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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
後日談
81/103

種蒔く日々の移ろい(10)

 マリエはその朝、カレルの為に心を込めて朝食を用意した。

 温かいキャベツとジャガイモのスープに、ぱりっと焼いた鶏の胸肉の網焼き、柔らかく茹でた豆のサラダ、ラベンダーを利かせた蜜がけケーキ――昨夜の質素な食事はやはり物足りなかったと見えて、カレルはマリエの努力に報いる健啖ぶりを発揮した。

 その食事風景を、マリエは傍らでじっと見守っていた。カレルが幸せそうな面持ちで食事に舌鼓を打つ姿が、今朝はことさらに貴いものに思えてならなかった。


「やはりお前が作る食事の方が美味いな。比べようもない」

 カレルからの誉め言葉も、昨日までとは違う格別の響きがあった。

「嬉しゅうございます。殿下に喜んでいただきたくて、心を尽くしました」

 マリエがはにかむと、カレルはそれを見上げて目を細める。

「お前も私を喜ばせるのが上手くなったな。今の言葉はなかなか効いたぞ」

 花を愛でるようなその眼差しが、寝不足の肌を優しく撫で上げ、昨夜の記憶を呼び覚ます。

 マリエは熱を持つ頬に手を当て、慌てて語を継いだ。

「あの……ところで、殿下。一つお願いしたいことがございます」

「申してみよ」

「わたくしに、弟を迎えに行く役目をお任せいただけないでしょうか」

 そう切り出すと、カレルが青い瞳を微かに瞠る。口元には全てを悟った微笑が浮かんでいる。

「その気になったか」

「はい。昨日はせっかくのお心遣いに、とんだご無礼を」

「気に病むな、お前の言い分もわかっている」

「ありがとうございます」

 マリエは深い感謝と共に頭を下げた。


 この先、母とはもう何度会えるかわからない。

 機会のあるうちに顔を合わせ、そして話をしなくてはならない。

 もっとも何を話すか、まだ上手くまとめられてはいなかったが――その時、自分はやはり泣くだろうか。


「一つ、私からも頼みがある」

 カレルがスープの匙を置き、居住まいを正す。

 その改まった様子に、マリエも思わず背筋を伸ばした。

「何なりと」

「お前の母に、私が会いたがっていたと伝えて欲しい」

 そして予想もしていなかった頼みをされ、無礼と知りつつも即座に聞き返した。

「わたくしの母に……? なぜでございますか」

「母だけではない。できれば父にも会っておきたい」

 カレルは落ち着き払っている。もはや全ての覚悟が決まったというように、凛とした声で続けた。

「お前を、そしてお前の生涯を貰うのなら、そうしなくてはならぬ」

 打ちのめされるような衝撃が走り、マリエは慌ててひざまずく。

「お、お言葉ですが殿下。そこまでしていただく必要は――」

「いや、ある。必ず機会を作り、お前の親に会わせてもらう」

 かぶりを振り、カレルは意志の強さを窺わせる口調で続けた。

「昨夜、お前と挙子について話したな」

 対照的に、マリエはその話題だけで呆気なく狼狽した。

「え……ええ、仰る通りです……」

「その時に考えた。当たり前のことだが我々は、親になるより先に誰かの子であったのだと。私とお前が子に願うことがあるように、お前もまた親から様々なことを願われ、望まれて生まれてきたのだろうと」

 カレルもまた幼い頃から母は傍にはおらず、父は国王として国の行く末を預かる身。早くに親元を離れたという意味では、マリエとそう変わらない。

 だがその生まれを嘆くことも悲しむことなく、今はただ未来に希望を抱いている。

 心から求めてやまないものが、たった一つだけだが、望み通り手に入る未来を。

「だから私は、お前の親に会いたい」

 そう言って、カレルはふっと表情を緩めた。

「約束したであろう、お前を幸せにすると。それをお前を大切に思う者にも伝えなくてはならぬ」

 マリエは答えに窮した。


 畏れ多いのはもちろんのことだが、たとえ自分がいいと言ったところで両親が何と言うかわかったものではない。

 絶対の忠誠を誓う二人がこの話を聞けば、畏れ多さに卒倒してしまうかもしれない。マリエ自身、自らの身の振り方を打ち明けた時に親がどんな反応をするか、まだ想像がついていないほどだ。

 ただ、一つだけ確信できることがある。


「そのお言付けを伝えれば、母は、わたくしの運命を悟ることでしょう」

 真意に気づいたマリエの言葉に、カレルは深く頷いた。

「ああ。だからこそ、伝えて欲しい」

 それならば迷う必要はない。

 マリエも同じことを思っていたはずだ。母に会う時、話さなければならないことがあると。

「かしこまりました。殿下のお言葉、必ず母に伝えます」

 そう答えると、カレルは満足げに微笑んだ。

「頼んだぞ、マリエ」

 それから手を伸ばし、マリエの手を強く握ってみせる。

 骨張った大きな手は熱く、その手によってもたらされた幸いは記憶に新しく、わずかな不安も押し流していく。

 この部屋へ朝食を運びに戻った時、マリエは近侍のお仕着せを身にまとい、黒髪を覆う頭巾をかぶっていた。傍目には昨日までと同じ、忠心篤く生真面目な近侍でしかないだろう。

 だがその内側で何が変わったか、昨日までとは何が違うか、二人だけは知っている。

 カレルが不意にマリエの手を引き、近づく耳元に囁いた。

「今朝のお前は特別きれいだ」

 その言葉に驚いたマリエがカレルを見返すと、目の前にはとろける笑顔がある。

「お前の幸せな顔を見る為なら、私は一切を惜しまぬ。お前と同じようにな」

 そして息を呑むマリエをよそに、朝食を改めて、とても幸せそうに食べ始めた。


 弟が城へ上がる日、マリエは二頭立ての馬車で迎えに出た。

 馬車を仕立てたのはもちろんカレルだ。マリエは歩きでもいいと告げたのだが、『初日から弟を疲れさせてどうする』と笑顔で諌められた。それでマリエも主の温情を無下にすることなく、馬車に乗り込み帰省の途に就いた。


 マリエの生家は街の外れの閑静な一帯に建っている。

 この辺りでは一般的な木造の三階建てで、深みのある赤に塗られた屋根と、木枠で囲まれた白壁の美しさは記憶の通りだった。

 馬車を停めて門の前に下り立てば、邸宅前の庭には母がこよなく愛するベニバナソウが薄紅色の小さな花を咲かせていた。野山によく咲いている素朴な花で、香草として育てられることも多いのだが、母はこの花の控えめで可憐な佇まい自体も気に入っているようだった。


 そして庭には、飾り気のないドレスを身にまとう中年の婦人の姿もあった。

 女らしくふくよかで、束ねた黒髪は毛先にくるりと癖がある。馬車に気づいて振り向いた顔は見るからに厳格そうだったが、マリエにとって酷く懐かしいものだった。

「母上」

 マリエの母ハナは、娘の顔を認めるなり眉を顰めた。

「あなたが迎えに来るなんて……マリエ、お勤めはどうしたのかしら」

「殿下にお許しをいただきました。迎えに行くついでに、母上にも会ってくるようにと」

 久方ぶりの再会にもかかわらず、ハナの表情に喜びの色はない。それどころか気を揉むそぶりで続けた。

「あなたが殿下の覚えめでたいことは聞き及んでいます。でもだからと言って、殿下にご無理を申し上げるようではいけませんよ。あんな馬車に乗ってご登場だなんて」

 二頭立ての馬車を一瞥した後、ようやく微笑を浮かべる。

「……とは言え、殿下のご恩情は大変ありがたいことです。久し振りですね、マリエ」

 一族の教育係を一手に引き受けているハナは、そうして笑う時だけ本来の柔和な顔立ちを取り戻す。

「はい、母上。お懐かしゅうございます」

 マリエはお辞儀をしつつ、小言から始まった挨拶に安堵を覚えていた。どうやら母も変わりはないようだ。

「息災だったようですね、何よりです」

「母上もお変わりないようで」

「ええ、皆も元気ですよ。あいにく今日はわたくしとミランだけですが」

「母上にお会いできただけでも幸いでした」

 ちょうどその時、玄関の扉が開いて、ミランが顔を覗かせた。マリエの姿を認めた途端にその表情がぱっと輝く。

「ねえさま! 迎えに来てくださったのですか?」

「ミラン、お行儀の悪い真似はおよしなさい」

 すかさずハナが息子の覗き見を咎めた。

 ミランが気まずげに項垂れたので、マリエは黙って微笑み、その通りだと頷いた。

「支度をなさい。マリエはお勤めの時間を割いて来ているのだから、待たせてはなりません」

 ハナはそう続けたが、ふと気づいたように首を振り、

「……いえ、少し時間をかけても構いません。マリエにお茶くらいは出してあげないとね」

 と言い直した。

「はい、かあさま」

 ミランは照れくさそうに返事をした後、素早く家の中へ引っ込む。

「お入りなさい、マリエ。家に来るのも久し振りでしょう」

 そうしてハナが促す通り、マリエは懐かしき生家へ足を踏み入れた。


 通された家の居間には、どこか懐かしい香りが漂っていた。

 母が庭で育てた香草を干しているその香りだ。使い込まれた調度の数々も、日が差す温かな居間の眺めも、ここで過ごした記憶は全てがおぼろげだ。だが漂う香りだけはマリエの心に安らぎの象徴として刻まれていた。

 幼い頃より厳しい教育を受け、父にも母にも甘えた記憶のないマリエだが、この家で暮らす間は確かに両親の愛の庇護下にあったのだろう。ここにいるだけで胸に満ちてくる穏やかさが何よりの証左だ。


「殿下のご公務に付き従うあなたを、何度か見かけていたことがあります」

 ハナはマリエに香草茶を振る舞いながら、冷静な口調で切り出した。

「立派に務めを果たしているようですね。母としても鼻が高いです」

「ありがとうございます、母上」

 マリエは素直に喜んだが、同時に肝の冷える思いも味わっていた。

 カレルの公務に随伴する時は、当然ながら近侍としての領分を弁えた態度を心がけている。だが主が人目を盗んで囁きかけてきたり、目を合わせてきたりすることもあり――母がそう言った瞬間を見つけてはしないかと不安に駆られたのだ。

 もっともそれは杞憂のようで、ハナは自らも茶を味わいながら誇らしげに続けた。

「ミランからも聞きましたよ。カレル殿下は、あなたの働きぶりを誉めちぎっておいでだったと」

 あの時のやり取りは今もなお面映い。マリエは困りながら応じた。

「殿下は、お優しい方ですから」

「そのようですね。ミランもお仕えすることを心待ちにしていました」

 そこで母は短く嘆息した。

「あの子がもう少し早く生まれていたら、あなたもこの歳までお城にいることはなかったのでしょうけど」

「わたくしは、この歳までお城勤めができたことを光栄に思っております」

 マリエが反論すると、母は宥めるように苦笑する。

「でも、そろそろ先のことも考えなければ。あなたは縁談に乗り気ではないようだけど」

「それは先にお返事差し上げた通りです」

「あなたにはお婿を貰って欲しいのです。早ければ早いほどよいご縁があるでしょう」

 母はあくまでも、マリエにこの家を守って欲しいと思っているようだ。もちろんそれも大切な役割ではあるだろう。もしかすれば城勤めと同じくらい、光栄な務めと呼べるのかもしれない。

 だが、マリエの心はもう決まっている。

「母上」

 言葉を選びながら、マリエは慎重に口を開いた。

「わたくしには、実は、お慕いしている方がいるのです」

 その瞬間、ハナは茶を飲もうとしていた動作を止めた。

 苛烈なほど鋭い目つきで娘を見やる。

「あなたに……?」

「はい」

「それで縁談は受けられぬと?」

「はい」

 マリエが二度頷くと、ハナは眩暈を覚えたように額を押さえた。

「呆れた。あなたにはそんなものにうつつを抜かす暇があったのですか?」

「いいえ。わたくしは父上と母上の名に恥じぬよう、今日まで務めを果たして参りました」

 決然と、マリエは異を唱える。

「ですがそれでも、他の殿方のことを考えられぬほど、慕わしい方がいらっしゃるのです」

 ハナはどうやら娘の言い分を飲み込めていないようだ。昔よりも皺の増えた顔に困惑の色を浮かべ、やむなくといった様子で聞き返す。

「その男にはもう、あなたの胸懐を打ち明けたのですか」

「はい」

「その男は、何と?」

「わたくしと同じ思いであると、そう言っていただきました」

 そう口にする時、マリエは場違いに照れた。

 そしてそんな娘を前に、ハナは愕然としている。

「しかし……あなたも知っているでしょう。我が家は代々王家にお仕えする血筋。身の上定かでない輩を迎え入れることなどできません」

「存じております」

「では、その男は? 確かな身の上の者なのですか?」

 母の口調は疑わしげだったが、どこか同情めいた柔らかさも微かに窺えた。


 もし相手の男が申し分ない血筋であれば、婿に取ることを条件に娘の婚姻を許してもよい――もしかしたらそう続けるつもりだったのかもしれない。

 だが、それはできない。

 血筋は申し分ないどころかこの国で唯一無二、身の上の確かさも比肩する者はないほどなのに。


「……母上」

 マリエは次の言葉を、ほんの少しだけためらった。

 母が娘の運命を知る瞬間が、すぐ眼前に迫りつつある。

「申し遅れましたが、カレル殿下よりお言付けがございます」

 話題が変わったように思えたのだろう。ハナは驚きに目を白黒させたが、王子殿下の言付けとあれば聞く耳持たぬはずもない。姿勢を正して応じた。

「殿下は、何と仰ったのです」

「父上と母上に会いたい、そう伝えるよう仰っておいででした」

 その一瞬、時が止まったようだった。

 ハナは身じろぎも、瞬きも、呼吸さえもぴたりと止めてしまい、瞳だけを震わせながら娘の姿を見つめた。

 マリエはそんな母の顔を記憶に刻み込みながら、ゆっくりと語を継いだ。

「そして殿下御自ら、父上と母上に伝えたいことがある、とも」

 確信したのだろう。ハナが震える息をつく。

「……嘘でしょう」

 そして全身をも小刻みに震わせながら、絶え絶えの言葉を口にする。

「そんな……いかに殿下の望まれたこととは言え、それは、それでは……」

 マリエには縋るような、思い留まらせるような眼差しを向けてくる。

「あなたは、それでは幸せにはなれないでしょう。なぜそんな……あの方と同じ道を選ぶのです」

 やはり、ハナはカレルを産んだ婦人のことを知っていたようだ。妃にはなれぬ身分のマリエが、この先どんな道を歩むのかも理解している様子だった。

「わたくしにとっての幸いは、わたくしが慕うのと同じように、殿下がわたくしを想ってくださることなのです」

 母の狼狽に胸が痛む。それでも、迷いはない。

「ですから、わたくしはこの上なく幸せです。どうか、お許しを」

 懇願の言葉が静かな居間に響き、やがて空気に溶け込んだ。

 ハナは黙っている。

 卓上に置かれた拳は固く握られ血の気が引いている。噛み締めた唇も青ざめ、女らしい丸みを帯びた肩は震え続けている。

 堪えきれない様子で目をつむった拍子、そこから透明な雫が一筋、二筋と流れ落ちた。

 マリエが母の涙を見つけたその時、ハナは唐突に席を立った。

「殿下に、承知いたしましたとお伝えするのです」

「母上……」

「あなたが心を決めているのなら、わたくしから言えることはありません。それが幸せだというなら、必ず幸せになりなさい」

 それだけ言い切ると、母は振り向くことなく隣室に飛び込んだ。

 乱暴に閉ざされた扉越し、聞こえてくるのは静寂だけだった。


 一人残されたマリエは、すっかり冷めてしまった茶を口に運ぼうとして、自分の手も震えていたことに気づく。

 それでも、泣きはしなかった。

 母が泣くとは思わなかった。

 自分と同じように、決して泣かぬ人だと思っていた。娘を城へ送り出す日も、別れ際には悲しむこともなく、小言まじりで見送ってくれた。この度のことも、忠誠を誓う王子殿下の頼みとあれば表情一つ変えずに受け入れるのではないかとさえ思っていた。

 母の悲しみを知り、マリエは打ちひしがれた。厳しい人ではあったが娘の幸せを願ってくれた母に、マリエは望む通りの未来を見せることができないのだ。

 だがマリエは、もう幸せを知っている。他の誰にも得ることのできない幸せを、誰にも譲りたくはないと思ったばかりだ。手放したくはない。それなら自分は、母の為には――自分を遠くで案じてくれる人達の為には、一体何ができるだろう。


 母が戻ってくるより早く、身支度を整えたミランが居間へと現れた。

「ねえさま……」

 ミランの面持ちはどこか神妙だった。城へ上がることへの緊張からか、あるいは母の涙を知っているからだろうか。

 マリエが黙って立ち上がると、ミランは少年らしい敏捷さで駆け寄ってくる。

 そして懐から、小さな革袋を取り出した。

「かあさまが、ねえさまに渡すようにと」

 受け取って革袋を開けば、そこには小さな花の種が少しばかり入っていた。

 今も庭を埋め尽くすように咲いている、母が愛するベニバナソウの種だった。

「ねえさまにこそ必要だろうと、かあさまが仰いました」

 ミランの言葉に、マリエはその革袋をそっと握り、胸に抱き締める。目の奥がつんとして、涙が滲みそうになったが、弟の前ではどうにか堪えた。

 母は自分の幸せを願い、その上で送り出そうとしてくれている。

 無論、母には母なりの思いがあることだろう。本当はもっと強く制止したかったのかもしれない。マリエが知らないこの先の運命を、母はより鮮明に、もしかしたら前例を通して見知っているのかもしれない。それでも母は、送り出す意思を示してくれた。

 幸せにならなくてはいけない。

 母の為にも、マリエはそう思う。


 やがて姉弟は生まれ育った家を出て、城へ向かう馬車に並んで乗り込む。

 母が門の外まで追い駆けてくる。涙を拭った後の顔で、馬車が走り去るまで手を振り続けてくれた。ミランが無邪気な顔で手を振り返し、マリエも精一杯笑んでそれに倣う。

 そして馬車の窓から家が見えなくなった後、ミランがおずおずと口を開いた。

「ねえさま、ねえさまには恋い慕う方がいらっしゃるのですか……?」

 マリエはぎょっとした。

 頬を染める弟の顔を覗き込み、思わず尋ねる。

「聞いていたのですか?」

「ち、違うのです。その、ほんのちょっと漏れ聞こえただけで!」

 ミランは慌てふためいたが、やはり気になるそぶりで問いを重ねてくる。

「でも、あの、ねえさまが慕う方とはどのような人か、できれば知りとうございます……」

 その言葉から察するに、ミランは母娘の会話の全てを聞いていたわけではないのだろう。

 もちろん、いつかは知る話だ。上手くいけばミランはマリエの後を継ぎ、カレルに最も近い忠臣となる。全てを知ることになるのもそう遠くはないのかもしれない。

 だが今は、こう答えるだけだった。

「とても素敵な、そしていとおしいお方です。わたくしの全てを懸けられるほどに」

 そう答えたマリエの手には、母から託されたベニバナソウの種がある。


 ミランはそんな姉を、瞬きもせず、眩しげに見上げていた。

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