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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
後日談
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あなたの影になりたい(2)

 秘密の酒盛りから半月ほど過ぎたある晩のこと、

「お前には明日一日の休暇を与える」

 主の居室に呼び出されたアロイスは、当の主から突然の宣告をされた。


 まさに藪から棒の通達に、さしものアロイスも面食らった。

 慌ててひざまずきながら聞き返す。

「どういうことでございましょうか、殿下」

「どうも何も、お前が申したのではないか。暇が欲しいと」

 椅子に腰かけたカレルが、訝しそうにアロイスを見下ろしてきた。

「私はお前の望みに応えてやったまでのこと、何を慌てておるのだ」

「お言葉ですが、私はそのようなことを具申いたしました覚えは――」

「口ではそう申すだろうと思っていた」

 にやりと笑んで、カレルがアロイスの反論を封じる。

 どうやらあの晩のやり取りにおいて、こちらの意図は上手い具合に主へと伝わったらしい。正直に暇が欲しいと請える立場ではないアロイスにとって、主の察しのよさがありがたかった。

 そこでアロイスもやむなく――表向きはあくまでも『殿下のご命令で仕方なく』、暇をいただくことにする。

「しかし畏れながら申し上げれば、全く急なお知らせでございました」

「許せ。こちらにも折衝の必要があったのだ」

 近頃のカレルはアロイスの目を盗み、近衛兵達を集めて何かこそこそと話をしていたようだった。

 その動きをアロイスが把握している時点で盗み切れていないということではあるのだが、ともかくもこういう相談であることも想像はついていた。無理に捻じ込んだ休暇のようだが、果たして一日を安穏と過ごせるだろうか。

「まあ、お前にとっては急だが他の者達にとってはそうでもない」

 カレルは平然と言ってのけると、もう一度得意げに唇を歪めた。

「案ずることなく貴重な休日を謳歌するがよい」

 察しのいい主は、同じ勘のよさをアロイスにも期待するかのように会話をそこで打ち切った。

 どのように休暇を過ごせとも、アロイスの休暇を他に誰が知っているのかも、何一つ教えてはくれなかった。


 かくして近衛隊長アロイスは、降って湧いたような一日の休暇を得た。

 前の日の晩に告げられたばかりなので、当然ながら予定があるわけではない。それでも夜明けとともに起床した。以前の反省を踏まえ、起きてすぐに顔を洗い、清潔なシャツに着替え、髭もきれいに剃っておく。

 それから私室を見回して、掃除でもしておくかと思う。客人があると知っているわけでもないのだが、気を配っておくに越したことはない。窓も開けて、換気もしておくべきだろう。


 掃除をしながら考える。

 自分は、こんなことをしている場合ではないはずだ。

 部下達が当たり前のように任務に就いている今、休みなど貰っていていいのだろうか。やるべきことはいくらでもある。訓練の指導、公務日程の管理と警護任務の作戦立案、装備品の検分に士気を高める訓示――それに何よりも、これからのことを考えなくてはならない。


 軋む窓を開け放つと、風に乗って微かな緑の匂いが漂ってきた。

 騎士団の宿舎は城の敷地内にあり、最上階である三階から望めるのはそびえ立つ城の姿だけだ。その向こう側にある人工の森の姿はわずかも見えない。

「あと何年……」

 窓辺にもたれて、アロイスは嘆息した。

 あと何年、城にいられるかはわからない。恐らくカレルにさえ明確には掴めていないはずだ。しかし刻限は必ず訪れる。その時までにアロイスには、後任を選ぶという重要な仕事がある。一応、二人ほど候補を見繕ってはいるのだが、しかしようやく掴んだ隊長の位を、国王陛下より直々に賜った徽章を誰かに譲らなくてはならないことには心が揺れる。

 城を去った後、自分はあの森の向こうでどんな暮らしをするのだろう。

 そのことだけはいくら考えても、霧がかかったように浮かび上がってこない。

 そしてそういった思索を遮るように、浮足立つ気分もまた自覚する。朝の光に照らされた私室はどうにも見慣れず、そこをまめに掃除している自分にも違和感を覚える。普段は任務の後で寝る為だけに戻ってくるこの部屋が、寝台と机と戸棚しかないようなここが、ようやく人間の暮らす部屋らしくなってきたように思う。部屋の隅に置かれた軽装鎧でさえ、朝日の中では趣ある調度品のように映った。

 もっとも、かの令嬢が見ればその意見には真っ向から異を唱えるだろうが――。

「……来ると決まったわけでもないのに、何を浮かれているのか」

 自戒を込めて呟いた。

 しかしそう口にしたところで、アロイスが『彼女』の来訪を期待しているのは隠しようのない事実だった。


 一通りの掃除を終え、部屋に一脚しかない椅子に腰かけ人心地ついたその時だった。

 兵として研ぎ澄まされた鋭敏な聴覚が、遠くから歩いてくる足音に気づいた。

 アロイスは腰を浮かせかけて、しかしすぐ椅子に座り直す。扉の前で待ち構えているようではいかにも浮かれすぎていると思う。ここはそ知らぬふりで、来るとは思わなかったという体でいるのがいい。

 それに、違うような気もしたのだ。

 かの令嬢の足音はいつも軽やかで淀みがない。そして美しいドレスの衣擦れの音と共にやって来る。髪は大抵高く結い上げていて、その束ねた先が空を切る音まで聞こえてくるような、闊達な歩き方をする。


 だが今、この部屋の廊下を行く足音はそれとは違う。

 かと言って兵達の力強く、時に無骨な足取りとも違う。

 どちらかと言えばしずしずと、慎み深く歩いてくるような――よく見知った相手で言うなら、城内を歩くマリエの足音に近いように感じた。

 とは言え彼女が、休暇中の自分を部屋まで訪ねてくるとは考えがたい。何より彼女も今時分は務めに勤しんでいるはずだ。まさか不測の事態でもあったかと、アロイスは密かに身構えた。


 静かな足音はアロイスの部屋の前で止まり、扉が控えめに叩かれた。

「アロイス様、ミランでございます」

 告げられた名は更に予想外のもので、アロイスは目を瞠った。

「ミラン殿、一体何用です」

 聞き返すと、声変わり前の少年は高らかに応じる。

「殿下より託されたものがございます。お届けに上がりました」


 マリエの弟、ミランが城に上がってからまだ一月も経っていない。

 しかしその働きぶりはそつがなく、また聡明な少年のようで物覚えもいいらしい。カレルとマリエが揃って誉めそやすのを、アロイスも微笑ましい思いで見守っていた――お二人の間に御子が生まれたらこんな様子だろうかと、時々想像を巡らせている。

 ちょうどこの少年は姉に、こと城に上がったばかりの頃のマリエの面影があり、アロイスにとっては懐かしいほどだった。


 もっとも、アロイス自身はこれまでミランとほとんど口を利いたことがない。

 突然の来訪に首を捻りつつ扉を開けると、黒髪の少年は微かに笑んで立っていた。

「お休みのところを申し訳ございません」

 ミランはきれいにお辞儀をすると、覆いをかけた大皿をアロイスへ差し出した。

「こちらはカレル殿下より差し入れでございます」

「差し入れとは、一体……?」

 アロイスは思わず目を瞬かせた。

 するとミランはにっこりして、ほんの少し誇らしげに覆いを取り払う。

 その下には皿に盛られた可愛らしい茶菓子が並んでいた。リンゴの四角い包み焼き、蜂蜜を添えた軽いビスケット、白い陶器の中で焦げ目をつけたクリーム焼と、一人分にしてはいささか多いくらいの品目が並んでいる。無論アロイスも兵士として食欲旺盛な方ではあるが、日頃から茶を嗜む習慣はない。

 となればこれは、アロイスの為のものではないと見るのが自然だろう。

「殿下がこれを、私にと仰ったのですか?」

 確認として尋ねれば、ミランはこくんと頷いた。

「はい。殿下が仰るには、アロイス様に届ければわかることだからと」

「なるほど……」

 それでアロイスも全てを察する。

 どうやら自分の読み、もしくは期待は間違っていなかったようだ。

 見れば茶菓子の出来はどれも素晴らしく、明らかに客人用として作られたものだった。

「ありがたく頂戴いたします」

 アロイスは恭しく大皿を受け取り、それから得意そうなミランに告げる。

「これはマリエ殿が作ったものでしょうな。いつもながら素晴らしい出来栄えだ」

 その言葉はどちらかと言えば料理人よりも、彼女を慕ってやまない弟に宛てた称賛のつもりだった。ミランは歳の離れた姉をとても慕っており、姉の言葉一つで喜んだり照れたりするそぶりは傍で見ていても実に可愛らしいものだった。

 ところがアロイスの発言を聞いたミランの表情からは、瞬時に微笑が消えた。

 代わりに浮かんだのは猜疑に満ちた眼差しだ。

「なぜ、姉が作ったものだとおわかりになったのですか?」

 明らかに低くなった声に問いかけられ、アロイスは眉を顰めた。

「何が、です」

 何かおかしなことを言っただろうかと少年を見下ろせば、さしものミランも百戦錬磨の眼光には臆したのだろう。気まずげに目を逸らしてみせる。

 それでも口ぶりは強気に続けた。

「いえ……一目見ただけで誰が作ったかおわかりになるのは不思議なことではございませんか。私だって菓子作りはいたしますし、誰が作ったと申し上げたわけでもないのに」

 アロイスはミランの言わんとするところを推し測ろうと試み、そしてふと、あることを思い出す。


 ほんの少し前、この少年が城に上がって間もない頃に、カレルがアロイスに対してぼやいていたことがあったのだ。

『彼奴はどうも、私とマリエの仲を疑い始めているようだ』

 その時は疑うも何も、と思ったアロイスだったが、こうしてミランから疑いの眼差しを向けられてみてようやくわかった。

 どうやらミランはカレルとマリエの関係を疑っているのではなく、姉と近しい可能性のある男全てに探りを入れているようだ。どういう経緯で姉に恋仲の男がいると知ったのかは定かではないが、疑わしいものはとりあえず疑うというのはいかにも歳相応の嫉妬ぶりだと思う。

 無論、アロイスに後ろ暗いところはなく、疑われたとして痛くも痒くもない。

 だが主の不利益となることであれば――と言ってもさしたる痛手にもならないだろうし、いつかは知れることではある。ただあれだけ幸福そうなカレルを見た後では、今はただ平穏なばかりのその恋路に、わずかな差し障りもあって欲しくはないとアロイスは思う。ここは忠臣らしく庇っておくかという気にもなる。


「私がそれを看破したとして、何の問題がありましょうか」

 アロイスがそう答えると、ミランは姉によく似た顔立ちをはっと強張らせた。

「問題は……ございません、ですが――」

「では、あまり探り立てるのは行儀のよいことではないでしょう」

 さりげなく釘を刺しつつ、更に続ける。

「それに、あなたの姉上はあなたを欺くような人ではないはずです」

 姉について触れらると、ミランはあからさまに動揺した。

「そ、それは、仰る通りです」

「ならば姉上を信じなさい。もしあなたに明かしてない秘密でもあるとすれば、それはまだ話す時ではないと思っているからに違いないと」

 そんな少年に、アロイスはあくまで穏やかに諭した。

 それがどこまで響いたか定かではないが、複雑そうな面持ちでミランが顎を引く。

「はい……」

 アロイスを見上げる眼差しはいくらか和らいだが、尚も穏やかとは言いがたかった。

 どちらかと言えばとくと検分するようでもあった。姉の恋人にしては歳が上すぎる、とでも思っているのかもしれない。

 何にせよ忠臣としての役目は果たしただろう。

 胸を撫で下ろしたアロイスの耳に、

「あら、お客様がおいででしたの?」

 全く唐突に、ルドミラの声が届いた。


 とっさに振り向けば、宿舎の廊下を歩いてくる令嬢の姿がある。

 本日はふんわりと柔らかい絹の、灰色のドレスを身にまとい、耳に心地よい衣擦れの音を立てながら、足取りは相変わらず軽快にやってきた。相変わらずお供の一人も連れぬ豪胆さで、しかしアロイスへ向ける表情は怪訝そうだ。

「こちらは……お城勤めの方?」

 そしてミランもまた瞬きをしながら突然の来訪者を見つめている。相手が身分貴き婦人と見てか姿勢だけは正したが、どことなく反応に困っている様子でもあった。

 そういえばこの二人は初対面のはずだ。

 アロイスは大皿を手にしたまま、ひとまずルドミラに告げた。

「ルドミラ嬢、彼はミランと申しまして、マリエ殿の弟でございます」

「ええっ!?」

 ルドミラは口元に手を当て、驚きの声を上げる。

「マリエに、弟がいたの?」

「はい。十歳になったばかりで、まだ城に上がったばかりでございます」

「まあ……。殿下はそういうことはお手紙に書いてくださらないのね」

 呆れるルドミラをよそに、今度はミランに彼女を紹介する。目の前にいるのが由緒ある貴族の令嬢だと知らされたミランは、慌てて深々と一礼した。

「これは失礼いたしました。お初お目にかかります、ルドミラ様」

「ええ、初めまして。お顔を上げてちょうだい、ミラン」

 ルドミラはミランに面を上げさせると、まだあどけなさの残る少年の顔をじっくり眺めた後、くすっと笑んだ。

「あなたってお姉さんに驚くほどそっくりね。よく言われるでしょう?」

 たちまちミランはわかりやすく頬を紅潮させ、黒い瞳を泳がせる。

「あ、あの、殿下も仰ってはおりましたが、私は……その……」

「似ていると言われると嬉しいのね、可愛らしい弟君ですこと」

 ルドミラの言葉にミランはとうとう耳まで赤くなり、深く俯いてしまった。

 これ幸いと、アロイスはミランを促す。

「そろそろ戻られてはどうですか、ミラン殿。きっと殿下もお待ちのことでしょう」

 するとミランもどこか安堵した様子で頷いた。

「は、はい。それでは失礼いたします」

 そしてルドミラに向かって改めて一礼し、アロイスには若干物問いたげな目を向けた後、宿舎の廊下をやはり慎み深い足取りで去っていく。


 その小さな背を見送るアロイスは、内心舌打ちしていた。

 ルドミラの来訪は全く間の悪いことこの上なかった。男の部屋にうら若き令嬢が単身訪ねてきたことをあの少年がどう捉えるかはわからないが、もしも真実を引き当てたならその次はアロイスが庇い立てた相手にも行き着くことだろう。余計な気を回してしまったのかもしれない。

 もしも姉の想い人が絶対の忠誠を誓うべき王子殿下と知ったら、あの少年はどんな行動に出るのだろう。


 そんな事態を想像しようとしたアロイスを、しかしルドミラの笑い声が現実へ引き戻す。

「本当にそっくりね、マリエとミラン。歩き格好までよく似ていてよ」

 彼女が目で追っていた後ろ姿は、とっくに見えなくなっていた。

 いえ、見た目はともかく中身の方は全く似ておりません――という言葉を飲み込み、アロイスは傍らの令嬢に向き直る。

「ところで、あなたはなぜこちらに?」

 そう尋ねると、ルドミラはおかしそうにアロイスを見上げる。

「よくご存じのはずのことを聞くのね。そんなにお髭をきれいに剃っておいて」

 痛いところを突かれてアロイスは口を噤んだ。

 もしかすると今日は、下手な小細工がことごとく外れてしまう日なのかもしれない。

「とりあえず、婦人を立たせたままでいるのはどうかしら。お茶菓子もあるようだし」

 ルドミラはアロイスが手にした大皿に目をやった後、語を継いだ。

「せっかくのお休みなんでしょう? まずはお茶にいたしましょうよ」

 そのねだるような口調には胸がざわめいた。


 浮足立っているのを悟られなければいいが。

 そう思うアロイスだったが、こんな時分から髭を剃り、着替えを済ませ、部屋の掃除を終えている時点で看破されても仕方がないのだった。

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