オズの魔法使いにお願い 8
その翌日のことだ。
晴馬が東京で就職を決めたらしい話が耳に届いたのは。
家の電話で長話をする母さんのお相手は、晴馬の唯一の肉親で、お母さんの仕事仲間のえっちゃんだ。一度もご両親の法事には帰って来ないつもりかもしれないと、えっちゃんが酷く落ち込んでいた。
ついさっき、唐突に電話が来たと思ったら、言いたいことだけ言ってすぐ切られたということだった。その内容は、就職先がほぼ決まったということ、無事に卒業を迎えられそうだということ。それと、引っ越し先のアパートを決めるのに保証人になってくれと言われたこと。
卒業しても東京で仕事を見つけたんだ、と思ったら裏切られたような気持ちになった。
私は運命の恋を信じている。だけど、私達の運命の赤い糸を晴馬が信じてくれないと、簡単に消えてしまう。
出会った瞬間に感じた彼の心の世界は、あの大雪の夜よりもずっと冷えていた。私と無言で抱き合う時間の長さが、それを証明しているように思えて仕方がなかった。吸い寄せられるように私は彼の腕の中で目を閉じた。
聞こえてくる鼓動に、言い知れない懐かしさを感じたのに……。
晴馬はもう、私のところには帰ってきてくれないのかもしれない。私のことなんて、一瞬の止まり木程度にしか思えなかったのかもしれない。特別な存在にさえなれていなかったのかも……。だから、あんな風に唐突に別れを告げて逃げるように消えてしまったのかも……。
胸が潰れそうなほど苦しくて痛くて、悲しかった。
彼は亡くなった両親の話を一言も言わなくて。
一人暮らしの愚痴も弱音も言わなくて。
進路についても何も言わなくて、やっと教えてくれた時は上京する数日前で。
あの頃の私は、まだ考える力が未熟で今ほど色んなことを考えられず、身体を千切られるような激しい痛みの中で嘆くことしかできなくて。
普通に考えれば、当時まだ小学2年生だったんだから、話し相手にもなれていなかったんだと気付いた。
頼りない存在。
十年という年の差を呪わずにはいられない。
私といる時の彼は、ただそこにいてよく笑っていた。
朝の光の中で目覚めてから、夜の帳の下で眠りに落ちるまでの間。
私には悩みなんてないみたいに振舞って、遊んで、勉強を教えてくれて、おとぎ話を一緒に改造して、
ラジオで流れてくる音楽に耳を澄ませて、そしてデッサンばかり描いて、食事の支度をして、一緒にお風呂に入って抱き合って眠りについた。
私が眠れない時は、ずっと髪を撫でてくれた。
添い寝で子守歌を口ずさんでくれた。
晴馬が何かを求めていることは感じていた。
ここにはない、私では与えることができない、何かを。
自分が小さな子供であることが歯がゆくて苦しくて、情けなくて。
彼の全部を包み込めるような包容力が私にあったら、いつか必ず帰ってきてくれるだろうか?
晴馬の綺麗な部分だけを見て好きと言ってるわけじゃないこの真剣な気持ちを、晴馬が知ったら?
私の成長を待ってくれるだろうか?
私達の運命の赤い糸を信じて、繋いでいてくれるんだろうか?
――――― 話がしたい。
今すぐ、彼と話ができるなら、私はこの四年間で成長した能力を惜しみなく発揮して、彼にありったけの想いを伝えられるのに。
手紙じゃ届けられない想いの熱を、直接伝えられたら晴馬は私が大人になるまで待っていてくれるかな?
彼女ができたみたいって聞いたとき、目の前が暗くなった。
私の知らないところで初めてのキスを誰かと交わして、好きだよと囁き合って、抱き合って愛を確かめ合っていると思うだけで、死にたくなるほど絶望的な気分に打ちひしがれてしまう。
告白したい。
私の心を見せたい。
まだ子供でも、晴馬を想うこの心は誰にも劣らない!!
晴馬の裏表全部を受け止められるのは、きっと私だけ!
そんな気がするんだもん……。
会いたい。
会いたい、会いたい、会いたい……。
思い立って、ずっと貯めていたお金を数えてみた。お年玉も時々くれるお小遣いもほぼ残しているのに、一万円には届かなかった。
文房具とか靴下に穴が空いたら自分で買ったりしている以外で、私がお金を使うことはないのに。お母さんとお爺ちゃんしかくれる人がいない私には、これが現実。
でも……。
東京に行こうと思ってしまった。
晴馬に会いたい!!
まだ何もしていないうちに諦めるなんて、勿体ないよ!
私はまだ伝えてない。
晴馬はまだ知らない。
教えなくちゃ。
そばに、行かなくちゃ。
人魚姫は声を引き換えにして、王子様の傍に行くために脚を手に入れた。
私はどうやってお金を集めようかな?
机に座って真剣に考えていると、机の向こう側にある窓から突然顔が突き出てきて吃驚した。
「たかし君??」
「かりん!ひどいよ!! お祓い受けるなんて、全然近寄れなかった…」
酷く恨めしそうな顔付きで睨まれた。
可愛い顔をした男の子に、青白い顔で睨まれたらすごく不気味。
「ご、ごめん! 成り行きでお祓いされちゃって、私が自分から頼んだんじゃないの」
焦って言い訳してる自分が軽率な気がしてしまう。
どこかですっかり忘れてしまっていたことを謝らなくちゃ……。
私は土下座のように額を机に押し付けて謝罪した。
「顔あげてくれよ」
顔をあげるとたかし君は猫背で座っていて、はぁーっと大きなため息を吐いた。
「なんとなく、そうだろうなって思ってた。
墓地に戻ったらみすずちゃんが、かりんを恨むのは違うでしょって…でも、俺。信じて待ってたのに。全然、墓地に来てくれないんだもん。忘れられてすごく悲しかった……」
そう言うと、たかし君はメソメソと泣き出した。
「ごめんね……。私、自分の事で頭がいっぱいで……」
そう言うと、突然。背後から声がした。
「それが普通なんだもの、謝らなくても良いわよ」と頼もしい口調でみすずちゃんが言った。
みすずちゃんが笑顔で立っていた。
「墓地から出られるの?」
「私は地縛霊じゃないのよ。でも、事情があってあそこにいるの。ね、夏鈴。そこの本棚の中の『オズの魔法使い』という本を開いてくれない?」
私は本棚から一冊の絵本を取り出した。お母さんがクリスマスに買ってくれた絵本のひとつだ。
何度も読んだ本だけど、私はこの物語がよくわかっていない。オズの魔法使いってタイトルになっているくせに、エメラルドの都に居たオズの魔法使いは本当はただの人で発明家だった。ドロシーを故郷に返したのは、ドロシーの努力のたまものだった。
「たかし君、このお話知ってる?」
「……知らない」
「あら、じゃあ夏鈴。読んであげてくれない?」
みすずちゃんとたかし君の前で、私は絵本を読み始めた。
竜巻によってある日突然見知らぬ国へと飛ばされた少女ドロシーが、家に帰るために冒険をするお話だ。冒険には成り行きで仲間が出来るのが定番で、カカシとブリキの兵隊とライオンが旅のお供になる。彼らはそれぞれ自分には足りないものがあると信じていて、オズの魔法使いにお願いして大事なものを与えてもらうという目的を持っていた。
だけど、いざ都に着いて偉大なる魔法使いに謁見したら。
実は魔法使いなんかじゃなく、ドロシーと同じ異国から飛ばされてきた帰れない迷子だったことを知る。頼る相手を間違えたと気付いた一行は、魔法使いを訪ねて再び旅をするのだ。
大いなる力に頼ると、その代償を払うことになった一行は、悪い魔法使いを倒すために戦ったけれど敗北してしまい、魔女の奴隷として一緒に暮らし始めた。その中で、ひょんなことから魔女は消えて、独裁者の支配が終わった人々が歓喜する。
そして、平和を愛する魔女に教えてもらう。最初に偶然倒した魔女が履いていたブーツの魔法で、行きたいところに行けるのだと。旅をする必要なんてなかったのだと。
カカシもブリキもライオンも、自分でそれとは気付いていなかっただけで、本当は初めから大事なものを持っていたのだと。
旅をして仲間に出会い、大きな敵を倒して、やっと教えてもらった答えは、どれも全部「はじめから持っている」という衝撃の事実だった。
オズの魔法使いとは、自分がすでに持っているものに自ら気付くための旅そのものだった。
私はこのお話をどう消化したらいいのかわかっていない。
すでにここにあるものが「ない」と思い込んでいるのは、誰だろう?
読み終わると、たかし君も首をかしげていた。
「結局、全部ドロシーの見た夢なの?」
「夢だとしても、彼女は旅をして誰かに出会うことで成長しているでしょう?
私達がこうして出会ったことも、このお話と同じ。ひとりでは自分のことさえもわからないの。止まった時間を動かすために、私達は出会うのよ」
みすずちゃんの言葉は心に滲みてくるようだった。
――――― 止まった時間を動かすため……。
私は晴馬を失ってからずっと時間が止まっていたのかもしれない。突然、手を離して遠くへ行ってしまった晴馬に言いたいことも言えないまま……。
「死んだら皆時が止まるんだ。この中で唯一、時が動いているのは夏鈴だけ」
たかし君は羨ましそうにそう言うと、膝の上に顎を乗せてしゅんとした。そんなたかし君の頭を、そっと乗せた手のひらで優しく撫でるみすずちゃんはまるでお母さんのような顔をしている。
二人を見ていると、晴馬と私の当時の関係もこんな風に見えたのかなって思った。
「夏鈴は自分の人生に集中していいのよ。
死んでいる私達とは流れてる時間が違うの。特別なことをしなくても、影響し合うのが仲間なんだから、何もしなくても良いわ。あなたはあなたらしくしてくれていればいい。
たかし君が踏切に行けないのも、意味がある。踏切でまだ自分の家に帰れないと困っているあの子も、気付いてないだけでちゃんと意味があってあそこに留まっている。夏鈴は何もしなくてもいいの。
条件さえ揃えば、皆勝手に成仏するんだから」
「……みすずちゃん」
みすずちゃんの言葉は優しいけれど、まるで突き放されているみたいでもあって切ない気持ちになった。頼られることが少しだけ嬉しいと思ったけど、私は自分の問題ですぐに頭がいっぱいになって、たかし君のことを全然わかってあげられていない。
晴馬のことも、わかってあげられていない部分のほうがずっと大きいのだと、やっと気付いた。
雄大な自然と背中合わせの北海道を出て、東京という大勢の人がひしめく巨大都市に紛れたのは、旅をしているのは、晴馬なりに意味があることなんだ。
オズの魔法使いにお願いしていることが、何か。
その答えに自ら気付くまで、晴馬はここには帰って来ない。
この時、私は自然とそんな風に考えて少しだけ晴馬の心に近付けた気がした ―――――。




