第1章 ハイドアンドシーク
もういいかい
まだだよ
終わらないかくれんぼ
私はまだあなたを見つけられそうにない
おとぎ話のお姫様達は待っているだけで何もしないのに、素敵な王子様がちゃんと迎えに来て、その後は幸せな人生を与えて貰っている。
王子様はお姫様の美しさだけを見て結婚を決めているみたい。
それって、私には信じられない感覚だ。
こんな本、全然面白くないって何度も言ってるのに、お母さんはなぜか給料日のたびにロマンチックな童話や児童書を買っては、私に押し付けてきた。「あなたにもいつか王子様が現われるわ」と言って。
王子様ならもう、出会ってる。
颯爽と現れて私を助けてくれたけど、その一年後にあっさりと私を捨てていなくなったアイツのことを王子様と言うのなら、どうして彼は私と結婚しなかったの?
結婚てなんだろう?
お母さんは、お父さんと結婚してないのに私を生んだ。出会った時にはもう余命一年だったというけど、そんな末期の人が子作りできたっていう事実のほうがおとぎ話よりもファンタスティックな気がする。六年生になって学校の授業でも習った男女の体の違いと性のお話を理解したとき、現実の出来事は教科書通りじゃないのだと知った。
「はとざき かりん」
「はい」
朝の会の初めには必ず出欠を取る決まりがある。先生の声が、私の名前を唱える時だけはしっかり返事をして、後は心の小部屋に引きこもってシャットアウトする。
クラスメイトに興味はない。流行りの話題も必要ない。私に興味を持たれても相手にしない。最初から友達なんて求めてない。
先生が私の視界に入ってきて、目を覗き込んでくるのが何となく見えた気がして意識を戻すと、途端に肉声が耳から脳内へと流れ込んできた。密閉空間が外界と繋がった瞬間の解放感は案外好きだったりする。
「夏鈴、なんだか顔色悪いけど朝飯ちゃんと食べてきたのか?」
心配そうに話しかけてきた先生は、私の顔色ばかりを気にしている。周囲の視線が集まってきて、ヒソヒソと私のことを噂する雑音までもが脳内に届いてきて、耳の奥から不快感が溢れ出すと、それが顔に出てしまう。
「吐きそうな顔になったな……。今から保健室に行ってきなさい」
「……はい」
実際、今年に入ってから私はこの教室で二度も嘔吐した。それから先生は毎朝必ず私の顔色が少しでも青いと、保健室に行かせたがるようになった。迷惑かけたんだからしょうがない。吐しゃ物を始末した先生の身になって想像したら、誰だって気分が悪くなるもの。
六年一組の教室を出て木造校舎の廊下を歩くと床が軋む。廊下一面に張られた窓ガラスにコツコツと大粒の雨が叩いた。
夏の終わりの嵐が過ぎる度に気温がぐんぐんと下がっていく。北国の秋は足早に通り過ぎて、あっという間に長く白い冬がやってくる。凍てついた風景の中で元気に遊ぶ子供の中に私は入らない。いつもどんなときも一人だった。
波戸崎家の子供は友達ができにくい。生まれ育った町なのに、私はまるで部外者のように無視されてきた。未婚で私を生んだお母さんも地元民なのに、小さい頃から仲良くしてくれる人は数人しかいなくて、私にとって何でも相談できる相手なんて皆無だった。だから、私がどんな悩みを抱えていようと誰も知らない。私からも頼ることもない。
巡る季節とは裏腹に私の心は時が止まったままのようで、どんどん置いてけぼりになっていく感覚に時折猛烈な寒気を覚えた。だけど私にはどうすることもできない。
玄関のすぐ隣にある保健室のドアを開けると、消毒液の匂いがした。この匂いを嗅ぐとなぜか気分が落ち着く。椅子に座って机に向かっていた保健室の先生が私を見て目を丸くした。
「あら、久しぶりね。どうしたの? 顔色真っ青よ?」
木根先生はお母さんよりもずっと年上だ。親しみやすくて面倒見が良いため、私を除く全校生徒が頼りにしている。私もお母さんが木根先生みたいに包容力があれば良いのに、と時々本気で思ってしまうけど、私はやっぱり誰も頼らない。先生から「行け」と言われたから来ただけ。私の意志とは関係ない。
検温すると、38度あった。自分でも吃驚してしまう。
「おうち帰れる?」
「はい」
学校の先生達は私の家庭事情はたぶん知っている。お母さんが町営病院で長く看護師をしていて、母子家庭であることを。
お母さんの実家は山をひとつ超えたところにあって、病院から遠いからと町内のアパートで親子二人で暮らしていた。三交代制で働くため、深夜いない日もあれば日中自宅で寝ている日もある。
「今日はお母さん、家にいる日?」
「いえ、朝から仕事に行きました」
「そう……。一人で平気?」
木根先生は心配そうに質問した。一人で平気じゃなかったら、私はとっくの昔に発狂しているに違いない。なんて思って、心の中でこっそりと自虐の笑みを浮かべた。
「いつも一人ですから」
内線電話で私の体温が担任に伝えられ、先生が教室から私の荷物を持ってきた。玄関で靴を履くところまで見送られて徒歩で帰宅する。何のために学校に来たのかわからなくなる。
たった数十分前に登校した道のりを下校する風景はなぜか新鮮だった。これがとんぼ返り。
鍵っ子は首に紐をかけて鍵を保管する。ペンダントみたいで良いなって呑気な子に羨ましがられたことがあるけど、そんなに良いと思うなら自分で作って首からぶら下げれば良いのに。
そして私はなぜかその日から、首に鍵をぶらさげるのをやめて、いつも上着のポケットに入れて持ち歩いていた、筈だった。
家の前に来て鍵がないことに気付く。入れっぱなしだと思い込んで、朝確認するのを忘れてしまっていた。
「っ!」
親指の爪を噛んで舌打ち。この癖は、とある人から受け継いでしまった悪い癖だと自覚しながらも、私はずっとやめられないでいる。
いけない!
そう思った途端に、彼を思い出してしまった。
大きな背中、長い首。癖のある黒髪と、鋭い眼差し。骨ばった大きな手と細く長い指。寂しげに笑った顔、弾ける笑顔、愁いに満ちた濡れた瞳。力強いデッサンを描いている時の彼の真剣な姿。上手く描けなくて、悔し気に舌打ちをしてえんぴつで真っ黒くなった親指の爪を噛む横顔……。
もう何年も前の風景だというのに、鮮やかな記憶が目の前の現実にすり替わったように視えてしまう。
苦しくて、悲しくて、寂しくて、どうにかなってしまいそうになった。
大波を被ってずぶ濡れになった気分で深呼吸をする。目尻から伝っていく冷たい涙をゴシゴシと拭き取って、現実に向き合おうと歯を食いしばる。打ち寄せる波のように強弱のある激しい苦痛が全身に広がった。掻きむしりたくなるほど切なくて、大声で叫びたくなる気持ちを我慢する。
十分程で発作が落ち着くと涙を拭いて顔を上げた。
お母さんのいる病院に鍵を貰いに行けば済むんだ。漏れなくお説教されるのだと思うと、かなりうんざりするけど、自分のミスだからしょうがない。そう自分に言い聞かせて、私は重い身体を引き摺るようにして町営病院に向かった。