。
陽の光を浴びて、夜になって見た蛍火とは違うキラキラとした輝きを放っていた。
「サイ…これって…。」
「先生だよ。」
「じゃあ…先生は…。」
「君が心配だったんじゃないかな?」
浮遊を続けていた蛍火は、迷う事無くサイの周りを飛び始めた。
「マーサは気付いてないかも知れないけど、君はとても幸せだよ。沢山の人達に支えられてるって事は幸せな事なんだよ。」
諭される様な言葉に胸が熱くなる。
「サイもかな?」
「何?」
「支えてくれてる人って。」
「うん。そうだよ。マーサが生まれる前からずっとずっと支えているよ。」
蛍火はあの日の先生の笑顔の様に、眩しく輝いて美しかった。