時の魔法にかけられて 2
海に近い小さな漁村と広大な農地を耕す農村と、馬や牛が放牧された緩やかな丘を眺めながら、二両編成の汽車はガタンゴトンと大きな音と振動で人々を運んでいく。一瞬だけ見える国道のオレンジ車線は直線よりも少し蛇行していて、まるで雄大な大地を這う竜の背中を見るように伸びていた。
この道を辿っていくと、千歳空港まで行ける。
どうすれば、彼の居場所がわかるかな?
毎日、同じ風景を眺めて彼が通った高校まで通う道中、私はずっとそのことばかりを考えていた。
私が隣街の高校を選んだのは、町の外の世界に触れたいのと晴馬の足跡を辿りたいのと、理由はこのふたつだった。
高校で波戸崎という名前を聞いても、誰も眉をひそめたり目を合わそうとしないなんてこともなくて、悲しいしがらみを忘れられた。私は普通の女の子だと確認できた。そんな当たり前なことが嬉しくて。片道一時間半ほどの距離を通うのは大変でも、その価値は十分にあると思えた。
そんな開放的な高校生活でも私の人付き合いは相変わらず孤立型で、晴馬が所属していたという美術部に入っても、部員は三年生一人と一年の私しかいなかった。その三年生は推薦入学狙いのため、検定試験に集中したいという理由で幽霊部員となっていて、私は常に一人だった。
時々、非常勤講師の美術の先生が見てくれる以外の時間は基本一人。
ある時、石膏像デッサンをしていると、美術室の奥にある準備室で偶然丸まったデッサンを見つけた。
何枚もの作品の中から迷いなく見つけた絵から懐かしいエネルギーを感じてそれを広げていくと、私は興奮のあまり声を上げてしまった。
とめどなく溢れる涙を拭きながら、広げていった絵の下の部分に「東海林 晴馬」というサインが残されているのを見た途端、一気に心の中で爆発が起きた。
震える指先で、彼が描いた線をなぞる。
間違いなく彼の波動を感じて、私の魂は激しく震えた。
彼が描いた石膏像は丁度今自分が描いているものと同じなのに、
私の絵はなんて薄くて平べったいんだろうと思うと可笑しくなって、つい笑ってしまった。
晴馬の絵には奥行きがある。
空間の中に物体があって、そこから存在感がしっかりと伝わってきた。
全然違う。
すごく、上手…。
歴代の生徒たちのデッサンを並べても、晴馬の絵が飛び抜けて上手だと思った。
「すごい…すごいね…凄かったんだね」
力強くて繊細な鉛筆の濃淡。
右下がりの晴馬のサイン。
強く擦ると指先に芯がついた。
彼がこの部屋で描いた紛れもない証拠だと思ったら、嬉しくて涙が止まらなかった。
10年前に、ここにいた。
ここで、同じ石膏像を見て描いていた。
晴馬の姿を想像すると、本当にそこにいるような気がした。
嬉しくて。
こんなにも嬉しくて、抱きしめたい気持ちをどうにもできずに私は絵にそっと手を乗せた。
デッサン中の彼が注目し続けたであろう紙から彼のエネルギーを感じようと目を閉じる。
彼の自宅の部屋にも汚れたカルトンと目玉クリップとA3の画用紙が何枚も常備してあって、拾って来た瓶とか、履きつぶしたスニーカーとか、ステンレス製のコップや、時には大きな流木が部屋の片隅に置かれていたのを思い出す。
油彩画の静物画で描くために集められた意味不明なその物体と、必要最低限のものしかない無機質な晴馬の部屋。
私は一年と三か月を、彼の部屋で過ごした。
お母さんに甘えられない私を受け取めてくれる晴馬に、全面的に甘えて過ごした。
……だけど、彼の部屋はいつも空っぽで。
晴馬は私に寂しいという感情を一度も見せたことはなかった。
泣いているのはいつだって私だけ。
言葉にならない気持ちがどうしようもなく溢れて泣いた私を、黙って抱きしめ続けてくれた大きな身体で包んでくれる。可哀相な私を慰めてくれる。
面倒な私の相手をして疲れても不思議じゃない。
いつしか私の存在が重たくなってしまっていたのかもしれない。
彼の創作を邪魔していたのかも……。
思い切り自分の描きたい絵を描くために彼は芸術大学に進学した。
彼の未来に、私はいない。
いなかったんだ。
彼の心にも入れて貰えていなかったんだ。
両手で顔を覆って、タオルハンカチを噛み締めながら溢れ出る嗚咽をこの部屋の中に閉じ込めようとスカートを持ち上げて顔を埋めて泣いた。
晴馬だって本当は辛かったはずだ。
一度に両親を亡くして間もなく私達は出会った。
ギュウっと胸の奥が締め付けられる。
私は慰めにもなれていなかったんじゃないかな?
いつでも頼りない笑みを浮かべて肩を垂れていた晴馬。
優しいから、冷たくできなくて、無理して笑っていたんじゃないかな?
ベビーシッターのアルバイトだから、お金のために仕方なく私と一緒にいてくれただけだったのかな?
本当は私のことなんて。
私のことなんて……
だから、あんなに突然切り捨てられたんじゃないか……
旅立つ三日前。
無表情。
低く抑揚のない声。
目を合わそうともしなかったこと……
やっと……
やっと………
やっと、わかった………!
時間も忘れて私は泣いた。
戸締りの時間になって、当番の先生が回ってきて驚いていた。
バスに飛び乗って駅に着いたけれど、通学の学生はもう捌けた後だった。
帰る汽車の時間も終わってしまっていて、私は駅の改札前の待合所のベンチで横になった。
泣きはらした顔を誰にも見られたくなくて、いっそこのまま朝まで居ようと思っていたら、なぜかお爺ちゃんが軽トラで迎えに来てくれた。
狭い車内の助手席から見える夜の景色は、オレンジ色の遠い灯りがやけに綺麗に見えた。火力発電所の空は明るいのだと、晴馬と夜釣りに行ったときに教えて貰ったことを思い出す。
「夏鈴」と、お爺ちゃんの優しい声がして振り向くと
運転中の横顔のまま言った。
「時間は優しいけれど、時には残酷にもなる。
何をもって何を信じるのかは、お前自身が決めることができる。
苦しいのは、苦しい面だけを見ているせいだ。
サイコロは何面あるか知っているだろう?」
お爺ちゃんのクイズに付き合っている程の余裕なんてないよ。
でも……。
あと五面ある。それが何を意味するのか、私はまだ考えられない。
晴馬が帰って来ないのは私の存在のせいだとしたら、なんて滑稽な話だろうと思うよ。
王子様にも、お姫様を選ぶ権利はある。
呪われている私は選ばれない。
晴馬はいなくなった。
この先もずっと
どんなに待っても
彼はきっと帰らない。
どうして、私はそんなことに気付かなかったんだろう?
ポタポタと大粒の涙が止まらない。
期待すればいつか裏切られるものよ?
こんなに辛いなら、 もう誰にも何も期待なんてしない!
ずっと一人で良い!
死ぬまで一人で良い!!
全部、忘れたい…忘れたいよ………
消してしまいたいよ
消えてしまいたいよ
その夜から私は高熱が出た。
お爺ちゃんの家に引っ越してきて、初めての高熱。
夜勤のために仕事に行ったお母さんは、出掛ける前に氷嚢を作って私の首を冷やしてくれた。
熱に浮かされながら眠りに落ちる感覚は独特で、鳥の羽がはらはらと落ちていくようで。
揺らぐ世界がカラフルな線になったと思ったら、グニャグニャと複雑な模様を描き出した。その真ん中に窪みが出来たと思った途端、渦を巻き吸い込まれていく。
成す術もなく私は飲み込まれた。




