オズの魔法使いにお願い 7
迎えに来たのはお爺ちゃんだった。
大きな玄関先で、丁寧にお辞儀をしながら「孫がお世話になりまして」と腰を低くして挨拶をしている。私は靴を履いてお爺ちゃんの背後に行くと、お坊さんとおばさんにペコッと頭を下げた。
お寺を出て階段を降りながら、お爺ちゃんは私の手を握ってきた。ごつごつとした大きな手で、ギュッと強く握られる。顔を見ると、ため息交じりに何か考え込んでいるような目をして、私を射抜いた。
「学校から消えたと連絡があってから、今度は寺の人間に保護されたと連絡があってな。驚いたけど、案外大丈夫そうで安心したよ」
口数の少ないお爺ちゃんがそこまで言うなんて、とドキドキしながら見つめ返す。
「お前の成長を喜ぶべきなのに、美鈴がしっかりしてなくて悪かった。口出しするとあいつに怒られるから黙ってきたけど、そうも言ってられないよな。お前はもう十二歳だしな。
せっかくだからお墓に寄って行きたいんだ。付き合ってくれるか?」
私は頷いてお爺ちゃんと手を繋いだまま、本日二度目のお墓参りに行くことになった。
墓地に入って見渡しても、みすずちゃんの気配がない。たかし君があれからどうなったのか、すごく気になるのに……。
「なぁ、夏鈴。美鈴からあれは聞いたか?」
私は頷いた。
「そうか、まだまだ夏鈴には難しい話だろう?
焦る必要はない。一度聞いて全部を理解できる人はそうそういやしない。
人間関係で悩むことも増えてきた頃だろうと思ってな。
二代前の因縁がお前にまで影響するのは哀しいことだ。
のびのびと育てたいとも考えたようだが、
どうしてもここから離れがたい美鈴の気持ちもわかってくれるだろう?」
おじいちゃんは持っていた手ぬぐいでお父さんの名前を拭いた。それから、おばあちゃんの名前を同じようにきれいに拭きながら、私を見て微笑んだ。
「大きくなるのは早いなぁ。野々花。見てごらん、あの赤ん坊がこんなに立派な女の子になったよ」
私からは何も見えなかったけれど、お爺ちゃんの心の目にはきっとおばあちゃんが生きてそこに座っている、のかもしれない。
「お爺ちゃんは視えるの?」
「視えないよ。でも、気配を感じるんだ」
「そうなんだ…」
お爺ちゃんは優しい顔のまま私の隣に立って、しゃがんで手を合わせた。俯いてじっとしているその様子を見ていると、閉じた目尻から涙がポロリと流れて落ちた。
「寂しいなぁ……」と、ため息を吐く。
「お爺ちゃんでも、寂しくて泣くんだね」
「そうだよ。俺なんて、年取ってるけどさ。多分、お前が考えているほど立派でも頑丈でもない。野々花がいなければとっくに死んでいても不思議じゃないぐらい、臆病で無鉄砲で愚か者だったんだから」
「お爺ちゃん、全然そんなイメージないけど」
「野々花のおかげだよ」と、少し恥ずかしそうに笑って応えてくれた。
「お前の母さんはね、この野々花に似ているけれど何せ不器用だ。その不器用さは多分俺に似てしまったんだと思うが……。
色々と戸惑うことが増えてくるだろうから、お母さんに相談しにくい時は俺に言いなさい。電話ひとつくれたら、家まですぐに飛んで行ってやるから。一人で抱え込むな。いいね?」
そう言いながら、ポンポンと肩を叩かれた。
お爺ちゃんはすごく優しい。でも、お母さんは「安易に頼ったらダメなのよ!」と言うから、私は自分からなかなかおじいちゃんに電話をかけることがあまりなかったように思う。
「お爺ちゃんに、聞きたいことがあるんだけど」
勇気を出して意を決して聞いた。
「どうして、北海道に着いたときに波戸崎の名を捨てなかったの?」
突風が吹きつけて、枯草やカサカサに乾いた茶色の落ち葉が空に舞い上がった。
お爺ちゃんは少しだけ眉をひそめて、浅く何度も頷きがら考えている様子だ。口を開けてもすぐには言葉が出て来ない代りに、酷く悲しそうな顔をした。
「説明できないな……。確かにあの時名前を捨てる好期だったのに、なんでか俺達はそうしなかった。波戸崎家から逃げてきたってのに、名を捨てるという選択肢がないまま戸籍を作った。たぶん、何か意味があってそうなったんだろう。
人生には時々、理由もなく大きな決断を自然と下すことがある。それは俺達のためにではなく、何代か後の世代にための決断だったのだと気付くんだ。お前のためかもしれないし、お前の子供のためかもしれない」
「ふうん」
「波戸崎の血脈は女児に継承されるらしい。いつかお前が嫁に行けば、波戸崎の名は美鈴で打ち切りだ。お前が終わらせてくれるなら、それもまた後々に意味が見出せることなのかもしれん。俺はそう思っているよ」
私が誰かと結婚して波戸崎から出るなんて、と信じられない気持ちになる。
現状、私には結婚できる可能性は限りなくゼロに近い。
戻って来るかどうかわからないけれど、私の心にはもう彼しかいないんだから。
彼が私をどう思おうと、忘れられているとしても、私は忘れられない。
いいや、忘れない。
これはきっと、私の意志だ。
たとえ晴馬が私を拒絶しても、私のこの気持ちは誰にも消せないものになっている。
彼は……晴馬は、東京で切り開いた人生の中で出会い恋に落ちた女性といつか結婚してしまうかもしれない。
もしも、そんなことになったとしても、私はまだ十二歳。
二十三歳の彼から見れば私は幼い子供で、妹にような存在で、多分それ以上には思われない。
私がどんなに彼を想いこの身を焦がそうと、私は晴馬の恋愛対象にはなれない。
私が大人になるまで待ってくれるなんて虫が良い話は期待しちゃいけない。
私がモタモタしている間に、素敵な女性が現われて彼の心を射止めてしまえば、それで終わりだ。
人魚姫の物語を思い出した。言葉を奪われた彼女は、王子様の妹のような存在にはなれたけれど、本当の命の恩人だと名乗ることが許されなかった結果、王子様は別のお姫様が命の恩人だと勘違いしたまま結婚してしまう。
そして、願いが叶わなかった人魚姫は……。
数多くのおとぎ話の中でも、悲恋や悲願で終わるお話は貴重だ。私にはどうしても、人魚姫の話は他人事には思えない。
思い上がりだと言われるかもしれないけど、私が晴馬に命を救われたように、晴馬も私に命を救われたんだって信じてる。
だけど、そのことを彼は知らない。
知りようがない。
「お前、帰りたい場所があるのか?」
「え?」
お爺ちゃんの唐突な言葉に、驚いて顔を上げるとすぐそばに着物を着たみすずちゃんが墓石の隙間からこちらを見ている視線に気付いた。
「帰りたい場所?」
お爺ちゃんの声だけが耳に入ってくる。
「一途に誰かを想う気持ちは隠そうとしても隠しきれない。
夏鈴、それほどお前が帰りたい場所になる男なら、俺は応援してやるぞ」
「……お爺ちゃん」
帰りたい場所になる男…って、どういう意味だろう?
ぼんやりとした頭でそれを考えながらみすずちゃんを目で追うと、彼女はゆっくりと回り込むようにお爺ちゃんのすぐ後ろに立って可憐に微笑んだ。そして、白くて小さな手をお爺ちゃんの肩にそっと乗せて、愛しい人を見詰めるようなまなざしを向けた。
「……みすずちゃんて、もしかして」
彼女は私を見て、唇に指をあてて「シーッ」と言うとパッと消えた。
「美鈴ちゃん? お前、さっきから何かおかしいな。誰かいるのか?」
みすずちゃんは言うなと合図してきた。だから、私は嘘をついた。
「誰もいないよ」
お爺ちゃんは念入りに周囲を見渡しながら、「誰かいた気がしたが」とつぶやいた。
帰りたい場所になる人がいる。
帰りたい……。
私は、晴馬が帰りたいと思う場所になれないだろうか?
空を見上げると、さっき見た白昼夢の中の同じ青い空と白い雲があった。




