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純情トワイライト  作者: 森 彗子
16/20

時の魔法にかけられて 4

 狭い脱衣所で服を脱いで、緊張しながら先に浴室に入ったら、手早く服を脱いだ晴馬が追いかけてきて、私の身体にお湯をかけてくれた。


「髪の毛を縛るゴムないの?」

「ない」

「じゃ、買って来なくちゃな。それにしても、夏鈴ちゃんの髪すごくツヤツヤで綺麗だよな。うちのシャンプーで大丈夫かな」


 ボディソープを手のひらに乗せて、両手をすり合わせてから私の首やわきの下、背中や胸、おなかやおしり、下半身を晴馬の手が通り過ぎていった。嬉しさと恥ずかしさでくすぐったいけど、お父さんのいない私には男の人とお風呂に入ることが妙に嬉しくて、安心して身を任せられた。


 膝を折りたたんで2人で入った湯船から、ざぶーんと沢山のお湯が溢れて流れ落ちた。


「ナイアガラ~」と陽気な声で晴馬が言った。


「ナイアガラって?」と私が聞くと、膝の上に座らせてくれながら「世界には大きな滝があるんだ」と教えてくれた。


 髪まで洗ってくれて、お風呂から上がったらドライヤーまでしてくれた。


「年の離れた姉ちゃんがいるとさ、俺もこうやって世話して貰ったんだよね」

「兄弟がいるって、羨ましいな…」

「もういるじゃん、俺が」


 晴馬は人懐っこい笑顔で、私の髪をブラシで梳きながら言ってくれたの。


 この時は本当に嬉しくて、晴馬のことが益々好きになった瞬間だった。


 初めて尽くしで嬉しい楽しいばっかりで、私はすっかり兄妹のような関係に溺れていた。まさか、突然終わりが来るなんて欠片も想定していなかった。


 新しい布団ですぐに眠りにつけるほど疲れてもいなかった私は、何度も寝返りを打っていた。晴馬が自分のベッドから降りて、私の布団に入ってくると後ろから抱きしめて言った。


「落ち着かない?」

「……うん」

「添い寝、してもいい?」

「うん!」


 私は寝返りをして晴馬の胸に耳を当てた。

 トクントクンという心臓の音が響いて、すごく落ち着く。


 いつの間にか眠りに落ちて、朝日のまばゆさで目が覚めたら、晴馬は私を抱きしめたまま一緒の布団で眠っていた。しばらく無防備な寝顔を見詰めていると、それだけで胸がいっぱいになった。


 晴馬の腕枕で、晴馬の胸に額を押し付けて、晴馬の匂いを感じて、晴馬の体温の中でまどろむ。ずっとずっと、こうしていたいと思った。


 少しすると寝惚けた晴馬が私を抱きしめてきた。回した腕が私の肩を掴んで、ギュッと抱き寄せられて、身体同士が密着する。熱くて苦しくて、だけどこのままがいいと思っている私がいた。


 午前九時半、飛び起きた晴馬がトイレに駆け込んでしばらく出て来なかった。


 寝癖を直して戻ってきた頃、私は着替えを終えて布団をあげていると「さっすがぁ」とほめてくれた。


「かまくら作ったことある?」


 晴馬が握ってくれたおにぎりの朝ご飯を食べながら、そんな提案をしてくれて。洗濯物を回しながら、アパートの脇の空き地でかまくらを作るために大きな雪かき用のショベルで大量の雪を積み上げた。


 腕時計を時々確認して、洗濯物を干しに行ったりしながらも、戻ってきてはかまくら作りを一生懸命してくれた。その年は大雪が降ったばかりでいたるところで雪だるまやかまくらが作られていた。


「正月はここでおしるこ食べようぜ」と、晴馬が少年みたいに笑って言うから、私も夢中で雪山を固めていった。そして、穴を掘り始めたころはもう夕方になっていて。


「今日はこの辺にしよう。夕飯作るの、手伝ってよ」

「うん」

「うどん好きか?」

「うん」

「あれ、うんしか言わないな。特別に好きな食べ物とかあるだろ?」

「……卵焼き」

「じゃ、卵焼きも作ろ?」


 電気式のコンロひとつで作るから時間はかかってしまうけど、私達はおしゃべりしながら楽しく料理をした。卵焼きに砂糖と醤油を入れ過ぎたせいで焦げてしまっても、晴馬が私の為に焼いてくれたと思ったら苦くても食べずにはいられなかった。

 一人用の鍋で炊いた鍋焼きうどんを分けて食べ、そしてまた二人でお風呂に入って一緒の布団で眠った。


 翌日、朝からこんこんと降りしきる雪の中で、かまくらの穴掘り作業を午前中だけ取り組んで、午後はお部屋で宿題と絵日記を書いた。晴馬も学校の勉強とスケッチブックに鉛筆だけで立体的な絵を何枚も描いていた。


「お兄ちゃんは、大人になったら何になりたいの?」


 勇気を出して質問をぶつけると、晴馬は「わかんない」とあっさり答えた。


「夏鈴は?」


 思えばこの時から、晴馬が私を呼び捨てで呼んだんだったな……。


 私が将来なりたいもの。


 漠然とイメージしたのはウエディングドレスを着た私と、黒いタキシードを着た晴馬の姿だった。


 カッと顔が熱くなって、下を向いてしまう。


「え?なに?どうしたの?」


 また、いつものようにしゃがんだ晴馬が下から私の顔を見上げてくる。

 私は両目をギュッと閉じて、イメージの中の私達が誓いのキスをしている映像を視ていた。


「夏鈴、なに考えてる? お兄ちゃんに教えてくれよ。耳まで真っ赤だよ?」


 晴馬は笑って私を弄るのだ。

 張本人に揶揄われるなんて、すごく恥ずかしい。


 でも、言いたくて。


「……お兄ちゃんの…お嫁さんになりたいの……」


 また、晴馬が目を丸くして固まった。

 しばらく彼は何も言えなくなってしまったのを見て、告白したことを後悔した。


 そんなことがあっても、晴馬は当たり前のように私を腕枕の中で眠らせてくれた。

 私は大きな身体に腕を回してしがみつくように身を寄せると、ギュッと抱き寄せて頭を撫でてくれた。


 私が眠ったと勘違いした晴馬が、夜中にそっと囁いたのを覚えてる。


「夏鈴はきっと…、すっごい美人になるんだろうな……」




 お母さんが仕事三昧で家に帰っても寝るだけの中、私は晴馬の部屋で冬休みの全てを過ごした。初めての年越しも、一人用の土鍋でそばを作って分け合って食べた。


 いつの間にかりんごやみかんを買ってきた晴馬が、私の為に剥いてくれた。

 おとぎ話の創作も、絵を描いてくれるから楽しくて仕方がなかった。

 晴馬はいつだって笑っていた。

 私の気持ちを上手にくみ取ってくれて、私が言い難い話があると根気強く待ってくれて。


 他人を信じられなかった私が、嘘みたいに晴馬だけには全面的に心を開いていった。



 学校が始まると、週末だけお泊りすることになった。

 一週間が終わるのを心待ちにしながら、勉強も読書も楽しくて仕方がなくて。苦手な体育の授業で逆上がりができないと言えば、晴馬は公園まで一緒に行って練習に付き合ってくれた。私の小学2年生と3年生は晴馬によって充実していたと言っても良い。


 運動会で一人弁当しなくても良かった年はあの時だけ。


「夏鈴の頑張ってる姿見て、俺も頑張ろうって思えた」って言ってくれた。


 私は知らなかった。

 あの時すでに、晴馬は美大受験のために予備校に通っていたこと。平日、最終の汽車で帰ってくるのは自分の将来のために努力していたんだっていうこと。将来の夢がわからないって言ってたのに、ちゃんと目標を持って努力していたんだ。


 週に一度だけしか会えなくて、そんな晴馬の頑張りを私は知りようがなかった。

 知っていればもっとできることがあったかもしれない。


 私が少しでも彼の役に立っていれば、捨てられることもなかったのかもしれない……。


 忙しいはずなのに、私がキャンプに行きたいと言ったら連れて行ってくれることになった。

車で二時間ほどの山間のダム湖の畔に、バイクに二人乗りをしてやってきた。持ち運べる荷物に限りがあるけど、まだ小さかった私となら平気だと言って、一人用のテントに二人で眠ったんだ。レトルトのご飯とカレーを温めて、真夜中には満点の星空を見上げた。晴馬が用意してくれた星座版を手元に置いて、私は夢中になって星座を見つけては歓喜の声をあげた。


「そんなに喜んでくれるって思わなかった」


 目を細めて、眩しそうに私を見詰める晴馬は本当に優しくて。


「また、来ような」って言ってくれたのに。


 その約束はあの日の夜どこかに置いてきてしまったんだろうか?



 寝つきが悪い私は時々寝たふりをして晴馬の様子を観察していた。

 あの夜も、いつものように寝たふりをしていると、覆いかぶさった晴馬の顔が近付いてきて、掠める程度に触れた唇の感触に全神経が集中して……。

 胸の奥にジュワッという感覚を初めて味わったんだ。


 小さな少女の淡い恋心は、この日から乙女の恋心に変わったのだと思う。


 あのキスがなければ、私は今こんなに苦しまなくても良かったんじゃない?

 どうしてあんなことをしたの?

 どうして、私にあんなキスをしておいていなくなってしまったの?


 やっぱり、私が面倒くさくなったから?


 私が波戸崎だから?

 呪われた家系だから?


 どうして?


 インフルエンザの熱のせいで、関節痛も患って自力でトイレに行くのも辛く。

 夢見の悪さにぐったりしながら、温くなった氷嚢を抱えて階段を這うように降りていくと、机で勉強をするお母さんが私に気付いて駆けつけてきた。


「夏鈴!だいじょうぶ?」

「……あちこち痛い」


 マスクをしたお母さんに手伝って貰ってトイレを済ませ、テーブルの椅子について温かい番茶を飲む。


「結構長丁場になるわね。こんなに酷い風邪はいつぶりだったかしら?」

「もう忘れたよ」

「そういえば、晴馬君と一緒に暮らすようになった最初の頃にも、あんた高熱が出たわよね。あんたを抱きかかえて片道二十分も歩いて運んでくるんだもん、晴馬君て男らしいなって思ったわ」

「……」

「自分が見てたのに、こんなに熱が出てすいませんってすごく丁寧に謝ってきて。そこまであなたのせいだとは思わないから気にしないでって言っても、全然聞かないの。まるで、二人は結婚した夫婦みたいで可笑しくて……」

「……夫婦?」

「そうよ、夏鈴。晴馬君は若すぎるお嫁さんを貰った夫のようにいそいそとあんたのお世話をして、楽しそうだったってえっちゃんも言ってたわよ」

「結婚したいって、あの日から思ってたよ、私」

「そうだろうと思ってたわ。あんたも、見たことがないぐらい良く笑って幸せそうだったもんね…」


 お母さんからそんな話をさせられて、私の涙腺は簡単に崩壊した。 お母さんの前では絶対に泣かないはずなのに、自分の意志では止められない涙が溢れてしまう。

 

 それを見ていたお母さんは、私の手に自分の手を重ねてきた。

温かくて柔らかくて、すごく頼もしいと感じた。


「あんた、本当に晴馬君のことが好きなのね? ずっと我慢して何も言わないから、私からも言うことがなかったんだけどさ。


晴馬君、たぶんあんたと同じか、もしかしたらそれ以上にあんたのこと、好きだったって私は思って見てたよ。あんたをそばに置きたがったのは、あの子の方だった。夏鈴に何かあれば、全部自分が責任取るって言ってたのよ?


高校生の男の子なんだから、恋愛したい年頃のはずでしょ。それなのに、どうしてうちの子なのかしらって私もずっと考えてたのよ。


私が新人だった頃、看護師長だったのが晴馬君のお母さんだったんだけど。すごく厳しい指導をする人で周囲から恐れられていた。命を預かる現場では、優劣は関係ないって教えてくれた人だったわ。そんなお母さんに育てらえた息子さんだから、私は安心してあんたを任せられた。


だけど、そうとは言ってもうちは曰く付き。すき好んで付き合おうとはしない人の方が多いし、誤解や偏見で見られる。深く関わろうとしない人ばっかりの中で、あの東海林さん親子だけが、積極的に私達に関わってくれたの。


ね?

これって、強い絆があるって言えるんじゃないかしら?


信じても良いと私は思うけど……もう待つのに疲れちゃった?」



 私は泣きながら頷いた。


 待つのに疲れた……そうかもしれない。



 待っていても良いのかどうかさえ、わからない。



 だけど、お母さんまでそんな風に考えてくれていたんだと知って、少しだけ気分が良くなったの。



 会いに行く勇気はなくても、待ち続けることならできるかもしれない。


 でも、やっぱり苦しいよ。



 苦しくて

 辛くて

 寂しくて

 痛いよ。



 こんなに辛いなら、もう死んでしまいたい。


 でも、そんなことは死んでも言えない。


 お父さんは死んでしまった。



 会いたくても永遠に手が届かない人だから……。



 ――― だけど、晴馬は生きてる。



 生きてる。



 そばにいなくても

 私と同じ時代に生まれて

 生きてる。



 十歳差はあるけど

 もしかしたら

 まだ、望みはあるかもしれない。



 なにもできなくても

 私は信じて待つことができる。




 おとぎ話のお姫様達はなにもしなくても待ち続けていた。

 それがこんなに凄いことだったと知った私は、お母さんが買ってくれた恋愛小説をこの日から読み始めた。



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