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作者: るしょう
掲載日:2017/10/22

目を覚ます。起き上がる。布団から出る。来週末提出のレポートの資料が散らかった床を歩く。窓辺に立つ。カーテンに手をかける。


そして、私は期待する。

今日も雨ならばいいのに。




私には何もない。大学2年生になっても彼氏も男友達もいないし、女友達だって片手で数えられるくらいしかいない。容姿も勉強も運動も、コミュニケーション能力もユーモアも口の上手さも、私には何もない。

きっと私がこの長い黒々とした癖っ毛をショートヘアにしたり、染めたり、ストレートパーマをあてたりしても、誰も気が付かない。

私はそこに存在する。存在する、ただそれだけ。

そんなことはもうとっくに分かっている。だから余計に身分不相応に願ってしまう。

他には何もいらないから、私は彼の特別になりたい。


彼に恋をしたのは大学に入学したばかりのころだ。

私は通学に路線バスを利用していて、そこで出会ったのだ。

人目をひく大きな体は程よく筋肉質で、きっちりとしたスーツがよく似合っていた。堀の深い顔に清潔感のある短い髪。ビジネスバックをバスの座席の上の棚に置き、左手でつり革を、右手で文庫本を持つその姿はとても様になっていた。

特に彼のどこが気に入ったわけではない。でもこれは間違いなく一目ぼれで、私の恋の始まりだった。

彼がバスに乗ってくる日はいつも雨が降っていて、文庫本を持つ右の腕にミントグリーンの傘をかけていた。私は話しかけることも、かと言って目をそらすこともできず、ただただ彼の傘の先からポタポタと落ちる雫をずっと眺めていた。

彼は私よりも後から乗って来て、私より先に降りていく。

まるで私はそこに存在していないかのように、彼が私を気にかけることはなかった。

私だけが一方的に彼を知っている。

テレビの中の人を画面のこっちから見ているような感覚。

もっと知りたい。次第にそう思うようになった。

もっと知らないといけない。だって私は彼に恋しているんだから。


彼が乗ってくるバス停も彼が降りるバス停も知っていたから、彼のことをもっと知っていくのは簡単だった。

彼は私の家から3kmくらい離れたところに住んでいた。2LDKに一人暮らし。ペット不可の物件だけどこっそりウーパールーパーを飼っている。料理もまめにするタイプ。週に1回まとめ買い。辛い物が好きみたい。

仕事は彼が降りるバス停のすぐ近くだった。加工業者の営業さん。晴れの日は自転車で通勤しているけど、雨の日は仕方なくバスで通勤している。車が欲しいのか家では中古車の販売サイトをよく見ている。

名前は藤原祐樹。歳は24歳。誕生日は5月10日。血液型はB型。

知れば知るほど知りたくなる。

何もない私の空っぽなところを彼の情報で埋めたい。ただそんな純粋な欲求。

だって私には何もない。彼しかいない。




でもどんなに彼のことを知ったって、私が彼に直接接触することはなかった。

だけど好きなの。絶対好きなの。私は恋をしている。ごく普通の、恋。

だから、今日もこうして雨を期待してカーテンを開ける。

「よっしゃ」

小さい声でつぶやいた。

今日はどしゃぶりだ。


大学に行く支度を済ませてバスに乗る。

本当は今日は1限に講義は入っていないからこんな時間に行く必要はないけれど、彼が乗るバスはこの時間なんだから仕方ない。

私は迷わず、入口付近の座席に座る。彼はいつもその近くに立つから。

しばらくして、彼は期待通りに乗ってきた。今日のネクタイは深いグリーン。持ち物の傾向からして彼は緑が好きなんじゃないかと思う。

彼はいつも通り私に背を向けて立った。文庫本を取り出そうと鞄を開く。今日は何を読むんだろう。最近の彼はいろんな本に興味があるのか、ミステリーものと恋愛ものとノンフィクションの3冊を並行して読んでいる。どれも結末は気にならないのかなと不思議になるけど、でも彼らしさなんだと思う。そういうところも好き。

彼の手が鞄から文庫本を引き出した。今日はミステリーか。

と、文庫本に引っかかってイヤホンが鞄から飛び出した。そしてそれは私の足元に落ちた。

どうしよう。

動揺して彼を見つめたまま固まると、彼は焦った顔でこちらを振り返り、私の足元に探し物をみとめると、私に申し訳なさそうに笑いかけてきた。

拾わなきゃ。

常識が仕事をして私を動かす。

私は座ったまま赤と黒のイヤホンを拾い、顔を上げた。

彼はもうこちらまできていたようで、顔をあげた瞬間近距離で目が合った。

初めて彼の目に私がうつった。

心臓が止まる気がした。

「すみません。ありがとうございます。」

彼はそう言って私の手からイヤホンを受け取ると、もう一度私の目を見て困ったように笑い、いつもの立ち位置に戻っていった。

すみません。ありがとうございます。

初めて彼が私のためにくれた言葉。

今まで一方的だったはずの私と彼の関係が変わったことを感じた。

今まで彼の世界に私はいなかった。でも今、彼の世界に私はいる。

でも、ただそれだけ。存在する、それだけ。

不意に吐き気がしてきて、私はバスを降りた。


バスに傘を忘れた。そのことにバスが発車してから気が付いた。

まぁいいか。私は雨の中歩き出す。

冷たい雨が顔を打つ。流れる涙だけが温かかった。

私は彼のことを知っている。1年半かけて彼のことをいろいろ知ったから。

彼は今日、私のことを知った。でも興味は持たない。

これから先、彼は私を見かけてもあの時の子だとしか思わない。

何もない私の空っぽの器から、何かを探してなんかくれない。

なんて虚しい恋だろう。

私はスマートホンを取り出して、写真のホルダーを開く。

スーツの彼。部屋着の彼。どの豆腐を買うか悩んでいる彼。レジの店員さんに笑いかける彼。

私はこんなに彼を知っているのに……。

とめどなくあふれる涙をぬぐって、もう一度写真を見る。

5000枚を超える彼の写真が私の崩れそうな心を支えてくれる。

どうしたって私には彼しかいない。

何の自信もない私が、自信をもって言えるのは私は彼のことをとてもよく知っている、その事実だけ。

だから、どんなに虚しくたって、叶わなくたって、私はこの恋をやめるわけには行かないんだ。


この恋がこの先どんなに歪んでも、この恋は終わらない。



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