時の魔法にかけられて 3
「夏鈴! ほら、ミカンの缶詰を凍らしておいたヤツだよ。食べさせてやるから、口を開けて」
目を開けると、なぜかそこに晴馬がいた。
十八歳の晴馬が私の看病をしてくれている。
やっと開けた唇に冷たいミカンの欠片をスプーンで押し込んでくる。
その真剣な表情に見惚れながら、私は溢れ出す涙で視界が滲むのがイヤで目を擦った。
「やめろ、夏鈴。俺が拭いてやるから…」
晴馬が私の手首を掴んだ。長い指、大きな手、確かな感触と温もり。
夢とは思えないほどリアルで、口の中で溶けながら広がるミカンの味を噛み締めた。
「ごめんな…。昨日、俺が布団を独り占めして寝ちまったせいだ。寝相悪くて、いつもお前に迷惑かけてばっかりで、本当にごめんな」
なぜか晴馬が必死で謝っていて、手に持ったタオルで私の目元をそっと拭き取った。
「はる……ま」
「ん? どうした?」
大好きな顔がすぐ目の前に寄ってくる。
「どこにも行かないで……」
「行かないよ」
と、微笑む顔が愛しくて手を伸ばす。
私の手が彼の頬に触れると、晴馬は目を細めて笑った。
「あっちぃ……。すごい熱だ……、病院に連れて行ってやる。美鈴さん、今夜は夜勤だからさ」
そう言うと、私にタオルケットをかぶせて包み込むと、お姫様抱っこで持ち上げた。ふわりと抱き上げられて、すごく幸せな気持ちになった。
「夏鈴。お前にもしものことがあったら、俺が責任取ってやる。だから、安心しな。とにかく今は病院で医者に診て貰おう?」
そんな甘い囁きも、その場しのぎの思い付きだとしたら罪深いよ。
当時の私にはわからなくても、時が経って私の理解力が追い付いてきた時のことを考えて欲しかった。
晴馬のバカ……。
それから、町立病院の救急で私は点滴を受けた。
勤務中のお母さんと、ずっとそばで付き添ってくれている晴馬が時々何か話をしていた気がする。
朝、目が覚めると私は晴馬のベッドで目が覚めた。
晴馬は、ベッドに寄り掛かるように眠っていた。
寝顔を眺めているのも堪らなく好きな時間だった。
いつまでもこんな風に寄り添い合って生きていくものだと信じて疑わなかった。
だからこそ、彼に置き去りにされた事実が突き刺さる。
何年経っても、この鋭く強い痛みが私の心を追い詰めてくる。
私は要らない存在だから捨てられた。
会いに行って、もしも
彼が迷惑そうな顔をしたら?
少しでも想像するだけで、怖くて悲しかった。
会いに行くための貯めたお金はあるのに、私はすっかり怖気づいてしまった。
その後、三日間も高熱は続いた。学校を休んでいる間に、窓の外はいつの間にか雪景色に染まり、彼と初めて出会った季節になっていた。
時々、屋根から滑り落ちていく雪の音に驚いて目が覚めた。
浅い眠りの中で、晴馬との優しい思い出達がグルグルと繰り返される。
雪の中で泣いていた私を助けた彼は、迎えに来たお母さんに向かってこう言った。
「波戸崎さん」
「美鈴さんって言ってくれる?」
「あの……美鈴さん、夏鈴ちゃんから聞いたんですけど、いつも一人で過ごしてるって言うんで、その……」
晴馬はしどろもどろだけど、意を決してお母さんの目をジッと見詰めた。
「俺がそばにいてあげたいと思ったんで、また預かっても良いですか?」
二十七歳だったお母さんは私の目線までしゃがむと、私に聞いてくれた。
「夏鈴はどうしたい?また、このお兄ちゃんと一緒にいたいの?」
仕事で疲れた顔をしているけど、この時のお母さんの目はとてもやさしくて。まるで私の心を見透かしたように背中を押してくれたようだった。
「うん」
年の瀬でも看護師の仕事は連日続くからと、私は翌日から晴馬の部屋で泊っても良いということになった。
晴馬はリアルなカエルやクワガタの絵を描いて見せてくれた。そして私に絵の描き方を教えてくれた。
彼の長くて細い指にドキドキする。すぐ近くに顔があると思うだけで、顔が火照ってしまう。
私がどんな気持ちか察したのか、晴馬は頭を掻きながら言った。
「そんなに俺のことが恐い?」
首を振って唇を噛んでいると、晴馬の指が私の顎を掴んで親指でそっと唇を引っ張った。
「じゃ、この口をやめようか。心配しなくても変なことしたりしないから。せっかくの可愛い唇から血が滲んだら、胸が痛むんだわ」
テレビもラジオもない晴馬の部屋には、文庫の小説が床に積み上げられていた。手に取ってパラパラと捲っても、文字が小さい上に読めない漢字だらけですぐに閉じてしまう。
「ちょっと待ってて」と、彼がカバンから一冊のジュニア文庫を持ち出して渡してくれた。グリム童話の本だった。
パラパラと捲ると挿絵が描いてあって、私の目に留まったのは赤ずきんちゃんの狼。
晴馬はリアルな狼の絵をスケッチブックにサラサラと描いて、「オオカミって良いよな?どうしていつも悪者になるのか、俺は納得いかないんだ」と言って、笑った。
赤いクレヨンで赤ずきんちゃんを描いて、私に色を塗らせてくれて、ひらがなで構わないから物語を即興で書いてよって言ってきた。
「オオカミは悪者じゃない」と彼が言うから、私はオオカミは実は姿を変えられた王子様だという設定をすると、晴馬は喜んでくれた。
おとぎ話の呪いは必ずと言っていいほど、相手のおかげで何かしら解かれている。
姿を変えられる魔法にかけられた王子様やお姫様は、必ず真実の愛が呪いに打ち勝ってハッピーエンドに繋がっていく。
八歳の私は純粋に魔法を信じていた。オオカミに姿を変えられた王子様の優しさに触れた赤ずきんちゃん。
赤ずきんちゃんの心の美しさに気付いたオオカミは、深い森の奥に住む赤ずきんちゃんのおばあちゃんが実は悪い魔女で、赤ずきんちゃんを捕まえて生き血を飲んで若返ろうとしていると教えてくれる。
「え…」と、晴馬がここで絶句した。
驚いて言葉を選んでいる間、彼は私の書いた物語を何度も読み返して言った。
「悪い魔女って……どんなひと?」
「自分さえ良ければいいと考えて、平気で命を奪える人が悪い人だって思う」
そんなようなことを私が言うと、晴馬は茫然とした顔で私を見詰めた。
「じゃあ、さ。目の前で大事な人が死んで、平気なヤツは悪いヤツ?」
言い終わる直前、その声が微かに震えているのを感じた私は、晴馬の心の中から漏れ出した悲しみを確かに感じたんだ。
だから、こう言ってあげた。
「強すぎる感情は感覚を麻痺させるの。だから、平気そうでも実は平気じゃないんだよ」
自然と出てきた言葉だった。誰かに言わされたような、そんな不思議な感覚だった。
晴馬は目を丸くしてしばらく動けないようだった。
浅い眠りだから、僅かな音でふと目覚めてしまう。
今視ていた夢がもし本当の記憶なら、私は彼の悲しみに気付いていなかったわけじゃなかったんだと思った。
でも、夢は儚くて、目覚めた後では説得力がすぐに消えていく。
目を閉じて涙が流れ落ちた頃、また別の夢を見た。
「そろそろ風呂に入る時間だな。夏鈴ちゃん、お先にどうぞ」
小さな折り畳み式のテーブルの上のお皿を重ねながら、晴馬が言った。
「食器、私が洗います」
「いいよ、こんなのすぐ終わるから」
「でも…」
「そんなに気遣いしっぱなしだと、俺といても疲れるだけだし、くつろいでくれた方が嬉しいんだけど」
「…はい」
「固いなぁ…」
晴馬が台所に立ったところに駆け寄って、私は洗い終わったお皿を布巾で拭いた。
「ありがとう」と、笑顔で言って貰って嬉しくて。
私も笑顔を向けて「うん」と元気に答えたら、なんだかすごく心の中がポカポカした。
「で、お風呂どうする?入っておいでよ。その間に、布団敷いておくから」
「お布団の準備も、自分でやります」
「じゃ、一緒にやっちゃう?」
押し入れからビニールに入ったまっさらな布団を取り出して、六畳の和室にお布団を敷いた。新品の布団カバーやシーツを取り出して、二人で作業をすると楽しくて。
綿布団を折りたたんだところに晴馬がダイブしたのを見て、私も同じようにダイブした。大きなクッションみたいで、すごくふかふかしていて、気持ち良くて、嬉しくて。
「お、良い笑顔。夏鈴ちゃんはそうやって笑ってる方が絶対可愛い」
晴馬はそう言って私の頭の上に手を乗せて、ポンポンと優しく撫でてくれた。
「さ、今度こそお風呂に行っておいで。いつも一人で入ってるんだろ?」
一人でなんでもできるけど、いつも一人でやっていることを今日はしたくなかった。恥ずかしいお願いだったけど、私は勢い付いて晴馬に、お兄ちゃんにお願いしたんだ。
「一緒に入って!」って…。
驚いて口を開けた晴馬の顔が焼き付いている。
「え…いいの?俺、他人だけど?」
「お兄ちゃんだと思ってる……」
モジモジしながらお願いする私に根負けしたのか、晴馬はしゃがんで私の俯いた顔を下から覗き込んだ。
「聞こえないってば。そんな風に恥ずかしがられたら、俺まで恥ずかしいじゃん。いいよ。夏鈴ちゃんが良いって言ってくれるなら、俺はお兄ちゃんになってあげる」




