おかあさん
過去作品を掘り出して投稿しています。
伝わらない、どうして伝わらないのだろう。
もどかしくて仕方がない。
私はそんな自分に喝をいれるために、1人旅に出かける。ローカル列車を乗り継いでついた場所は雪景色が広がる温泉街。
傷心を癒やすため?そんな言葉を使えるほど自分は傷ついてはいない。染みついた母親からの愛情に、答えられない自分に苛立っているのだ。母親が自分の幸せを優先したいと言う言葉を、私が拒んだと思われたことが悔しいのだ。
『お母さん、再婚しようと思うの』
母娘2人でやってきたテーマパーク、出口に向かう時にぽつり、母親が告げた。横顔は年相応の皺が刻まれていたが、その言葉を告げた時、一瞬だけ彼女の顔はまるで10代の若い娘のようなつやつやとした肌に戻ったような気がした。
長年、娘を女手一つで育てあげた母親が、20歳も過ぎた娘に近頃嬉しそうに外食をしただとか、今度ここに行ってくるだとか、笑顔で話し始めたころから薄々気づいていた。母親は、再び大切にしたい何かを見つけたのか。
でも私は、自分の顔色を窺うように、こちらに伸ばした彼女の手を、出入り口の前で払いのけて夜行バスに戻った。
『……ごめんね。再婚、許して、くれないわよね』
疲れた顔で、ため息をついた母親は、そのまま夜行バスの中、私の横の席で目を閉じた。
それに耐えられなくなった私は、帰宅後そのまま荷物をまとめて家を出ることにした。置き手紙をしたし、20歳過ぎの娘が出ていくのは問題ないだろうと思い、何も言わずに家を後にした。
温泉街をとぼとぼと歩いていると、気づけばやんでいた雪が再び降り始めていて、母親に編んでもらった紫と白の縞模様のマフラーが、しっとり濡れていく。天気予報では快晴だと聞いて決めた暫定的な目的地だったのだが、雪が降るとは予想外。ただ冷えゆく外気に身体を震わせ、私は明確な目的もなく彷徨い歩いた。足は重く、歩みは鈍い。
吐く息は白く、感覚が薄れる頬に冷たくなった手をやれば、知らない間に頬は濡れていた。下に落ちれば落ちるほど冷たくなっていくその水滴は、唇に触れて口内に入れば舌にしょっぱいという刺激を与える。
泣いていることにようやく、私は気づいた。
「何で泣いているの、私」
温泉街は温かい光にあふれている、カップルが寄り添う姿に、母親が笑顔でその交際相手に寄り添う姿をだぶらせた。温泉街は楽しい笑い声で満ちている、子供が父親に駆け寄っていく姿に、亡き父親と、彼に駆け寄る自分の姿をだぶらせた。
とてつもなく、自分は母の再婚を聞き、寂しかったのだとさとった。
母親が、亡き父親を一筋に想っていたことは知っていたし、自分の父親は彼だけだと思っていたから裏切られたとでっも思ったのだろうか。母親が父親以外の誰かを愛するということを心が許せなかったのだろうか。
母はもう、十分その役目をやり遂げた。
母はもう、20歳過ぎて、大人になった自分がただ一心に頼っていい存在ではないのだと……分かりたくなかった、子供の自分がいたのかもしれない。
誰かにぶつかり、持っていた手荷物が雪の上に散らばった。黒いチェスターコートの誰かはそれに気づき、素早く腰をかがめた。ぼーっとしていた私が悪かったのに。震える声で謝罪を述べたはずが、もれでたのは小さなうめき声だった。
「大丈夫ですか?」
「だ、いじょぶです……」
「大丈夫じゃなさそうだけど…って…君……」
男性が見上げた事で俯いた私と彼は目があった。彼は心配そうな表情を見せた後に、何か驚いた表情をしてしばらく拾っていた手の動きを止めたのだった。
「あかりちゃん?」
「…え」
柳あかり。それが私の名前で、それを知っているこの男性。
少し年のいった、灰色の髪の色が混じったその姿。
馬鹿じゃなければそれだけですぐにわかるだろう。
彼は、私がさっきまで、母親を奪われたと、思っていた交際相手だ。黒いコートの肩についた雪の量からみて、少し前からこの降り積もりつつある雪の中を歩き回っていたのだろう。茶色のマフラーから少し見えた髭の頬は赤くなっており、鼻のてっぺんも赤い。
これでは真っ赤のとなかいだ。既にそんな季節は過ぎてしまったけれど。
「貴方が、ですか」
「…あかりちゃん、良かった……」
初めてあった相手に抱きすくめられることに、抵抗を感じたのは最初の数秒間だけだった。
仄かにしか覚えていない、5歳に死んだ父親と同じ、香水の匂い。それは母親が大好きな人にしか贈らない、シトラスとムスクの匂いがまざったその香水で……
――匂いに敏感だった私にもすんなり受け入れられた匂い。
「奈々子さんから電話がきたときは驚いたよ。この温泉街の方に向かっているんじゃないかと聞いて車を飛ばしたんだけど、思いのほか時間がかかってしまった」
「お母さんが、どうして」
「君は奈々子さんの娘じゃないか」
「…でも」
身体が離れたと同時に冷たかった頬を包み込んだその手袋は、まだ私が知らなかったときに、母親が必死に会社の同僚へと選んでいたそれだった。
「別に君の父親になろうとだなって思っていない」
「…私のお父さんは、お父さんだけですから」
「当然。奈々子さんもそう言ってたよ」
散らばった荷物を拾い切れておらず、手袋に挟まれた頬もすぐに解放された。一瞬だけ感じた温かみがなくなって一気に冷えてしまう。
「奈々子さんに3人で遊園地に行こうと言ったのは僕だったのにね」
「え」
「奈々子さんは、どうしても2人で行く。あかりちゃんにちゃんと言わなきゃいけないって譲らなかった」
頑固者だね、君のお母さんは。そう言って笑った目じりに出来る皺。そういえば母は交際相手がとても優しい笑みを浮かべる、と話していた。
そんなことを思い出す前に、と私は思いなおし、彼の横に座り込んで雪の上に広がった様々なものを拾い始めた。
化粧道具、歯ブラシ、櫛、かぶるのをやめた毛糸の帽子、財布、食べかけの冷めた肉まん、飲みかけのホットレモン。拾うのに苦戦している理由は、それらの荷物ではなく。温泉街に行くまでに購入した手芸の道具だった。
髪飾りを作ることは小さいころから大好きだった私は、母親の再婚を拒んだ時、すぐに後悔して、償いに作ろうと決意した。
花嫁のヴェールは、たとえ式をあげないで、近い友人だけを集めて食事会をする、と言ったとしても欲しいものでしょう?
人一倍女の子らしいものが大好きな母に、自分が笑顔を与えられるのは、いつもこの髪飾だったんだから。
「すごいビーズだね」
せっかく買った白いビーズも散らばって、白い雪の中に埋もれてしまった。全部を見つけることはかなわないだろう。そして濡れてしまったヴェールの布地は、洗ったら縮んでしまわないだろうか、黒ずみは取れるだろうか、と心配で仕方がない。
「本当にあかりちゃんは、親孝行な娘さんだ」
ビーズは諦めようと立ち上がった私の耳に、そんな言葉が飛び込んできた。見れば手袋を外してその指先で小さな一粒を拾い上げていた。
「もう、大丈夫ですからっ…手が赤くなってます……」
再びしゃがみこんでその手を止めると、彼は笑いかけた。
「花嫁のヴェール、だろう?奈々子さんと同じ考え方なんだなって思って…嬉しくも、悔しくなったよ」
「どういう、意味ですか」
「奈々子さんが、君に買っていたお土産だよ」
手の感覚がなくなりうまくポケットの中身が出せないのか、しばらく自分の吐く息で温めた後、彼が取り出したのは、遊園地のお土産用の小袋だった。感覚が完全になくなっている私の指の代わりに、器用に袋のテープを外すと、私の両手にふわり、強烈な赤い色が広がった。
遊園地で、母が再婚の話を切り出す少し前の話。
『これ可愛いけど、やっぱ遊園地のおみやげって高いなぁ』
『もう貴方、社会人じゃない……けちんぼね』
『将来のための貯金してるんだも―ん』
『そっかぁ……あら、あっちにお菓子がある!職場のお土産にどう?』
あの時見ていたのは、遊園地のキャラクターの1人がつけているリボンをモチーフにした花柄のリボンのヘアバンドだった。
そして今、私の両手にあるのはそれ。
「奈々子さんが言っていたよ、僕に興味を持ったのも、僕が服飾のデザインをやっていたからだって。君がいたからこそ、僕は奈々子さんに出逢えたも同然なんだよ」
いい加減寒いから車に戻ろう、奈々子さんが待っているから。そう言って彼は私の手を引いたが、私の足はその場から動いてくれなかった。
一体どんな思いで再婚の事を教えてくれたのだろうか。
どんな気持ちで、私が目をそらした時に謝ったのだろうか。
どんな気持ちで、このお土産を持っていながら、私の隣で眠っていたのだろうか。
「あかりちゃん」
「行って下さい」
私は最後の強がりを言った。
「私、明日には家に帰ります。今日もちゃんと宿をとってこの温泉街のどこかで一泊します。貴方は、お母さんと家に帰ってください」
私の瞳をしばらく見つめて考え込んでいたけれど、男性はそのまま頷いて私に背中を向けた。
「認めてくれなくても「いいです」」
認めるとか、そういう意味じゃない。
お母さんのためだ。
結局自分が縁をつないだものなのだと知った時、思ったのは、喜びだった。お母さんはこれで、寂しくないんだ、お父さんを失ってからずっと無理していたその空白を埋めてくれる誰かに出逢ったんだと……私の髪飾り作りと言う趣味をきっかけにして。
「お母さんをよろしくお願いします」
「……あかりちゃん」
私は凍ってしまった表情筋を動かして笑みを作った。
踏み出した足はまだびりびりとして感覚がないけれど、次に目に入った旅館に入ればすぐに感覚を取り戻すであろう。
身体も温泉につかれば芯から温まる。
そうすれば、一晩かけて、せっかく彼が拾ってくれたビーズを使ってとびっきり綺麗なヴェールを作ろう。
素直に認められなかった関係への、祝福の思いを込めて。
雪はどんどん降り積もっていく。私が残す足跡も、彼が車に向かっていく足跡も、明日の朝には消える。
でも、これから母と彼が歩んでいく道は、消えないことを祈って。
私は軽くなった足でスキップを踏んだ。