種蒔く日々の移ろい(7)
部屋まで戻る間、マリエは生きた心地がしなかった。
湯上がりの肌にまとうドレスは慣れないもので、裾が長く歩きづらかった。それでなくともこんな格好でいるところを、他の者に見られるわけにはいかない。
カレルが手を貸してくれたのをいいことに、マリエはその背中に隠れるようにして廊下を歩いた。
幸いというべきか、あるいは事前に何らかの配慮がされていたのか、カレルの居室へ戻るまでの間、近衛の兵以外の者とすれ違うことはなかった。もっともマリエはその兵の視線すらきまりが悪く、顔を上げることすらできなかったのだが。
カレルは居室にマリエだけを招き入れると、その手を取ったまま椅子に座らせた。
マリエはドレスの裾を気にしながらそこに腰を下ろし、見下ろしてくる主の不思議と愉快そうな表情をちらりとだけ見た。見られているのが気恥ずかしく、すぐに顔を伏せてしまったが。
「少し待て、部屋が暗い」
そう言うとカレルは、宵闇差し迫る部屋のランタンや燭台に、一つ一つ明かりを灯していった。それから窓の鎧戸を下ろし、部屋の中は星の光も届かぬように閉ざされる。
普段ならそれらは全てマリエの務めだった。日が落ちれば部屋に明かりを灯し、鎧戸を閉め、主の為に夜を迎える支度をする。カレルが自ら火を灯すことはまずない。だがカレルはその支度を、毎日の習慣のように手際よく済ませていった。
そして部屋が暖かい光で満たされると、カレルは改めて椅子に座るマリエを振り返る。
「これでじっくりお前を観賞できる」
「あ……あまり、ご覧にならないでいただきたいと……」
マリエは弱々しい声で訴えた。
着慣れぬドレスは襟刳りこそ浅い意匠だったが、首筋から鎖骨までが無防備に露わになっていた。マリエが日々身にまとうお仕着せはほとんど肌を晒さぬつくりをしている為、剥き出しの肌が空気に触れるだけで無性に心許なく思う。上質な本繻子の生地はなめらかだが少し冷たく、肌に触れる度ひやりとするのが落ち着かない。
そして主が、いつもと違う自分の姿を楽しんでいる様子なのにも動揺していた。
「何を恥じ入っておるのだ、堂々とせよ」
カレルはからかうように言うと、ふと思い出したように語を継いだ。
「そうだ、お前が着ていたあの服も干しておかねばな」
「あっ、そ、それはわたくしが!」
弾かれたように立ち上がったマリエだったが、その拍子に音を立てて椅子を倒してしまう。
それを見てカレルは笑い、
「いいからお前は座っていろ。その格好ではろくに身動きも取れまい」
マリエの為に椅子を直した後で、別の椅子に濡れそぼった服を次々とかけた。軽く絞っただけのその服が乾くまでにはまだ時間がかかりそうだった。
それまで、マリエはこのドレスを着ていなければならない。
ドレスを着ることへの困惑は慣れないからというだけではなかった。カレルの言う通り、この姿のままではろくに身動きが取れない。だからこそマリエは主が明かりを灯すのを黙って見守っていたのだし、今も椅子に黙って座り直している。
普段は考えもしないことだったが、マリエが着ていたお仕着せこそが日頃の近侍としての務めを支えてくれていたのだとさえ思う。
あれを着ていない自分は、まるで自分ではないようだ。
「殿下」
マリエは恐る恐る、主に尋ねた。
「あの、不躾とは存じますが……一体、何をお考えなのですか?」
するとカレルはマリエの傍まで戻ってきて、事もあろうにその面前で跪いた。
「殿下……!」
畏れ多さにまたしても席を立とうとするマリエを、肩を押さえて留めたカレルは、その後でいわくありげな笑みを浮かべた。
「今宵は、お前をうんと甘やかしてやることにした」
マリエはとっさにその言葉を飲み込めなかった。
「お前を甘やかしてとろけさせた後、その胸に張り巡らせた壁を抉じ開けてやる。そう決めたのだ」
説明を添えられてもなお、意味がわからなかった。
だが絶対の忠誠を誓う相手に膝をつかせておくことだけは看過できず、マリエは肩を押さえられながらも進言した。
「殿下、おやめください。あなた様はそうたやすく膝をついてはならぬお方」
「たやすくはない、見くびるな」
跪いておきながら、カレルの物言いはどこか挑戦的だ。双眸には意思の強い光が宿っている。すっかり乾いた白金色の髪はランタンの光に照らされ、美しく輝いている。
いつかはその髪に冠を戴く王子殿下を前に、マリエは恐れおののいた。
「こんなところを人に見られては、殿下のお名前に傷がつきましょう」
「この時分にどこの誰が、この部屋を覗きに来ると申すのだ」
「それは仰る通りですが……」
マリエが言葉に詰まると、カレルはその瞳を幸福そうに細めた。
「ならば問題もあるまい。今宵のことは、私とお前だけの秘密となる」
普段は見上げるばかりの青い瞳が、今は見下ろす高さにある。マリエはその事実がどうにも受け入れがたく、罪深さに身体を震わせた。するとカレルはマリエの手を取り、浴室でもそうしたように静かに口づけた。
ただし今度はより念入りに、爪の小さな指先から細い関節、白い手の甲、そしてなめらかな手首――カレルが形のいい唇を這わせるのを、マリエは傍観者のような気分でただ眺めていた。
「……貴婦人には、こういうふうにするのだったか」
カレルはマリエの手首に唇を触れさせたまま、溜息と共に呟いた。
「作法は一通り習ったはずだが、使わなければ忘れてしまうものだな。以後はお前を相手に、少しは活用するとしよう」
熱い吐息が手首をくすぐり、マリエは我に返って声を漏らす。
「あっ……殿下、何をなさって……」
「挨拶だ。夜会で、最も麗しい貴婦人と出会った時はこうしろと教わった」
その言葉も口づけも、マリエの心を容赦なく掻き乱していく。あまりのことに発火しそうなほど体温が上がり、眩暈がした。
やがて満足したのか、カレルはマリエの手を離して立ち上がる。
「さて、次は何をするか」
そして短く思案した後、よいことを思いついたというように深く笑んだ。
「湯浴みの後で喉が渇いたであろう。私がお前の為に茶を――何なら夕食を用意してやろう」
当然ながら、マリエは即座に止めた。
「それはわたくしの務めでございます。厨房は殿下にふさわしくはない場所」
しかしカレルが聞く耳を持つはずもなく、
「よもや私が、茶の一つも入れられぬと思っているのではあるまいな」
聞き返されて、よもや『仰る通りです』と正直にも言えず。
「おできになるのですか」
「お前のやり方をいつも見てきた。どうにでもなる」
「ですが、ご夕食の方は……」
「使ってよい食材を先に申せ。それならお前も心煩わされずに済む」
全く心煩わされずに済むというわけではなかったが、身動きの取れないマリエに抗う術はない。
結果、カレルは上機嫌で部屋を出ていき、マリエはそれを見送った後で――ここまでの一連のやり取りを反芻し、頬を染めながらうろたえた。
自分が自分ではないと思うように、今宵のカレルもいつもとどこか違うようだ。
壁を抉じ開けてやると主は言った。
先程までのマリエには、そんなものがあるという自覚すら存在していなかった。
だが、今は思う。壁があったとするならそれは、マリエが今は身にまとわず、目の前で干されているものだ。あれこそが近侍としての自分を今日まで守り続けてきたものだと思えてならなかった。
普段使いのお仕着せは、まだいくらも乾いていない。
それを再び着られるようになるのはいつのことか、まるでわからなかった。
部屋に戻ってきたカレルは、意外にも慣れた手つきで食卓を設えた。
夕食といって用意したものはマリエが朝焼いたパンと、チーズを薄く切ったもの。それに半分に切っただけのリンゴのみだった。お茶はマリエが入れたものよりも色が薄く、わずかだが茶葉が浮いていた。
だがマリエはそれらを喜んでいただき、そして心から主を称賛した。
「殿下が、こんなにもお茶を入れるのがお上手だとは存じませんでした」
マリエからすれば、カレルが用意してくれたものというだけでとびきり極上の夕食に思えた。二人きりで食卓を囲む幸福感がそれを更に後押しする。ドレスを着てから抱き続けてきた後ろめたさが、この夕食のひとときですっかり雲散していた。
「私はもっと上手くやれると思っていたのだが」
カレルの方は満足していない様子で首を捻っていた。
「あれだけお前の働きぶりを日々見つめてきたというのに、なぜその通りにできぬのだろうな」
見様見真似だけでその技術を模倣できるのであれば、どんな職人も苦労はしない。マリエの技術は母の教育と十年以上培ってきた経験によるものだ。
むしろマリエの真似をしただけで、迷うことなく茶器を並べ、体裁だけは見事に整えたカレルの観察眼こそ類稀なるものに違いない。
「初めてでこれだけできれば立派なものでございます」
マリエは嬉しくてたまらず、手放しに主を誉めた。
「しかもわたくしの為にしてくださったこと、この上ない幸いに存じます」
「お前の為だからこそ、完璧にやり遂げたかったのだ」
カレルは尚も言い張ったが、誉められるのは満更でもなかったのだろう。やがて相好を崩した。
「とは言え、お前に誉められれば首尾は上々といったところか」
「素晴らしいご夕食をありがとうございます、殿下」
「うむ。たまにはこんな食事もよかろう」
そう言うとカレルはパンにチーズを挟んだだけの夕食を、相変わらずの旺盛な食欲で平らげた。
そして食後のお茶を楽しみながら、マリエはようやく人心地ついていた。
カレルに香油を塗るよう頼まれた時、浴室で浴槽に落ちた時、そしてこのドレスを着ることになった時はどうなることかと思ったが――落ち着いて考えてみれば色を失くすような事態でもなかった。
自分の主は、優しい方だ。
マリエの未熟さも、過ちも、いつも寛容に許してくださる。一時腹を立てることはあれど、それを長々と引きずることもなければ、何かと蒸し返して叱責することもない。だからマリエも失敗を恐れることはないはずで、現にそういう気持ちで十年も務め上げてきたのだった。
「私の前で物思いに耽るとは、貴婦人らしからぬ不作法さだな」
同じく食後のお茶を味わうカレルがぼやき、マリエははたと我に返る。
「申し訳ございません、わたくしはこれまで婦人らしい作法を習ったことがなく……」
「詫びはいい。何を考えていたか、包み隠さず答えよ」
「……殿下が、お優しい方だとしみじみ考えておりました」
促されて、はにかみながらもマリエは答えた。
「わたくしの過ちを責めず、わたくしの為に着替えを持ってきてくださり、こうしてご夕食とお茶まで用意してくださいました。わたくしは殿下のお傍にいる限り何も憂うことはないのだと、そう考えておりました」
「お前の申す過ちというのが、何を指すのかはわからぬが」
カレルはカップを置いて肩を竦めた後、続ける。
「だが私がお前に優しいというのは、確かに事実だ」
「はい、仰る通りでございます」
「であればお前も恐れることなく、私に本心を語ればよいことだ」
そして食卓越しにマリエを見やり、何か見定めるように目を眇めた。
「お前にはその胸のうちに潜めたままの、私に話しておらぬ秘密がある」
「わたくしには、思い当たる節もございませんが……」
マリエが小首を傾げると、カレルは微かに笑う。
「それは嘘だな」
きっぱりと否定をされた。
「何か、あるはずだ。思いつくまで考えてみるがよい」
確信が窺える断定的な言葉に、マリエは戸惑いながら手にしたカップを覗き込む。
茶葉が浮かんだ美しい、透き通った紅色のお茶の水面には、微かにマリエの物憂げな顔つきが映り込んでいた。
秘密は、確かになくもない。
だがそれはあまりにも些細なことだ。この国の先行きと、カレルがこれからの未来でその双肩に担う責務、そして人々が王子殿下に寄せる希望に比べたら枝葉末節に過ぎない。だからマリエはそれを口にすべきではないと思っていたし、主に打ち明けたいとも思っていなかった。
ただ、心の中で引き当てた『秘密』の存在を、カレルもまた察したのだろう。
「やはり、あるのだな」
ざらりとした、複雑な感情を覗かせる低い声で言ってきた。
「ならば申せ、どんなことでも聞いてやろう」
そうは言われても、秘密にしておくくらいだ。そう易々と打ち明けられるものでもない。
マリエはためらいながらカップを皿に置く。
「本当に、些末なことでございますから……」
ささやかな抵抗を試みてはみたものの、それで引き下がる主ではないこともわかっていた。
「些末なことでも申せと言っておるのだ」
「殿下なら、お笑いになってそれでおしまい、とされることでしょうし」
「ならば重畳ではないか。お前の気も楽になり、よいこと尽くめだ」
「いえ、わたくしは……」
打ち明けたところで楽になどなれないことも知っている。
なぜならこれは、マリエにはいかんともしがたい生まれながらのさだめによる憂いだからだ。
「畏れながら、殿下にお話ししたところで解決する問題でもございません」
「私にも、おまえを救うことはできぬと?」
カレルが眼光鋭くマリエを見やる。
逃れられぬ予感がして、マリエはゆっくり顎を引く。
「救っていただく必要すらないことでございます。わたくしが納得すればよいことです」
「だが、飲み込めぬからこそ煩悶するのであろう」
全く、その通りだ。
何も考えずに済めばよいと思う。目の前に広がる光景を当たり前のものとして受け入れて、視線の先にいる、自らにとって唯一の人に見惚れていればよいことだった。あの夜のカレルは王子殿下としてふさわしい、実に優美な振る舞いをしていて、近侍としても誇らしくなるほどだった。
だがマリエは、あの晩餐会の記憶をただ美しいものとして、素晴らしいものとして飲み込むことができずにいた。
「でもわたくしは、嫌なのです……」
カレルに、他の婦人の手を取って欲しくはなかった。
あの夜、自分の傍を片時も離れずにいて欲しかった。
もちろんそれは叶えてはならない願いだ。口にすることも許されず、マリエは近侍としての誇りを懸けてそれらを胸の奥にしまい込んできた。
だが今日まで自分を守り続けてきた壁は、あの近侍のお仕着せは、今や使い物にならなくなっている。マリエを守るものはもはや何もない。たった一つだけ、ぎりぎりのところで踏み止まらせている頑なな自尊心の他には何も。
そしてそれすらも溶かすように、カレルはマリエを見つめている。
青い瞳にいつになく強い意志の光を湛え、逃さぬように視線を留めたまま、席を立ちこちらへ近づいてくる。
マリエがびくりとした時にはもう遅く、大きな両手を頬に添えられ、眼前から顔を覗き込まれていた。
「お前は何を恐れている」
唇に吐息が触れる。
「私はその恐れからも、お前を守ってやることができるかもしれぬのに」
目の前には、出会った頃とは比べものにならないほど凛々しく成長した面差しがある。
「いや、必ず守ってやる。だから申せ、その胸のうちを、私に」
出会ったばかりの頃は、自分がこの方を守るのだと思っていた。
ほんの数ヶ月前まではずっと思い続けていた。
だが現実に気づいてしまえば、酷く脆いものだった。
マリエを今日まで支えてきた壁は、この瞬間に呆気なく崩れた。
「わたくしは……」
声が震え、涙が瞳から溢れ出る。
この方の前では、絶対に泣くまいと思っていたのに。
「殿下が、他のご婦人の手を取られるのが、嫌で……」
涙声でたどたどしく告げれば、滲む視界の向こうでカレルが驚きに息をつくのがわかった。
「先日の、晩餐会でのことか」
マリエは頷き、涙が頬を伝い落ちていく。
「申し訳ございません……こんなこと、口に、してはならないのに……」
「そんなことはない。お前が涙を流すほど嫌なことなら、打ち明けてくれる方が嬉しい」
その言葉に、だがマリエはますます涙を止められなくなる。
「ですが、わたくしは、そんな弱いわたくしでは嫌なのです」
泣かない自分でありたかった。
この先何が起きたとしても、全てを耐え、受け止められる自分でありたかった。
「こんなにも脆い心を持っていると知れたら、殿下が、わたくしを選んではくださらないと思って……!」
耐えられないだろうと思われるのが、最も辛い。
それが失望ではないこともわかっている。優しい方だ。決断するのなら、やはり優しさから思うことだろう。
だから泣くまいと思った。泣くのが嫌だった。怖かった。脆い自分が崩れてしまうことのないように精一杯守り続けていたかった。
なのに。
「選ぶも何も、私は端からお前の他は見ておらぬ」
カレルが指の先で、マリエの涙を拭おうとする。
「ましてやお前が泣いたくらいで……心変わりなどするものか」
声は微かに笑っている、ように聞こえる。
そうしてしばらくの間、流れ落ちる雫を払おうとしてくれていたようだ。頬を撫でる指の感触があり、だがそれでも拭い切れないとわかると――次の瞬間、唇が塞がれた。
噛みつくような、普段よりも荒々しい口づけだった。




