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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
9/103

護りたいもの(1)

 城の中庭は訓練場となっており、城つきの騎士たちが日々鍛錬に励んでいる。

 この国は数十年と戦乱のない平穏な地だったが、それでも騎士団の存在が不要になるはずはない。治安の安定の為、彼らは毎日のように剣を振るい、ひたむきに汗を流していた。

 壁に囲まれた中庭に、屈強な男たちの掛け声と剣戟が賑々しく響いている。汗の匂い、荒い呼吸、熱に溢れたような空気にも満ちている。

 マリエのような小娘は明らかに場違いで、その迫力に中へ踏み込んでいくこともできない。柱の影から密かに様子を窺うだけだった。

「殿下は、どちらに……?」

 呟きながら、恐る恐る視線を巡らせる。


 探していた姿はすぐに見つかった。

 革製の防具を身に着けたカレルが、中庭の中央へ進み出た。白金色の髪を揺らし、堂々と一礼する。そして声を張り上げた。

「手合わせを頼む!」

 マリエが耳にしたこともないような、猛々しく尖った声だった。

 相対するのは近衛隊長のアロイスだ。カレルを遥かに凌ぐ屈強な身体と、岩から削り出したような精悍な顔立ちのこの男は、三十代半ばにして隊長の徽章を国王陛下より賜っている。カレルとはマリエが城に上がる以前からの付き合いのようで、軽口を叩き合うほど親しい間柄でもあった。

 他の兵たちが車座になって囲む中、二人は共に刃引きされた剣を構える。

「殿下、この間申し上げた課題は覚えておいでですか?」

 アロイスは余裕たっぷりに問いかけた。

「間合いを読み誤ってはなりません。間合いの妙を活かすのです」

「わかっている。二度と同じ手は食わぬ」

 カレルが不服そうに言い返せば、アロイスは豪快に笑ってみせた。

「それと、手合わせの間は余計なことを考えぬことです。麗しのご婦人のことなど、刃を打ち合わせている時にうっかり思い出したりなさいませんよう」

 気安いからかいの言葉に、取り囲む兵たちからはどっと笑い声が起きる。

 ただ一人、カレルだけは忌々しげにアロイスを睨んだ。

「くだらぬ挑発をしても無駄だ。行くぞ、アロイス!」

「いつでもどうぞ、殿下」

 落ち着き払ったアロイスの言葉を合図に、カレルは素早く地面を蹴った。


 その様子をマリエは、柱の陰から見つめていた。

 剣術の稽古をしていることは前々から聞かされていた。稽古用の、刃引きした剣の手入れをしているところも見たことがある。だが、手合わせの瞬間そのものを目にするのは初めてだった。

 そこにはマリエの知らないカレルがいた。

 絶え間なく揺れ続ける白金色の髪も、相手を見据える青い双眸の険しさも、鬼気迫る面差しも。巧みに剣を操るその身のこなしも、食い縛った歯の間から零れる荒々しい吐息も、全てがマリエの知らないものだった。

 一気に間合いを詰めたカレルが、アロイスに向かって剣を振り下ろす。アロイスはそれを一歩も引かずに刃で受け止め、逞しい腕を振るってカレルの剣を弾いた。

「つうっ……」

 一瞬体勢を崩したカレルだが、すぐに剣の柄を握り直し、再度アロイスへ向かっていく。

 刃が激しくぶつかり、甲高く耳障りな金属音を立てる。

 マリエはその光景を息を呑んで見守っていた。


 今までは、話に聞くばかりだった。

 カレルが剣術の稽古をしていること、本を開いての勉強よりもよほど、剣術の方を好んでいるようだということ。そのせいかめきめきと腕を上げ、今では近衛兵たちもが一目置くほどの腕前であること。

 時々、マリエにも話して聞かせてくれた。剣を振るうことがどれだけ楽しいか、近衛兵たちにどんな言葉をかけてもらったか、そんなことを嬉々として語った。それをマリエも微笑ましい思いで聞いていた。

 だから、楽しいことなのだろうと思っていた。カレルにとっての剣術は、森へ散策に出かけていったり、馬を乗り回したりするような、よい気分転換の方法の一つなのだろうと思っていた。稽古をつけているのはカレルの身を守る近衛兵たちだから、きっと和やかな空気の中、楽しげに行われているのだろうと、勝手に思い込んでいた。

 だが、違った。マリエが初めて足を運んだ中庭では、まさに実戦さながらの稽古が行われていた。一瞬の隙も許されぬような緊張感の下、カレルも目をぎらつかせて汗を流していた。

 離れたところから見守るマリエは、あまりの事態に足が竦んで動けない。


 アロイスの剣がわずかに引いて、潰した刃が翻る。

 瞬時にカレルは跳び退り、手にした剣を構え直した。呼吸を乱し肩を上下させながらも、青い瞳は真っ直ぐに相手を見据えていた。

 今の表情に幼さはない。ただ剥き出しの闘争本能があるばかりだ。

「この……っ!」

 カレルは再び間合いを詰めたかと思うと、剣を上段から振り下ろす。

 重く、空を切る音がしたが、アロイスの剣は造作もなくカレルの刃を受け止めた。押し合う刃はどちらも引かず、ぎり、と不快な音を立てて鋼が擦れる。互いの震える腕が力を込める。剣は互いの顔に、触れんばかりに接近していた。刃を潰してあるとは言え、その振りを見れば額を割ることもたやすいように思われた。

「――殿下」

 マリエは祈る思いで主を呼び。正視に堪えず目を伏せた。

 恐ろしくて堪らなかった。どうしてあんな真似をするのだろう。守られるべき立場のあの方に、本物の戦いのように稽古をする必要などあるのだろうか。

 だがマリエの疑問をよそに、やがて中庭を揺るがすどよめきが上がる。

 マリエは弾かれたように面を上げ、とっさにカレルの姿を探した。そして地面に転がった剣と、その傍で地に伏したカレルを見つけ――愕然とした。

 カレルに刃の切っ先を向け、アロイスは悠然と笑んでいた。

「どうなさいました、殿下。こんなところでお休みになってはなりませんよ」

 アロイスが挑発的に尋ねると、カレルは顎を上げて荒い息をつく。

「休んでなどおらぬ、よろけただけだ……」

 見たところ怪我をした様子はなかったが、激しい打ち合いによる疲労のせいか、すぐには立ち上がれないようだ。しかし肩で息をするカレルに、アロイスも、取り囲む近衛兵たちも、誰も手を差し出さない。助け起こそうともしない。

 飛んで行って、手を差し伸べたい衝動にマリエは駆られた。だが彼らの中に割り込んでいく勇気はなく、差し出せぬ手を胸の前で握り合わせた。

「今日は終わりにしましょうか」

 剣を引くアロイスに、まだ疲れた様子はない。

 それを不服としたか、カレルは再び剣に手を伸ばす。立ち上がる間に一度よろけながらも、すぐにしっかりと直立した。

「まだだ」

 土埃に汚れた横顔を険しく歪め、アロイスに言い返した。

「もう一度、手合わせ願う」

「大丈夫ですか、殿下。この後は歴史の先生がいらっしゃるのでは? 疲れて本も開けぬようでは困りましょう」

 アロイスの問うたとおり、今日の夕刻には城つきの家庭教師がカレルの部屋を訪ねてくることになっていた。だからこそマリエも、カレルを呼びに中庭まで足を運んだのだ。

 しかしカレルは強く首を振る。

「案ずるな。もう一度だ」

「……いいでしょう。殿下は腕を上げられた、私も楽しくなって参りました」

 笑んだアロイスが再び剣を構える。

 カレルも深く息を吐き、ゆっくりと剣を握り直した。汗が流れ落ちるこめかみに、白金色の髪が張りついている。頬は上気し、肩は忙しなく動き、面差しには苦しげな色が浮かんでいた。それでも眼光の強さは失われない。

 マリエはその横顔に目を奪われ――そして我に返り、踵を返した。

 ふらつく足で中庭から、一目散に立ち去った。


 初めて、だった。

 カレルが剣を振るう姿を見たのも、カレルの内に備わった、闘争本能を目の当たりにするのも。

 もっと穏やかなお人柄だと思っていた。

 幼さは多分に残っているものの、理知的で、思い遣りにも溢れていて、温かで。マリエはカレルの性質を好ましいと感じていたし、マリエが思うカレルとは大切にされるべきであり、愛されるべきであり、守られるべき存在であるはずだった。

 なのにあの中庭で、カレルはまるで兵の一人として扱われていた。地に伏しても、剣を落としても、誰も手を差し伸べようとしない。カレルを守るべき近衛隊長が、敵に対してそうするように、真っ直ぐ刃を向けていた。

 なぜああまでして、あの方が剣術を学ばなくてはならないのか。あの方は守られるべき人なのに。あの方に、剣を取り、何かを守る必要なんてないはずなのに。


 一足先に主の居室へ戻ったマリエは、胸裏で中庭の光景を何度も何度も反芻していた。

 そしてその度に悪寒が走り、酷く落ち着かない気分になった。

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