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純情トワイライト  作者: 森 彗子
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ジュリエットの勇気 2

 鞄、取りに行けない。


 美術室の鍵を事務室に取りに行って、私の安全地帯に逃げ込んだ。


 あの二人はどうなっていくんだろう?


 先生と木梨さんの年の差は十に歳だ。


 晴馬と私の年の差は十歳……。


 二十九歳の兵藤先生が自分の担当クラスの女子高生と浮気するなんて……。


 どうして一人の人だけを愛し続けることが出来ないの?


 お腹に赤ちゃんがいる先生の奥さんに会ったこともないけど、酷く気の毒に思えた。そして、木梨さんのことも。まさかの展開に、彼女は迷っているように思えたけど。さっきの様子だと、先生の方が木梨さんを……。


 晴馬のデッサンの前に立って、そっと手を乗せる。


 恋愛小説を読んで知ったことだったけれど、男の人は欲情すると獣のようになるらしい。発情と恋愛感情の区別がつくようになるのは、大人になって経験を積んでからみたいだし。そうなると、兵藤先生はもう立派な大人だけど。


 実際にどれだけ恋愛経験を積んだんだろう?


 年齢はきっと関係ない。



 晴馬が塗りつぶした黒の部分に指先を触れさせると、あの真剣なまなざしが脳裏に蘇ってきて、心が締め付けられた。


 恋人ができたと聞いたことがあったけど、それはもう何年も前のこと。

 当然、男女の関係になっている可能性は十分にある。

 晴馬はカッコいいし優しいし気が利く人だから、きっとモテるだろうと思われ。


 可愛い人や美人な人から迫られたら、きっと……。

 きっと深い仲になって………。


 ――― 晴馬が女の人とそういうことをしていると思うだけで、死にたくなる。



 いっぱい色んな女性と経験している気がする。



 発情と恋愛感情の区別ができるようにまるでは……。



 ふと、赤ずきんちゃんのオオカミのパロディを思い出した。


 オオカミに変えられた王子様は、赤ずきんちゃんに出会うまでの間、自分がかつて人間だったことを忘れて飢えた心を満たすために何人もの女の子を食べてきた、と私が書いた。


 あの時は食事のことだと思っていたけど、実際は恋愛のことだったんだ。


 飢えは苦しいけれど、本当に必要なものを食べない限り飢えは癒されない。


 赤ずきんちゃんが真実の愛でオオカミの心に触れて、最後には呪いを解いて王子様に戻した時。王子様は赤ずきんちゃんにプロポーズをして、二人はめでたく結ばれる。


 それが、私と晴馬で創作したもうひとつの赤ずきんちゃん物語。


 オオカミを悪者にしたくないと言った晴馬の気持ちを想像すると、まるでこうなることを予言していたみたいだと思えてしまう。


 そんな事を考えている間に外は真っ暗になってしまった。


 教室に戻ると誰もいなくなっていた。床に散らばったティッシュを拾ってゴミ箱に捨てて、私は帰り支度を整えて学校を飛び出した。駆け込んだバスに揺られて駅に着き、猛ダッシュで汽車に乗り込む。

 これを逃すとまたお爺ちゃんにお迎えを頼まなくちゃいけないところだったから、間に合って良かった。



 ガタンゴトン。


 揺れながら豪快な音を出す汽車のゆりかごに身を預けるように、私は目を閉じた。

 見慣れた車窓の夜は、沢山の人々から放出される今日一日分の感情が彩りを成して立ち昇るキャンバスになる。もう以前のように、それが綺麗な風景だとは感じなくなっていた。スパンコールの一片には、喜びも悲しみも怒りも恐怖もあることを知ってしまったから。


 誰もが、人生で起きることの中で沸き上がる感情を味わいながら今を生きている。


 その感情の中には、名前をつけようがない複雑なものもある。

 木梨さんの戸惑いには愛しさと哀しみと恐怖が混じっていた。

 琥珀色よりも濃いダークブラウンのオーラを思い出す。


 恋する人のオーラは赤やピンクが定番なのに。


 年上の異性に惹かれると、憧れと恋の違いを探そうとする。

 イメージに縛られて好きだと思うのは、たぶん憧れだ。恋じゃない。

 想像と違うとわかった途端に目が覚めて、弾けた風船のような恋心はもう二度と元に戻らなかったりする。

 木梨さんは夢から目覚めないまま、甘い誘惑に流されてしまいそうな気がした。


 私は、私の晴馬への想いは、憧れなのかな?

 愛になっていける恋なのかな?


 愛と言う文字は、【受】というじの中に【心】が入っている。


 心を抱きしめている。


 私は晴馬の心を抱きしめ、晴馬が私の心を抱きしめた時、愛になるのだろうか?


 心は手では触れられない。

 心が感じるあらゆる感覚が、感情となり表に出て来てそれを汲み取れるかどうかだ。


 心が何から何をどう感じるのかは、自分でも予想がつかないことばかり。



 私はずっと、晴馬への想いに振り回されて苦しんできた。

 私の心の真ん中に彼は常に居座っている。


 それは愛とは言わないのかな?



 どうすることもできないぐらい、その人が好き。

 だから、伝えずにはいられなくなっていく……。


 いつかの私も、晴馬に伝えたくなって東京に行くための資金をひたすら貯めた。

 だけど、いざ行けるようになった途端、現実を知ることが恐くなってしまった。


 でも、木梨さんは結婚したばかりの先生にダメ元で告白したんだ。

 それは私には持てなかった勇気だ。


 晴馬が他の誰かと恋愛をしていたら?

 結婚していたら?


 私は何も伝えないまま、人魚姫のように彼の幸福を願って泡になる道を選ぶと思う。

 私には晴馬の幸せを壊せない。


 何も手に入らなければ、失う痛みを知ることはなくなる。

 本当に彼を愛しているというなら、身を引いて幸せを祝える筈だ。


 どうして、先生は奥さんがいるのに別の女性の気持ちを受け止めたのかな。

 その軽はずみなキスが、木梨さんの恋心をもっと狂わせていくことをわからない筈ないでしょう?


 応えられない気持ちに応えたふりをして、いつかどこかで終わりにできると思っているとしたら、そんなの狡い。


 もしも告白されて心が動いたとしても、家庭を作った者が裏切るのは罪深いことだよ。


 どうして奥さんと結婚したの?

 どうして奥さんと子供を作ったの?


 どうして……?



 どうして私は他人のことをこんなに考えているんだろう?


 夜が濃くなればなるほど窓ガラスは鏡のようになり、不安気な私が見つめ返してくる。心は縛れない、という現実を見せられているみたいで胸が痛かった。


 木梨さんの勇気が羨ましい。

 私にはない勇気がとても羨ましくて……。


 あっという間に地元の駅に到着した。

 そこはかつて私が住んでいた町。

 もう一山超えたところに帰るべき家はあるのに、この駅を見るとどうしてもホームに人影を探してしまう。


 いるはずのない晴馬を探している。


 一生戻って来ない可能性が高いのに、私はまだ彼を待ち焦がれている。


 虚しい期待は泡となり消えていく。



 次の駅に向けて汽車が走り出した時は、もう晴馬のことを想うのをやめようと心に誓うのだ。



 それはいつものことで。

 だけど一日も持たない。



 気付くと月の光が海に映し出されていた。

 森と海と黒い水平線と浮かない私の白い顔。


 殆ど誰もいない車両の中で私は自分の心をかき集めて抱きしめた。

 膝を抱えて泣いてしまう。

 もう泣くのはやめたいと思っているのに、涙は止まってくれない。


 あと数か月後には、晴馬と出会ってから丁度十年目になる。

 晴馬の誕生日は一度しか祝えなかった。

 

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