彼女と数学とタイムトラベル
「タイムトラベルというのは、なんと甘美な響きなのだろうね」
茶菓子片手に恍惚とした声を放ったのは、ひどくこの台詞の似合わない少女。僕には慣れっこであるのだが、この少女は時々こういう、中身が世紀末を生き抜いた覇者か何かでないのかと思う表情をすることがある。
何なら西暦二〇〇〇年ちょっきり生まれの僕はギリギリ世紀末を生きてるし、実際のところ早生まれの彼女の方が新世紀しか知らないわけだけれども。
「そうだね。僕は今、まさに君がタイムトラベラーなんじゃないかと思っていたところだよ」
言うなり、ずずっと紅茶を啜る。彼女好みに煎れたアールグレイは、僕にはちょっと香りがきつい。彼女は僕が用意したちょっと高いクッキーを躊躇いもせずに一口で食べると、ティーカップを揺らしながら色と香りを楽しんでいる。
「それはどういう意味かね。……まあ、いい。さっさと私に教えたまえ」
「うん。いつも思うんだけどさ、なんでそんなに偉そうなの。授業中にずっと寝てたの、君じゃない」
「私が君の後輩になっても良いというなら何も言わないが」
「頼むから高校で留年は止めて」
親が泣く。只でさえちょっとした私立なので、学費が高いのに。幼なじみ故よく見知った彼女の母の顔が浮かぶ。
いや、問題はそこじゃないが。
結局いいなりになるように、僕はゆっくりと解説を始める。彼女は絶望的に数学ができない。
「……わからん、さっぱりわからん」
開始五分も立たないうちにシャープペンを放り投げた彼女は、机に積んでいた飴を口に放り込むと、舐める間もなくガリと噛み砕いた。そのままボリボリと咀嚼する音だけが空間に響く。
「……タイムトラベルが使えれば、テスト勉強などという精神の停滞に時間を割く必要もないのだがなぁ!」
彼女は美しいものが好きだ。それが紅茶の色であれ、ティーカップの緻密な装飾であれ、日常の風景であれ、哀愁の漂う物語であれ。そんな彼女に言わせれば、枯れ山のように無地なノートに浮かぶ数学の無機質な記号は精神の死であり、絶望である。らしい。
この間ちょっと数学の教科書に喜んでいたと思ったら、虚数の方程式に出てくるωマークと括弧の組み合わせが顔に見える! かわいい! と叫んでいるだけだった。数学の美しさに気付いたのかと、ぬか喜びしてしまった僕である。
「はい、手痛い目にあって懲りたでしょ。普段から勉強しておこうね。学年末だから難しいよ、今回のテスト」
「……よく考えればだな」
彼女はパッケージも見ずに、また飴の積まれた山をまさぐっている。できるなら山の上の方から食べてほしいのだが。家に突然招くことになったから、底の方に僕好みの飴が混じっているのだ。多分彼女が食べたら泣く。
「うん?」
「留年とは一種のタイムトラベルなのではないかと思うのだよ。あの憎き数学教師は割と、学年が変わってもテスト問題を使い回す。まあ、噂だがね。生憎私に頼れる先輩は居ないが」
いやな予感がしたが、今はあえて口は挟まない。
「そして、だ。映画によく出てくるタイムトラベルには得てして代償がいるものだよ、だが私にそれは必要ない」
「なぜ?」
思わず返事をしてしまう。こういうときの彼女は放っておくに限るのだが。
「何故ならば、私が早生まれだからだ」
「……生まれ年は下の学年と同じっていうことかい」
呆れた目を送るが、気づいてはいないようだ。彼女の鼻息は心なしか荒いい。
「そうだ。つまり、バレない」
「バレるわ」
「そして、学費が余計に掛かろうと私には一切の負担がないのだよ。親持ちだからね」
「うわ、うわぁ」
ドン引いた僕は、思わず素っ頓狂な声を上げた。ムッとした顔になった彼女は、飴の山の底のほうに見つけたらしい一つを掴み出すと、やはりパッケージも見ずに口に放り込んだ。
一瞬止めようか迷ったが、罰だ。甘んじて受け入れろ。
「ぎゃっ!」
可憐な少女のような悲鳴。……いやまあ、実際可憐な少女なのだけれど。
「なんだこの味は! ペッ!」
言うなり吐き出した。慌ててティッシュで受け止める。僕の部屋で何をする。
「わさび味だよ」
「……許さんぞ、貴様、罠を仕掛けるとは……許さん」
世紀末覇者のような台詞を吐く少女の目は見開かれている。
「まだつーんって味がする……許せんぞ。私は帰るっ! 頼まれてもこんなところにいてやるかっ!」
いや、助けてくれって押し掛けたの君じゃない。
彼女は、コートも引っかけずに半分泣きそうな声で駆け出した。去り際に僕の頭を蹴るのを忘れずに。しばらく痛みにうずくまると、僕はゆっくりと頭を上げた。
よし、勝負だ。君が忘れていったコート片手に、君を追いかけて捕まえたら僕の勝利である。僕は自室を出て、階段を駆け下りた。勢いよく玄関をくぐり抜け、外の空気に飛び込む。
しまった、僕もコートを着ていない。
「わーっ、さっびい!」