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純情トワイライト  作者: 森 彗子
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ハイドアンドシーク 2

 ウミネコが鳴く声がどこかから聞こえる。


 海風が強くなって、潮騒の匂いがここまで届いたら季節はもう秋ということだ。


 太平洋に面した小さな漁港がある田舎町。国道は深い轍わだちができていて、通る車の半分は大きなトラックだ。排気ガスの匂いがする国道沿いの歩道を歩いていくと、交番勤務の警察官が信号機のところに立っていて、私に気付いた。


「あれ? どうしたの? 夏鈴ちゃん。今日、学校は?」


「おはようございます」


「あ、おはよう。で? どうしてこんな時間にこんなところにいるの?」


「熱が出てきてまして……」


「熱? じゃ、病院に向かってるの?」


「……はい」


 説明が面倒くさい私は適当に返事をした。膝に手を乗せて目線をわざわざ合わせてしゃがみこむこの人は、お母さんの幼馴染の高橋 勝まさるさんだ。お母さんの数少ない親友の一人で、独身。これは私の勘だけど、彼はお母さんのことがずっと好きなのだと思う。


「送って行ってあげる」と、予想通りの言葉が飛び出して、私は心の中でガッツポーズをした。


 普通のセダンに乗せられて、私は徒歩なら20分ほどかかる町営病院へ5分とかからない短い時間でやって来れた。高橋巡査に付き添われて病院の待合室に行くさと、顔見知りの看護婦さんが私を見てすぐにお母さんを呼んできてくれた。


 私がまだ何も言う前から高橋さんが全部説明してくれて、私だけ先に長いすに座る。お母さんが私の額に手を当てて「あら、本当に熱い」とつぶやいた。でも、すぐに私の目を覗き込んできて言うのだ。


「あんた、鍵忘れたから困ってここへ来たんでしょ? 高橋さんにはお礼を言うべきだけど、もう言ったの?」


「……あとで言おうと思ってた」


「その都度言いなさい。じゃないと、ちゃんと伝わらないのよ」


 なぜか苛々した。


 面白くない気分で返事に詰まった声が喉元でごろついている。悔しいような泣きたいような気分になって、私は目を反らした。


「後で良いよ、そんなことは。具合悪いんだから優しくしてあげなよ」


 高橋さんは呆れたようにお母さんにそう言うと、お母さんは立ち上がって「礼儀作法はちゃんと躾けたいの」と小声で言い返していた。


 出た。躾けという名のごり押しプレス。子供のためじゃない。自分が不安になりたくない為に、躾けという大義名分を利用した人権侵害。大人という権力を振りかざす暴力ともいえる。子供の言い分も気持ちも汲み取ろうとさえしないで、もっともらしい説教をいきなり頭のてっぺんから被せてくる傲慢さ。


 大人なんて……。


「夏鈴ちゃんは、きちんと挨拶も出来るし受け答えも大人びてて、しっかりしているよ。小さい頃のお前よりもな」


 高橋さんお援護射撃の成功で、説教お化けのお母さんは閉口した。


 ところで、お母さんの小さい頃ってどんな女の子だったんだろう?


 お母さんは「親としてしっかりしなくちゃ」って肩に力が入り過ぎている気がする。そんな気負いがなければ、もっと普通に会話できるのかもしれないけど、きっと色々あるのだろう。私が小さい頃は、こんなに口煩い人じゃなかった。


 いつからお母さんは、らしくないことばかりをするようになったんだろう?



 結局、お医者さんに診察してもらって薬を処方されて、高橋さんが家まで送ってくれることになった。お母さんの鍵を受け取った高橋さんは幸せそうな顔をしている。


 家に着くと高橋さんが鍵を開けて部屋の電気をつけ、私と荷物を運ぶ手伝いをしてくれた。良い人なんだけど、お母さんは幼馴染以上の感情を持っていない。口ぶりからお母さんのことがずっと昔から好きだったように思うけど、お母さんは見向きもしない。勘が良いくせに気付かないふりをするのも上手い。そんな冷たいお母さんにしっぽをふる犬みたいな態度で、世話を焼こうとする高橋さんを見ていると胸がざらついてしょうがない。


「ありがとうございました。もう大丈夫です」


「遠慮しないで。鍋焼きうどん作ってあげるよ?」


「母に叱られます。交番に戻って下さい」と、私はお母さんを見習って言ったら、高橋さんの目元が強張ったように見えた。


「夏鈴ちゃんはやっぱり……美鈴に似てるよね」と、寂しそうにつぶやいてから、辛くなったら電話してと言って帰って行った。



 布団の中に入って目を閉じると、たちまち眠りに落ちた。


 寝ている私の首に柔らかな感触が押し付けられ、細目で視ると彼が背後で添い寝しながら私を見下ろしていた。


 わかってる。これも夢。


「熱があるな、夏鈴。何か飲むか?」


 彼はとにかく良く気が付く人だった。私の具合が悪いとまるで母親のように看病してくれた。火が苦手な彼は電気ポッドで沸かしたお湯でゆたんぽを作って、アイス枕をこまめに交換してくれて、汗をかけば寝巻も着替えさせてくれた。


「あとでみかんの缶詰買ってきてやる」と言って、額にキスをして布団から抜け出ていく。


 行って欲しくない私は、なぜかその名を口に出せずに黙り込んだ。


「行かないで! そばにいて!!」


 陽の高い時間帯。カーテンの向こうから降り注ぐ光は眩しくて、飛び起きた私は目を閉じた。


 自分の声に驚いて目覚めたんだ。


 さっきまで、まるで現実のようにそこにいた彼がいない部屋で、私は酷く寂しくなった。


 こみ上げてくる感情に息も出来なくなる。痛みと共に涙が溢れ出して、私は自分の首に触れた。冷たい指が熱っぽい首を冷やして、夢の中でキスされたそこに触れるとまた、遣り切れないほどの寂しさに途方に暮れる。


 あれから三年経ったはずなのに、私はまだこんなにも苦しい。


 突然いなくなった彼のことを憎んでも憎み切れなくて、忘れたくても忘れられなくて、発作のように繰り返す絶望を味わいながらやり過ごすしかなくて。


 お母さんがお父さんを想って泣く夜と同じように、私にも忘れられない人がいる。



 一度は永遠にそばにいると信じた王子様がいた。二度とその名を口にしてはいけない、と自分に誓ってから半年。禁じれば禁じるほど勝手に口に昇ってきそうになる名前を、私は必死に飲み込んだ。


 彼は大学生になった。今頃三年生になっている筈で、順調に卒業できたらこっちに戻ってくるかもしれないと思っていた。でも、月日が流れ根拠も薄氷のように溶けて、跡形もなく消えてしまった。


 情報源の彼のお姉さんは、お母さんと仲良しの看護婦さん仲間だ。私は彼女のことをえっちゃんと親しみを込めて呼んでいるけど、最近は私を見かけても寂しそうに「音沙汰なしよ」とつぶやくだけで、私と同じように落胆していた。


 彼は糸の切れた凧のようにどこか遠くへ旅をして、帰り方も忘れたのかもしれない。なんてことを、普段は寡黙なお爺ちゃんが言っていた。お爺ちゃんは彼に直接会ったことがないくせに、なぜか気持ちはわからないわけじゃないと言う。男の人のことは男の人にしかわからないのかもしれない。



「夏鈴、元気だして。死に別れたわけじゃないんだから」



 お父さんと死に別れたお母さんから、そんな励ましを貰うと何も言い返せないよ。

 生きていればまた会えるっていう発想も、三年目だと希望は色褪せて味のなくなったガムみたいに虚しい。


 そしてまた、お給料日になると頼んでもないティーン向けの恋愛小説を買ってきては私にくれるお母さん。何を考えているのか、本当にわからない人だ。結構本気で「いらないから」って何度言ってもわかってくれない。


 自己満足を私に押し付けるな、なんて面と向かって言えたことはないけど、心底迷惑してるんだから。

 こんな甘々な恋愛ものなんて、ひたすら虚しくなるだけで。まだ恋を知らない子が読むものであって、恋に落ちてしまった私には残酷な童話よりも残酷でしかない。


 二度と帰らない王子様を待ったって、永遠に孤独なだけ。



 わかってる、わかってるよ、そんなことぐらい。


 頭ではわかってるんだ。



 なのに、なぜか…。



 心はいつまでも彼を恋しがって忘れさせてくれない。



 次の恋をすれば忘れられるとか、そんなこと信じられない。



 十歳上の彼に夢中になった私の乙女心は、同年の異性を見ても少しも感じないんだもの。



 むしろ、男の子が男っぽくなったと感じる時ほど私は自動的に彼を思い出してしまう。

 そして、胸の痛みも持っていき場のない心の叫びも腹の底から競り上がってきて、私は人前で何度も嘔吐してしまった。


 恋の病をこじらせると、とんでもない後遺症に悩むのだ。



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