あなたの影になりたい(4)
茶菓子が一通り片づいてしまった後、ルドミラが切り出した。
「ところで、これから……どうするの?」
空になった大皿を所在無く眺めていたアロイスは、その言葉に視線を上げる。
カップを卓上に置いたルドミラは、こちらの出方を窺うような目を向けてきた。
「まさか、お茶が済んだらすぐ帰れ、なんて言わないでしょう?」
そう言われて、アロイスは窓の外を見やる。
太陽はようやく中天に辿り着き、後は下るだけという頃合いだった。昼食代わりに茶菓子をいただいたお蔭で腹は膨れたが、確かにこれからのことは何も考えていなかった。
積もる話はある、だがその話をこの不作法極まりない部屋で続けてもいいものか。視界の隅に寝台が映り、内心で強くかぶりを振る。
ここにいるのはまずい。場所を移した方がいい。
「どこかへお連れしましょうか」
アロイスが提案すると、ルドミラは嬉しそうに瞳を輝かせた。
「まあ、どちらへ?」
「あなたのお望みの場所があれば、そちらへ」
「わたくしが選ぶの? そうね……」
唇の前で十指を組み、しばし沈思した後、令嬢は言った。
「あなたのことがもっとよくわかる場所がいいのだけど」
「難しいご注文です」
「あら、あなたが聞いたのでしょう。言わせたからには叶えてちょうだい」
たちまちルドミラは不服そうにする。
彼女の言うことももっともなので、アロイスは仕方なく注文に相応する場所を検討してみる。
しかしこの部屋以外に自分のことがよくわかる場所などあるだろうか。普段、アロイスが立ち入るところと言えば主の居室、その他に主が行き来する城内のいくつかの部屋、中庭、それに宿舎の食堂――どこもルドミラの要望に適うとは言いがたい。
もう一つ、心当たりがあるにはあるのだが、
「……あまり面白みのない場所ですが」
アロイスが気遣うつもりで警告すれば、ルドミラは小首を傾げてみせる。
「わたくしにとっては、違うかもしれないでしょう?」
真昼の宿舎は人気が少なかったが、それでも重々警戒しながら部屋を出た。
何を見ても物珍しそうなルドミラを伴い、アロイスが足を運んだのは宿舎の最上階にある重厚な扉の前だ。鍵を開けて中に入れると、ルドミラは興味深そうにきょろきょろし始めた。
「ここは?」
「私の執務室になります」
居室の倍の広さがある執務室には、どうにか体裁を整えられる程度の調度が揃っていた。
壁には数点の絵画がかけられ、騎士団の紋章をあしらったタペストリーや、模造品の盾や剣も飾られている。部屋の最奥に位置する執務机はクルミの木材でできており、油を染み込ませた布で丁寧に磨き上げられて美しい光沢を放っている。卓上には使い込まれた書見台や羽ペン、インク瓶などの他、短くなった蝋燭をいくつも並べた燭台が置かれていた。
「わたくしを入れても大丈夫なの?」
室内を見回した後、ルドミラは慎重に尋ねてきた。
窓といえば天井近くにある細い明かり窓のみ、壁際に一つだけ置かれた戸棚には大きな錠前がかけられている。入り口近くの棚には年季の入った鉄製の兜や籠手が無造作に並べられていて、やはり客人を招く部屋には見えなかったのだろう。
「ここには大したものはございません。私も滅多に立ち入らぬ部屋です」
近衛兵の任務で扱う城内見取り図や公務日程表、あるいは公務で城下へ向かう経路図などは、城内から持ち出してはならない決まりがある。
アロイスが宿舎へ持ち込める仕事はそう多くはなく、執務室に立ち入るのは取るに足らない申請書に決裁を下す時か、そうでもなければ一人になりたい時くらいだ。
「滅多に入らないとは言え、あなたも執務なんてするのね」
ルドミラが大仰に驚いてみせたので、アロイスも冗談めかして応じる。
「私が剣だけを振り回す男だとお思いでしたか」
「いいえ。だけど机に向かう姿だけはどうしても想像がつかなくてよ」
楽しげな彼女の為に、アロイスは執務机の椅子を引く。ここの椅子は居室の椅子よりもましな造りをしていたが、一脚しかないのは相変わらずだ。
「ルドミラ嬢、どうぞ」
ところがルドミラは気遣わしげにそれを拒んだ。
「お一つしかないのでしょう。あなたが座るべきじゃなくて?」
「そうは参りません。あなたを立たせておくのは無礼の極み」
「いつだったか、わたくしを片腕に抱えて運んだ方の言うことかしら」
悪戯を仕掛けるような顔つきで、ルドミラはアロイスが引いた椅子を手のひらで示す。
「わたくしのことは構わず、あなたが座って」
「しかし……」
「もう、わからず屋ね。あなたに座ってもらいたくて言っているのに」
ルドミラが溜息をついたので、アロイスは釈然としないながらも椅子に腰を下ろした。
するとルドミラは軽やかな足取りで近づいてきて、アロイスの膝の上にすとんと座る。
「……あの、ルドミラ嬢」
「何かしら?」
「なぜ、私の膝の上にいらっしゃったのです」
「たまにはいいでしょう? まさか重いだなんて言わないでしょうね」
重さはさほどでもない。
だがその程よい重さ、ドレスの生地越しに感じる人肌の温もり、そして膝の上に乗られただけでわかる身体の柔らかさがアロイスを戸惑わせた。
ちょうどごく最近、人肌が恋しいと思ったばかりだった。
主の部屋の前、たった一人で見張りをしたあの一夜、アロイスは独り身の寂しさを嘆き幸福そうな主を心底羨んだ。
あの時求めてやまなかった温もりが今、膝の上にある。
目の前にはつややかな栗色の束ね髪と、透き通るように白いうなじがある。息を吹きかけたくなる衝動をどうにか堪えて、アロイスは膝の上の彼女にせがむ。
「降りていただけませんか」
「嫌よ」
ルドミラは朗らかに即答した。
そして背中を倒し、アロイスの胸に身を預けるようにもたれかかってくる。
ルドミラの高い位置で結い上げた髪が、アロイスの髭を剃っておいた顎に触れる。思っていた以上に柔らかく、くすぐったい。春先に咲く花のようないい香りがする。
抱き締めてもいいものだろうかと思う。
しかし抱き締めたとして、その後は。それだけで済むだろうか。
自制心を懸命に働かせるアロイスをよそに、ルドミラは深く息をつく。
「荷物を増やしたくないって、あなた、さっき言っていたわね」
「ええ」
つい先刻交わした会話だ。アロイスは首肯しようとして、唇に触れた栗色の髪に戸惑い、やむなく明後日の方角を見やる。
「しかし私の荷物は既に増えてしまいました」
「それって、わたくしのことでしょう?」
「よくご存知で」
「他にどなたかいらっしゃったら困るわ」
冗談でもない口調でルドミラは言うと、アロイスの胸に頭をつけたまま視線を上げる。
アロイスからは、こちらを見上げるさかさまでも美しい顔立ちと、灰色のドレス越しにもわかる小ぶりだが形のいい胸が見える。
「ルドミラ嬢、そろそろ本当に降りていただきたいのですが」
「まだ座ったばかりじゃない。もう音を上げたのかしら」
「そういうわけでは……」
「なら、もう少しこのままがいいわ」
ルドミラは容赦なく言い放った後、アロイスの膝の上で身体を丸めてくすくす笑った。
「わたくしはね、あなたの荷物を増やして差し上げたいのよ」
「もう十分増えております」
「これだけ大きな手と立派な腕をお持ちなら、まだ持てるでしょう?」
手持ち無沙汰で宙に浮くアロイスの腕を、ルドミラのほっそりした手が撫でる。
柔らかい肌の感触。眩暈がする。
「あなたに差し上げたいものがあるの。受け取ってもらえるかしら?」
「いかような品でございましょうか」
ルドミラの申し出に、アロイスは即答を避けた。
するとルドミラはアロイスの手を取り、わずかに開かせると、その掌中に何か硬く小さなものを滑り込ませてきた。
「拝見しても?」
「ええ、どうぞ」
了承を得てから手を開く。
アロイスの分厚い手のひらの上に、見慣れない小さな鍵がある。
光る真鍮でできたその鍵には小さな房飾りがつけられていた。房飾りは栗色の糸で作られており、まさしくルドミラの結い上げた髪を思わせる。
「……これは?」
訝しく思ったアロイスが尋ねると、ルドミラは朗らかに応じた。
「見ればわかるでしょう、鍵よ」
「それは存じております。一体、何の鍵でございますか」
「わたくしの寝室の鍵よ」
続いた回答に、アロイスの思考が一瞬だが停止した。
ルドミラが後ろを振り返る。アロイスの顔を見て、予想以上の反応だとばかりに笑いを堪えてみせる。
「あなたの驚く顔が見たいと思っていたの」
「ご令嬢……からかっておられるのですか」
「いいえ、その鍵は本物よ。二本あるから、わたくしとあなたで一本ずつね」
屈託なく続けるルドミラの考えが、アロイスにはわからなかった。
無論、寝室の鍵を手渡されるその意味自体はわかる。だがその鍵を使うべき扉はこの城にはなく、ルドミラが住まう邸宅にあるのだろう。主を警護する任務上、令嬢の居宅がどこにあるのかアロイスは知っている。だが個人的な用向きで訪ねたことは一度もないし、この先も起こり得ないだろう。
アロイスが手の中の鍵を見つめて黙ると、ルドミラは不服そうに鼻を鳴らした。
「せっかく差し上げたのに、喜んでくれないのね」
「お言葉ですが、あなたのお気持ちを測りかねております」
「なぜ? その鍵を持っているのは、わたくしの他はあなただけなのよ」
普通の男であれば、こんな鍵を渡されようものなら手放しで喜ぶのだろう。そして真っ先に『いつ使うか』を考え始めることだろう。現にアロイスでさえも、いち早く考えたのは鍵を使えるかどうかという事柄だった。
だがアロイスにこの鍵を使うことはできない。二人を隔てる身分の差が、それを叶えることはないはずだった。
「では、お守りとして大切にしまっておきます」
アロイスは考えられうる限りの模範解答を口にしたつもりだった。
だが振り向いたルドミラは、眉を逆立てアロイスを睨んだ。
「しまっておくのは駄目よ、使っていただかないと」
その言葉にアロイスは面食らい、膝の上で複雑そうにするルドミラを見つめ返す。今は吐息がかかるほど近くにあるその顔は、愁いを帯びた表情さえも息を呑むほど美しかった。
「使う為にはお休みが必要でしょう。あなたがもっとお休みを欲しがるようになればと思って、その鍵を差し上げたのだけど」
ルドミラがそう言って、アロイスの頬に柔らかい手を添える。
膝の上の温もりをいよいよ離しがたいと思い、アロイスは口を開く。
「無茶を仰います。私が何度お暇をいただこうと、あなたのお屋敷を訪ねていくことなどできはしません」
「あなたはもう少し賢い方だと思っていたわ」
失望というよりは、それこそからかうようにルドミラが言った。
「そのくらいの機転はいくらでも利かせられるでしょう。殿下のお使いでもいいのだし、吟遊詩人のふりをするのでも、仕立て屋に化けてくるのでもいいわ。何なら盗賊のように窓から入ってきてもよろしくてよ」
主の威を借るつもりはアロイスにはなかったし、それ以外の案はどれも非現実的に思えた。
だがルドミラはすこぶる楽しそうに語る。
「とにかく、わたくしはあなたにその鍵を使いたいと思って欲しいの。それだけよ」
アロイスは今一度、手渡された真鍮の鍵を見つめた。
この鍵が自分の手元にある限り、寝室の扉を開けることはルドミラ自身にしかできない。それはある意味、彼女なりの未来に対する確約のつもりなのかもしれなかった。
翻ってアロイスは、次の約束もできぬような男だ。今まで通りの暮らしを続けるなら、次に暇を貰えるのは何ヶ月、何年先になるかもわからない。主の恩情を待たない限りは次の機会などありえなかったことだろう。
ルドミラはそんなアロイスの考え方を揺るがし、そして会えない間も心変わりしないことを誓ってみせた。彼女らしい、明朗かつ潔いやり方で。
「少しはその鍵を使いたいと思ってくれたかしら」
そんな彼女が問いかけてくる。
葛藤の果てに、アロイスは誤魔化しようもなく答えた。
「ええ、とても」
「それなら、その時まで大切に取っておいてちょうだい」
膝の上のルドミラが上体を傾け、アロイスの胸に頬を寄せる。甘えるように目をつむり、体重を預けてくる。
「……そしていつか、鍵を開けに来て」
身体の重み、温かさ、そして囁く吐息が胸に触れた。
アロイスは黙って、手の中に大切な鍵をしっかりと握り込んだ。
次の瞬間、自制やためらいやもう少し保身的な考えが何もかも吹き飛んで、アロイスは膝の上のルドミラを抱き締めた。
両腕で柔らかい身体を潰さぬよう、それでも力を込めて抱く。ルドミラが苦しそうに身じろぎをした後、顔を上げたので、了承も得ぬうちから唇を奪った。
「ん……」
困惑の色が窺える声を漏らしつつも、ルドミラは抵抗しなかった。唇を触れ合わせながら首筋を撫でられても、抱き締める両腕に知らず知らず力が入っても、息継ぎさえ許さぬ口づけが長く続いても、一切を受け入れてくれた。
二人分の体重を乗せた椅子が軋む音が、静かな執務室に何度か響いた。
その後に、二人分の深い吐息がほぼ同時に零れる。
「相変わらず、肝心な言葉は足りない方ね……」
ルドミラは頬を赤らめ、瞳を潤ませつつもそう言った。
「わたくしの唇を奪う前に、もう少し何か言うべきことがあるのではなくて?」
「あなたが私の膝の上に座らなければ、もう少し頭も働いたことでしょう」
アロイスが本心から反論すると、ルドミラはようやく気づいたというように瞠目した。
「それであなたはわたくしに、膝から降りるよう再三言っていたのね」
「ええ、申し上げた通りです。あなたはなぜだとお思いでしたか」
「てっきり、本当に重くてお嫌だったのかと思っていたわ」
そう言うとルドミラは、アロイスの膝の上に乗ったままころころと笑い始める。
アロイスは呆気に取られてその無垢な笑顔を見下ろした。聡明な口調で自分を諭してみたり、女らしく誘惑してみたり、時にこうして若い娘らしく笑い転げてみたりと、彼女には一体どれほどの顔があるのだろう。
「それならそうと、どうして正直に言ってくれないのかしら」
ルドミラが笑いながら尋ねてくる。
少しばかり悔しい思いを覚えつつも、アロイスはやはり正直に答えておく。
「あなたのことで頭がいっぱいだという事実は、私には申し上げにくいことです」
「おかしな方ね。わたくしはそれが聞きたくて会いに来ているのに!」
そうしてルドミラはまた笑う。若い娘らしく、ころころと、屈託なく。
アロイスは笑われている現状に呆然としつつも、その笑顔には言い知れないいとおしさを抱いた。
もっと彼女のことを知りたい。
そう思うようになったら、もはや心は決まったようなものだ。
そして、その為の時間はいくらあっても困ることはない。
朗らかな笑い声を聞きながら、アロイスもいつしかつられて笑んでいた。
鍵は既に手の中にある。自分が求めてやまないものも、今は腕の中にある。もうじき手離さなくてはならないが、離れがたいと思うなら、次の機会を得ればいいだけのことだ。




