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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
後日談
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種蒔く日々の移ろい(9)

 本当のことを言えば、マリエは、夜明けまで主の寝室に留まるつもりはなかった。

 真夜中のうちに私室へ戻れば人目につくこともない。夜明けまで待って早起きの誰かに見つかるよりは、服が乾いたらさっさと出て行く方が安全に決まっている。当初はそんな心算でいた。

 だが実際は、夜の間に服が乾いたかどうか、確かめることすらできなかった。


 カレルが寝台から出してくれなかったからだ。

「……どこへ行く気だ」

 上体を起こそうと微かに身じろぎをしただけで、まるで縋るように尋ねてくる。

 お蔭でマリエは服が乾いたかどうかを確かめるのはもちろん、床の上に無造作に放られたドレスを畳むことも、今時分を知る為に鎧戸の下りた窓を見やることもできなかった。

 あれからどのくらい経ったのだろう。喉が酷く乾いている。

「喉が、渇いたので……お水を……」

 マリエが嗄れた声で答えれば、カレルは単身寝台を下り、水差しを持ってきてくれる。

「今、水をやる」

 そしてマリエを仰向けに寝かせると、ゆっくりと唇を合わせ、口移しで水を飲ませ始めた。

「ん……」

 慣れぬ羞恥にマリエは唇を震わせ、いくらか水を零してしまう。するとカレルは口元から伝い落ちた雫を唇で辿り、入念に吸い取った。温い唇と共に、白金色の髪が肌を撫ぜるのが一層くすぐったい。

「まだ欲しいか? 欲しいだけやるから、どこへも行くな」

 甘い声で胸元に囁いてくるカレルを、マリエは陶然と見下ろしていた。

 昨日までの自分がこんな光景を目の当たりにしたら、気恥ずかしさと畏れ多さに卒倒していたことだろう。だが今は愛されている喜びの方が強く、いっそ泣きたいくらいの幸福感で満たされている。触れ合う肌の温かさは頑なだった心さえとろかして、生まれ変わらせてしまったようだ。

 本当のことを言えば、今のマリエは、この寝台を出ていきたくないと思っている。

「あの……服が乾いたか、確かめてきても……」

 渇きが癒えてもマリエの声はかすれていた。そしてその問いに、カレルは面を上げて一睨みで応じる。

「どこへも行くなと言ったばかりだ。夜明けまではまだ時間もある」

 そうしてマリエが窓を見ないようにか、自分の胸に抱き込むように引き寄せたかと思うと、手足を絡めて身動きが取れないようにしてしまう。

 溶けてしまいそうな体温に包まれれば、マリエもあっさりと絆されてしまう。

「では、もう少しだけお傍に……」

「少しと言わず、存分に留まれ。私もまだ足りぬ」

 熱に浮かされたカレルの声が、切実そうに訴えた。長い夜の間、幾度となく聞いた声だった。


 そしてその長い夜においても、二人は眠りの時間さえ惜しんでいた。

 実際、マリエは合間合間に少しだけまどろむ程度だったし、カレルに至ってはいつ眠ったかわからぬほどだ。もしかすれば一睡もしていないのかもしれない。

「殿下はお休みにならないのですか?」

 寝台の中で抱き合いながら尋ねた時には、冴えた眼差しで返された。

「眠くはない。全く、我ながら酷い浮かれようだ」

 その言葉通り、カレルに眠気を堪えている様子は一切なかった。それどころか疲れの色さえ見せないので、マリエは感心していいのか、そろそろ自らの身を本気で案じた方がいいのか内心迷った。


 とは言え、マリエとて眠りたくないのは同じだ。

 この夜がいかに長くても、時が止まってしまうことは決してない。


「つくづく、長く傍にいても知らぬことはあるものだ」

 寝室に何度目かの静寂が忍び寄り、マリエがまたまどろみ始めたところで、ふとカレルが呟いた。

 マリエは眠気を追い払い、隣で身を横たえている人を見る。天鵞絨の枕に頬杖をつくカレルは、目を開けたマリエを興味深げに見下ろしている。

「お前はあんな顔もするのだな……」

 しみじみと、満足げに零された呟きに、マリエはどぎまぎしながら目を逸らす。

 知らない顔というなら、確かにマリエも見た。少年時代から成長を一番近くで見守ってきた主の、今まで見せることのなかった表情をいくつも、いくつも――思い出すと顔から火が出そうになる。

「殿下は、すっかり大人になられました」

 何となく呟くと、間髪入れず聞き返された。

「どこがだ」

「ど、どこがと申しますか……あの、全てでございます」

「当然であろう。私はもう十九だ」

 カレルは一笑に付すと、俯くマリエの顔を覗き込みながらその胸に片手を置く。

「しかし先に大人になったのはお前の方だったな」

「わたくしの方が三つも上でございますから」

「みるみる女らしくなっていくお前が、私には目の毒だったこともある」

 どこか咎めるような物言いにも聞こえて、マリエはくすぐったさを覚える。

「わたくしは女でなければと思ったこともございます」

「それは、どうであろうな。私は女のお前がよい」

 きっぱりと言い切った後、カレルの手は上に伸びてマリエの頬をそっと撫でた。

 忍び寄る夜明け前の冷気を遮るように、その手はとても温かい。


 寝台の上で見つめ合う距離はごく近く、マリエにはカレルの青い瞳に映り込む自分の顔が見えるようだった。はっきりと見えなくてもわかる、その顔はいつよりも幸福そうに違いない。

 そしてカレルの表情もまた、一片の憂いもなく幸いに満ちている。

「マリエ、私は思うのだが」

「何でございましょう、殿下」

「そう思い悩まずとも、事は全て上手く運ぶに違いあるまい」

 事とは、一体何についての話だろう。マリエが怪訝に思っていれば、カレルはすぐに答えをくれた。

「お前は私の子を産む。間違いなくな」

 どうやら、世継ぎについてのマリエの不安を、カレルも気にしていたらしい。

「わたくしも、できればそうありたいと存じます」

「いや、必ず産める。私が産ませてやる」

 控えめに答えたマリエを制してまで、自信たっぷりに言い切ってみせる。

「今宵のことで確信した。お前なら必ずや元気な世継ぎを産むだろう」

 果たして何を根拠に確信したというのだろう。マリエは目を瞬かせた。

「なぜ、そのように思われたのですか」

 するとカレルは白金色の髪を一度かき上げ、はにかんだ。

「お前を想い続けていてよかったと、ふと天啓のように閃いたのだ。諦めてしまわなくてよかったと……私は正しい選択ができたのだと、な」

 それからマリエの唇に指を置き、大人びた面持ちに戻る。

「当てにならぬと申すなよ。いざという時には頭に詰め込んだ知識よりも役立つ」

 マリエも今宵ばかりは、そういったものを信じたい気持ちになっていた。他でもないカレルの閃きとなれば尚更だ。

「それにな、前にアロイスが申していた。お前のような女は安産になるのだと」

「初耳でございます。アロイス様は、なぜそのように?」

「さあな。機があれば彼奴に聞け」

 カレルは知っているそぶりのようだが、はっきりとは答えなかった。


 マリエはその根拠が非常に気にはなったが――やがて、思い直した。

 根拠などなくてもいい。

 夢のような心地の夜を過ごしている最中だ。交わす睦言もまた、夢のように甘いばかりでいい。もしかすればそれが、本当に叶うことがあるかもしれない。


 するとマリエも晴れやかな気分になって、いつになく明るく切り出した。

「では、殿下のご希望をお聞かせください」

「うむ。希望とは?」

「殿下は御子を、何人ほど欲しいとお考えですか」

 するとカレルは重要な命題でも突きつけられたように深く考え込んでから、答える。

「そうだな……お前が欲しいと申すなら何人でも構わぬ。五人だろうと、十人だろうと」

「それは賑やかなお城になりそうで、素敵でございますね」

「だが私としては、一人でなければよい」

 カレルの手がマリエの黒髪を優しく撫でる。その手触りに目を細めながら続けた。

「お前とミランを見ていたら、兄弟がいるのはよいものだと思えた。私の子にも是非、お前達のような兄弟であって欲しい」

「光栄に存じます、殿下」

 マリエは面映さに微笑んだ。まだ一度しか顔を合わせていない弟だが、それでもこうして誉められれば嬉しくてたまらない。

 そしてマリエも同じように思う。自分にあの子が――弟がいてよかったと。

「お前はどうだ、子は何人欲しい?」

「わたくしも、兄弟がいるのがよいと存じます。助け合い、支え合う兄弟であってくれればと」

 いささか気の早い話かもしれないが、夢描くだけなら自由だ。

 マリエは思い浮かべてみる。仲睦まじくこの国を治める、カレルによく似た凛々しい兄弟の姿を――マリエの想像の中では、その兄弟は揃って白金色の髪をしていた。

「だが、お前によく似た姫というのも捨てがたい」

 ちょうどカレルも、マリエと同じようなことを考えていたらしい。髪の一房にいとおしそうに口づけた後で続けた。

「慎ましく生真面目で、年頃にもなれば花のつぼみのような美しさとなろう」

「お言葉ですが、わたくしに似ると融通の利かない娘になってしまうかと……」

「それはそれでよい。その為に兄弟がおるのだろうからな」

 カレルはにやりとしてマリエに尋ねた。

「むしろ、私に似たらどうする。私のように剣術を習いたいと言い出したら」

「そういった情熱はとても大人の力で止められるものではございません。殿下の御子とあれば間違いなく、誰が何と言おうと意思を貫くことでございましょう」

 懐かしい思い出を辿りながらマリエは答える。

「その時は是非、アロイス様に指導をお願いしましょう」

「彼奴か……教えるのが剣だけであればよいのだがな、いささか心配だ」

「殿下はアロイス様から剣術以外のものも習われたのですか?」

「いろいろとな」

 またしてもはっきりとは答えず、カレルは意味深長に笑んだ。

 どうやらカレルとアロイスの間には、マリエのあずかり知らぬやり取りがいくつもあるようだった。そういうものを知りたいという欲求もあれど、尋ねたところで教えてもらえるものではないだろう。婦人には立ち入れぬ秘密なのだろうと、マリエもおぼろげにだが察していた。

 カレルには兄弟こそいなかったが、兄のように慕う相手は確かにいるのだ。

「……わたくしは、殿下にこそ似て欲しいと存じます」

 ふと優しい気持ちが湧き起こり、マリエはカレルにそっと囁いた。

 するとカレルはマリエを抱き寄せ、真似をするように囁き返す。

「ではやはり、たくさん子供が要るな。私はお前に、お前は私に似て欲しいのだから」

 それは今宵にふさわしい、この上なく幸せな夢の話だった。

 現実になるかどうか、今はマリエも、カレルも知らない。


 鎧戸の隙間から明け方の光が染みてくる頃、マリエはようやく寝台を下りることを許された。

 すっかり乾いたお仕着せに袖を通す間、ほんの少しの切なさを覚えた。

 だがしばらくの間は、着替えをする度に昨夜の甘い記憶を思い出すことだろう。そしてそれが自分を支えてくれるだろうと、マリエは幸福な思いで確信している。


「殿下はもう少しお休みください。できれば眠っていただきたいのですが」

 着替えを済ませてから寝室を覗けば、うつ伏せのカレルがこちらを見やる。

「なるべく善処はしよう。だが、眠れる気がしない」

 こうして見ると天蓋つきの寝台はいやに広く、成長したカレルが寝返りを打っても十分な余裕がある。一人で眠るには広すぎるのかもしれない。

「お前がおらぬと夜具が冷たい」

 裸の腕をこちらに伸ばし、カレルはねだるようにマリエを見る。

 マリエとしても名残惜しさはあるが、そろそろ戻らなければならない。朝食の支度を始める時刻だった。

「すぐに、温かいお食事をお持ちいたしますから」

 そう応じると少し恨めしげな顔もされたが、

「また、すぐに会えるのだな」

「ええ、すぐに参ります」

 問いかけに深く頷けば、やがてカレルの顔にも切なげな微笑の影が差した。

「では頼む。私も腹が空いた」

「美味しいものをたくさん作ってお持ちいたします」

 マリエは一礼し、それから迷いを断ち切るつもりで踵を返す。

 すると、寝台から声がした。

「マリエ」

 大切なもののように、優しく名前を呼ばれた。

 ためらわずマリエは振り向き、寝台のカレルが真っ直ぐな眼差しを向けていることに息を呑む。

「私は、お前がいい」

 カレルが昨夜と同じように、迷いのない声で言う。

 マリエももはや迷いはなく、即座に答えた。

「わたくしもです、殿下」

 それから今度こそ寝室を出て、廊下へと向かう。


 途中、応接間の食卓に残された昨夜の食器を見つけ、無性に寂しさを覚えたが――まずは自室に戻り、身支度を整えてこなければならない。それから朝食の支度をして、主の為に食卓を誂えなければならない。

 今朝の近侍の務めはもう始まっている。

 幸福な思い出に浸るのは、後でいくらでもできることだ。

 それでもマリエは一人微笑み、そっと廊下へ続く扉を開ける。


「おはようございます」

 途端、誰かに挨拶をされて、危うく跳び上がりそうになった。

 振り向けば、主の居室の扉横にはアロイスがいた。城内警備の際に身に着ける軽装鎧姿で、胸に隊長であることを示す徽章をつけ、しかし徹夜の後のように隈を作って、たった一人で立っている。

 そう、たった一人だった。

 いつもならこの扉の前には数名の兵がいて、カレルの身辺を丁重に守っているのだが。

 何にせよマリエは慌てた。普通に考えればここに誰もいないはずがないのだが、余裕がなかったせいだろうか。今の今まで気にも留めていなかった。

 カレルとマリエの間柄は兵にも周知の事実だが、明け方に主の部屋を出てきたところを見られるのはさすがに、気まずい。

「お、おはようございます、アロイス様」

 マリエはあたふたと返事をした後、やはり気になってアロイスに尋ねた。

「この時分はいつもお一人で警護を……?」

「いえ、昨夜はたまたまです」

 アロイスは欠伸を噛み殺しながら答える。

「兵達が疲れていたようなので早くに下がらせました。ここを守るだけなら私一人でも十分です」

「そう、ですか」

 十年以上城にいて、こんなことは初めてのように思う。アロイスがたった一人で警護に着く、という状況は。

 当然マリエは訝しがったが、アロイスは笑うばかりだ。

「あなたが気にされることなど一切ありませんよ。さあ、お部屋へお戻りください」

「は、はい……」

 促されてマリエは廊下を歩き出したが、知りたくない思いと聞かずにはいられない衝動がせめぎ合う。

 そして衝動の方が勝ったところで、思わず振り向いた。

「あの……アロイス様、伺ってもよろしいですか」

「何なりと」

 妙に温かな目でこちらを見送るアロイスが、頷く。

「き、聞こえていた……のでしょうか? その、昨夜のわたくしと殿下の会話、なのですが……」

 言いかけたマリエを押し留めるように、アロイスは即座に答えた。

「まさか。ご安心ください、マリエ殿」

 そして寝不足の顔に晴れやかな笑みを浮かべて続ける。

「聞こえていたかどうかを気にされるくらいなら、明け方にこうして殿下のお部屋の前にいらっしゃることの方がよほど意味深と思えますが」

「お、仰る通りですが」

「それと、昨夜お部屋に入られる前の雰囲気。むしろあれで何もなければ、私は殿下を蹴飛ばしてしまうところでございます」

 聞き捨てならない言葉が聞こえた。

 マリエが思わず凍りつくと、アロイスは失言をしたというそぶりはせず、わざとらしく目を逸らしてほくそ笑む。

「今の軽口はお許しを。私も独り身、仲睦まじいお二人はまさに目の毒と言うものです」

「あ……あの、やはり……」

 頬を赤らめたマリエが、改めて確認しようとした時だ。

 先程くぐったばかりの扉が開いて、カレルが顔だけ覗かせた。かと思うと険しい顔でアロイスを睨みつける。

「アロイス、お前、何ぞ余計なことを申したな」

「失礼。口が滑ったようでございます」

「よく言う。わざとであろうが」

「申し訳ございません。正直なところ、少々羨ましくてならず」

「よしわかった、かのご令嬢にその旨伝えておこう」

「そのようなことをされたら、次回はこの居室の前に一個小隊を構えることにいたしますが」

 二人の応酬は留まるところを知らず、マリエは頭がくらくらしてきたので、やがて黙ってその場を去った。


 私室に戻ってから、マリエは改めて昨夜の出来事を思い返していた。

 胸に手を当て、目をつむり、少しの間だけじっとただ一人のことだけを考える――気恥ずかしさはあれど、迷いはない。涙は、まだいくらでも流すことだろう。それでも自分のうちには、最愛の人より賜ったこの上ない幸いがある。


 だから近いうちに、母に会いに行こうと思う。

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