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純情トワイライト  作者: 森 彗子
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第4章 ジュリエットの勇気

恋に恋してるだけじゃないと自分に証明するために

私は決断をする


どちらにせよ

晴馬なしの未来など私には必要ないから


生きるも死ぬも彼への想いと共に……






 小さな汽車に揺られて高校と自宅を行き来する道中、私は文庫の世界に入り浸るようになっていた。


 自分ではない誰かの人生に入り込む世界に触れると、私を取り巻く様々な問題が薄れていくようだった。


 読書が益々好きになり、晴馬の部屋の片隅に積まれた文庫の山を思い出す度にチリチリと胸の奥が疼いたけれど気にしない。


 いま、そこにある景色と同じように。今、ここにいる私が何を見てどう感じているのかを、ただ車窓の風景を眺めるような気持ちで見送る。

 高校二年生の修学旅行の行き先が京都~東京ではなく、長崎~京都になってしまって、私の東京行きは遠ざかっても気にしない。

 気の遠くなる時間の中で待ち焦がれるという苦しさから逃れるには、もうこの方法しか残されていない気がした。


 色んな恋愛小説を読んだ。


 純粋なほど気持ちを言葉に紡ぐことの難しさに苦労している彼らの交錯する思い。勘違いや疑心悪鬼のせいで、手の届くところにあっても気付かずにすれ違ってしまう皮肉な人生模様。


 素直になるためには勇気が必要だと言うことが胸に深く突き刺さる。


 時間が流れ、私は晴馬に色んな感情を持ったけれど、始まりは純粋な恋心しかない。

 私の心を奪った時の晴馬の全てが、私の細胞ひとつひとつに刻まれている気がする。


 夢で会えても過去の晴馬だから、私は段々物足りなさを感じていた。目覚めると、もう次の瞬間顔を忘れてしまうのも、慣れてしまっている。


 夢の中でしか会えないのに忘れた後に思い出す術がない私は、一枚も写真を撮らなかったことを後悔した。


 火事で全てを失った晴馬の気持ちは、今なら少しだけわかる気がする。


 晴馬が実在したのかさえもわかならくなりそうな日々の中で、私以上に晴馬のことを想い心を砕いている姉のえっちゃんだけが、私にとっての晴馬の存在の証だ。


 えっちゃんは晴馬とはあまり似ていないけど、どことなくふとした仕草が彼を彷彿とさせた。伏し目がちに言葉を探す仕草、字を書く時の手つき、欠伸した時の一瞬の表情。


 えっちゃんにはトシさんという旦那さんがいる。見た目は怖そうな人だけど、農協で働いている。二人が一緒に買い物に来ていた時に見掛けたら、ひとつのあんぱんをかじって食べながら、楽しそうに微笑み合っていた。


 結婚して幸せそうなカップルを見ると、私の心はどうしようもなく苦しくなってしまう。


 だから、そんな現実から目を反らすにも文庫の世界に没頭するのは理にかなっていた。試練やすれ違いが起きても最後はハッピーエンドに繋がっていくお話だけを選んで、ひたすらその世界観に浸るようにした。


 だけど、人が人を好きになる瞬間を描いている小説の心理描写に心を重ねてみたり、ヒロインの心情になりきろうとしてみたけれど、どれもうまくいかなかった。たぶんそれは、私が私であることから離れられないからだと思われ。


 少しでも自分の目の前の現実に向かうと、先の見えない真っ暗なトンネルの中にいるような閉塞した空気を吸うように苦しくなる。

 息継ぎをするみたいに、私はフィクションであれ他人の人生に飛び込んで、別人の人生にしがみついて時を駆けた。


 一番強烈に心に残ったヒロインは、ジュリエットだ。



 愛する人と生きるために仮死状態になるという毒を飲む。

 もしかしたら本当に死んでも不思議じゃないその毒を口に含んだ心境をリアルに想像すると、私は生きた心地がしなかった。


 計画を立てた人がロミオに死の偽装を伝えようとしたけどうまくいかず、本当に死んでしまったと誤解したロミオは彼女の傍で自害してしまうけれど、それは絶望からの衝動だったのか、それとも愛するジュリエットとあの世で結ばれたいという希望からの衝動だったのか、それを読み取るのはまだまだ幼い私にはとても難しかった。


 定期テストで英語が苦手だった私はいつもギリギリだった。補習を受ける時に、必ずいつも一緒になるクラスメイトの木梨さんが気さくに話しかけてくれるけれど、私は相変わらず一定の距離を保つように人を拒んでいた。


 出会いなんて、いつか別れなければいけない。

 生まれてきたって、いつか死ぬ運命にある。

 始りは幻で、終われば全部記憶は消えていく。

 総てのものがあまりにも儚く感じられて、私は何も欲っさなくなっていた。


 何もいらないから

 明日死ぬ運命なら最期に晴馬に会いたい。


 それだけ。



「波戸崎さんて、好きな人いる?」


 シャープペンシルの芯がぽきっと音を立てて折れた。

 大学ノートに書いた例文の書き写しの途中で、木梨さんが隣から私の顔を除いてくる。


「ご、ごめん!唐突だったね」と、彼女はなぜか必死に謝ってきた。


 先生がいなくなった時間、木梨さんと私の二人だけの教室で、彼女は深いため息をついた。


「話しのきっかけが欲しかったんだ。聞いて欲しいのは私の方なの。波戸崎さんて口堅そうだから、聞いて貰ってもいい?」


 成り行きというやつなのかな。

断りを入れる間もなく彼女は語り始めてしまって、今更止められそうになくて。


 ここだけの、二人だけの話で、しかも口外してはいけないという厳重な秘密のようだから嫌な予感はしていた。


 話し始めた彼女の背後から、湯気のように立ち上る白くて透明なオーラがまるで花開く桜のようにキラキラと輝いたように視えた。


「私、今とっても好きな人がいるの。だけど、この恋は誰にも知られてはいけないんだ。嬉しくて幸せなのに、秘密にしなくちゃいけないのって案外苦しいんだよね。なぜだか波戸崎さんになら話しても大丈夫な気がして……」


 木梨さんは幸せそうに微笑んだ。

 でも、すぐに寂しそうな表情に様変わりする。

 オーラの色も段々と珈琲のような色に変わってきた。


「私ね、入学した時に一目惚れしてからずっと片思いだったんだけど、この前とうとう告白したの。好きになっちゃいけない人だから、ダメ元でね。そしたら、私の告白を受け止めてくれたの。……そんなつもりなかったのに、私、その人とキスしちゃった」


 木梨さんの目から大粒の涙が溢れた。

 震えながら、両手で顔を覆って泣き出してしまった。


「幸せな筈なのに、怖いの……っ」


 悲痛な声で打ち明けられて、私は茫然としてしまう。


 泣きたかったんだねって心の中で声を掛けつつも。私は彼女に触れるのが恐くて、差し出した手を引っ込めた。木梨さんから滲み出ているオーラが複雑な色と模様を描き出しているからだ。


 様々な感情が同時に沸き上がる時、こんな風に色んなカタチと色とが混在しながら放出されている。それに触れようものならば直ぐに巻き込まれてしまう。だから、一定の距離を保つことが大事になる。


 私には波戸崎に流れる血の力があるせいで、人には視えないものが視えてしまう。


 木梨さんの頭上に立ち上った湯気のようなオーラが天井付近に溜り、そこに彼女が今思い出している映像記憶らしきものが映し出された。


 木梨さんの腕を掴んでキスした人の顔が視えた。

 それは、担任の兵藤先生だった。



 彼は今年の春に結婚したばかりだったはずで、指にはまだ新しい結婚指輪が光っているのに。


 どうしてキスなんて……。



 兵藤先生は理科の先生で、誠実そうな人だと思っていたから余計にショックだった。


 それに、奥さんは今妊娠中じゃなかった?


 どうして木梨さんが恐れているのか、わかってしまった。


 思いがけず告白を受け入れられて、キスをした罪悪感。まだ17歳の女の子に、してはいけないことをした先生を私は軽蔑した。


 でも待って。当事者にしかわからない二人の間に起きている事は、他人には理解できない。


 木梨さんは、これからどうしたんだろう?


 奥さんが妊娠中で新婚のはずの兵藤先生と、どこまで付き合おうと思っているんだろう?


 私はゴクンと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。


 嗚咽を上げて肩を怒らせて泣いていた木梨さんは、徐々に落ち着いていった。


「これ、どうぞ」


 ポケットティッシュを差し出すと、木梨さんはそれを受け取って鼻をかんで涙を拭いた。


「ありがとう…。誰かに聞いて欲しくて…ごめんね。吃驚したでしょ?」


 取り繕った笑顔が、泣きはらした顔ではうまく咲くわけもなく。木梨さんはしばらく複雑な顔をして、混乱する気持ちと向き合っている様子だった。


 ノートを書き終えて彼女の分も職員室にいる英語の先生まで届けに行くと、兵藤先生と他の先生が珈琲を飲みながら雑談していた。


「波戸崎。残りか?」

「はい」

「木梨も一緒だったんだじゃないのか?」

「はい。ちょっと気分が悪くなったみたいで」


 兵藤先生はコップを机に置いて、早足で職員室を出て行った。

 英語の先生がノートを受け取りながら、私に言った。


「お疲れさん。お前、家遠いんだってな。気を付けて帰れよ」

「はい」


 頭を下げて退室して教室に戻ろうとしたものの、ドアの影に隠れる羽目になってしまった。先生と木梨さんが抱きしめ合っていたから。



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