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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
後日談
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種蒔く日々の移ろい(6)

 浴槽の湯はまだ静まらず、大きく波立っていた。

 その中でマリエは呆然と立ち尽くしている。頭巾とその下の黒髪から浴びた湯を滴らせ、服の裾を湯の中でたゆたわせながら、次に取るべき行動もわからずに目の前の人の手を固く握り締めている。

 散々飲み込んだ湯のせいで咳が止まらなかったが、呼吸が乱れているのはそのせいだけではなかった。何より、半身が浸かっている熱い湯よりも、頬が、身体が熱く火照っている。


 そんなマリエの顔を、カレルが覗き込んでくる。

「怪我はないか? どこか痛みは?」

「い、いえ……」

 かぶりを振りかけて、ようやくマリエは我に返った。

 握り締めていた手を慌てて振りほどき、

「も、申し訳ございません! わたくし、なんてことを……!」

 ひとまず一歩後ずさりしようとして、水をたっぷり吸った着衣の重さにまたよろけ、湯の中に座り込んでしまう。再び跳ねた水飛沫の向こうで、カレルが苦笑いをするのが見えた。

「無事なのはいいが、少し落ち着け」

「いいえ、あの、お言葉ですがとても落ち着いてなど――」

「いいから。その格好で暴れても身動きが取れまい」

 慌てふためくマリエとは対照的に、カレルは落ち着き払っていた。浴槽の中を危なげない足取りで近づいてくると、あまりのことに目をつむったマリエを抱き上げ、再び湯の中に立たせる。

 そしてマリエがこわごわ目を開ければ、今度は強く抱きすくめてきた。


 二人の周りで湯がさざめき立ち、微かな水音を立てる。

 マリエの心臓はそれよりも激しい音を立てる。

 頬に、裸の胸が触れている。長らく湯に浸かっていたせいかほんのりと温かく、しっとり濡れていた。こうして抱き合うことはこれまでにもあったが、その胸に直に触れたのは今が初めてだ。日々鍛え上げられた筋肉質な身体は、こうして触れてみると意外に硬く、自分の胸とはまるで違う形をしていた。

 それでもその奥にある心臓は恐らく同じものであろうし、こうして耳を当てていると激しく脈打っているように聞こえる。


「落ち着いたか」

 尋ねてくる声は冷静だった。

 それは混乱をきたしたマリエを、いくらかではあるが落ち着かせる力があった。

「は、はい、少しだけ」

 マリエは頷き、ひとまず状況の把握に努める。

 ここは浴室だ。浴槽の温かい湯の中に二人はいる。湯浴み中の主は当然何も着ておらず、一方で自分は着衣のままだ。ここへ入ってきた時に持っていた香油の小瓶は、向こうの水面にぷかぷか浮いていた。

 そして、自分は主に抱き締められている。

「あ、あの、この状況で落ち着くのは無理が……」

 震える声で訴えれば、カレルは喉を鳴らして笑った。

「それもそうだな。お前に落ち着かれる方が私は寂しい」

「では、あの、そろそろ……」

 ずっとこのままというわけにはいかない。だが、何から手をつけていいのかもわからない。

 とりあえずは着替えをしなくてはならないし、しかし濡れていないところがないほどずぶ濡れの格好で城の中を歩くのも気が引けた。主はそろそろ湯浴みを終える頃だろうし、その後は夕食の支度がある。こんなところで茫然自失している場合ではない。

「申し訳ございませんでした、殿下」

 マリエは顔を上げずに詫びた。

 とてもではないが主の顔を見て話をする勇気はなかった。だが、こうして主の胸に抱き締められているのも心がざわめく。触れた肌の感触が不思議と心地よく、それがマリエを一層戸惑わせていた。

「何についての詫びだ」

 カレルが尋ねながら、マリエの背中に手を回す。

 濡れた服越しに、その手の熱さがよくわかった。

「お騒がせして、湯浴みを邪魔してしまったことでございます」

「それだけか」

「あとは……夕食の支度が遅くなってしまうかもしれないことと……」

「それも、どうでもよいことだな」

 微かな笑いの後で、するりと、マリエの頭から頭巾が落ちた。

 水面に放られた頭巾を横目に見やれば、濡れた髪を大きな手で撫でられる。その手つきの優しさに、心がとろけていくようだった。

「言ったはずだ。私はお前の本心が知りたいのだと」

 カレルの唇が耳朶に触れ、吐息と共に囁かれた。マリエが身を震わせても、逃そうとせず続ける。

「お前はどういうつもりでここへ来た? 本当は嫌々だったのだろう?」

「そんなことは!」

 マリエは勢いよく面を上げ――濡れた前髪を上げたカレルと目が合い、またすぐに伏せた。視線のやり場に困り、結局その胸に顔を押しつけながら答える。

「殿下が望まれたことを、嫌だと思うはずがございません」

「その割に、浴室へ入ってきた時は気の進まぬ様子だったではないか」

「あれは気恥ずかしかったからで……嫌だったというわけでは、決して」

「本当だな?」

 不意にカレルが顎を掴んで、マリエに顔を上げさせた。

 今度こそ真っ直ぐに目が合う。見上げた先の表情の真剣さに、マリエは息を呑む。

「お前は私の望んだことなら、何でも嫌ではないと申すか」

「はい。何でも、叶えて差し上げたいと存じます」

「何でも、か?」

「わたくしにできることでしたら、何でも」


 その気持ちに嘘はない。

 マリエはいつでもカレルの為に、何かできないかと考えている。かつては忠誠心からだったが、今はもっと別の想いが原動力となっている。

 だが今日のように、その想いだけでは乗り越えられないものもあって――それが時々、マリエを困惑させる。

 何でもできると思っているのに、どうして、ためらってしまうのだろう。


「マリエ……お前は、本当に……」

 カレルは何かを言いかけて、口を噤んだ。

 それからまたマリエを、胸にきつく抱き締めた。

 何かを堪えるように飲み込む音が微かに聞こえ、その後でカレルは独り言のように呟いた。

「全くお前は、私を期待させるのだけは上手いな……」

 その意味をマリエが考えるより先に、

「では逆に問おう。マリエ、お前は今、何を望む?」

 カレルが、今度は優しく囁いてきた。

「わ、わたくしが……?」

「いつまでもこのまま抱き合っているわけにもゆかぬだろう。私はいいが、お前が風邪を引く」

 それでマリエは自らの惨憺たる有様を見下ろし、正直に答える。

「まずは、着替えをしなくてはならないと思っております」

「そうだな。お前の着替えはどこにある?」

「わたくしの部屋にございます」

 答えてから、マリエは別の課題に気づいて途方に暮れた。

 このまま湯から上がっても、濡れ鼠の酷い格好のままで城の中を歩かなくてはならない。

「お前の部屋のどこだ」

 カレルが重ねて尋ねてくるので、マリエは逆に聞き返した。

「なぜ、そのようなことをお聞きになるのですか」

「私が取ってきてやろう。お前をその格好のままで歩かせるわけにはな」

「お、お言葉ですが、殿下がわたくしの部屋に入られては、あらぬ噂が立ちましょう」

 いかに仲睦まじさで知られる主従とは言え、カレルがマリエの部屋に立ち入り、そこから衣服を持ち出す姿を見咎められれば何を言われるかわかったものではない。それでなくとも王子殿下にさせるべき雑事ではないというのに。

「あらぬ噂とは妙なことを言う」

 カレルは一笑に付したが、マリエの懸念を聞き入れる気にはなったらしい。

「では、着替えは別のものを見繕ってくることにする」

「み、見繕うと仰いますと……」

「私は先に上がるが、マリエ。お前はここで湯浴みを済ませておけ」

「えっ」

 マリエの疑問は新たな衝撃によって吹き飛び、慌てて主の顔を窺えば、その表情は何とも愉快そうに輝いていた。

「お前が風邪を引いては困る。私が着替えを持ってくるまで、じっくり身体を温めておくがよい」

「お言葉ですが殿下、ここは……」

 この浴室は王族の為に誂えられたものであり、それ以外の者が使ったなどという話は――少なくともマリエは、耳にしたことがない。

 そんなところで湯浴みをするなど気が引ける以外の何物でもないのだが、

「自分で湯浴みをするのと、私が今すぐその服を脱がせ隅々まで洗ってやるのと、どちらがいい?」

 カレルの半ば脅すような言葉に、大いにうろたえながら答えるしかなかった。

「じ、自分でできますゆえ……」

「そうか、残念だ」

 これは冗談でもない口ぶりでカレルは言い、それからようやくマリエの身体を離した。

 いざ離れてしまうとほんの少しの寂しさ、名残惜しさが胸を過ぎる。だが目の前の人の裸体を直視する度胸もなく、マリエが目を逸らした横で、カレルが湯から上がる水音が聞こえた。

「よいか、私が去ったら服を脱いで湯に浸かれよ。石鹸もきちんと使え」

「かしこまりました……」

「それと、耳の後ろも忘れずに洗うことだ」

 かつてマリエが口酸っぱく注意した言葉を残して、カレルは浴室を去った。


 しばらく微かな衣擦れの音が聞こえていたが、やがて扉が開く音がして、外の会話が漏れ聞こえてきた。

「アロイス、訳あって中にマリエを残している。お前はここに残って見張れ」

「御意。訳とは何か、あえて伺いませんが」

「賢明だな。それとくれぐれも覗くなよ、覗いたらお前の秘密をかの令嬢に暴露する」

「私がそんな真似をするとお思いですか。殿下と一緒になさいませんよう」

 会話が終わると、カレルと残りの兵達の立ち去る足音が聞こえて――マリエはいよいよ今の状況が恐ろしくなってきた。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 訳もわからぬまま辺りを見回せば、自分が持ってきた香油の小瓶と、カレルが外してしまった頭巾、そのどちらもが近くの水面に漂っているのが見えた。だがその二つを今のこの状況と結びつけることは、混乱をきたしたマリエにはできなかった。


 とりあえず、着衣は全て脱いだ。

 どれもこれもが重たく水を吸ったそれらを軽く絞り、浴室の床の上にまとめておいた後、マリエはためらいながらも浴槽に浸かった。湯は温かく心地よかったが、実にそわそわと落ち着かない思いがした。

 大理石造りの豪奢な浴室を、マリエはよく知っている。カレルが湯浴みをする際には掃除をして、湯を張るところまでがマリエの務めだからだ。それでなくともカレルが小さかった頃には湯浴みの手伝いをしたこともあった。ここで頭を洗わせてもらったり、背中を流してあげたりしたのはほんの数年間だけで、あとはほとんど外で湯浴みを待つばかりだったのだが。

 それでも、自分でこの浴室を使うのは初めてだ。

 よもやこんな日が訪れるとは想像すらしていなかった。

 一人には広すぎる浴室は、湯煙で向こうの端が見えないほどだ。ガラス窓から差し込む残照は先程よりも弱まり、浴室も少しずつではあるが薄暗くなってきた。そうなるとマリエは心許なく思い、しばらく湯の中でじっとしていた。


 そうこしていれば、やがて廊下を戻ってくる足音が聞こえ、

「マリエ、もう済んだか」

 扉が開く音がしたかと思うと、たった一枚隔てた布の向こうからカレルの声がした。

「ま、まだでございます」

 おずおず答えれば、カレルはどうも呆れたようだ。

「お前は随分長湯だな。いつもそうなのか」

「今日は何だか、気後れしておりまして……」

「私の手伝いが必要か?」

「い、いえ! お気持ちだけで十分でございます!」

 マリエは大慌てで湯から上がると、石鹸を使って全身を手早く洗った。かつてのカレルのことを言えないほどの迅速な行水だったが、それでも身体に残った質のいい石鹸の芳香が、マリエの罪悪感をより駆り立てた。


 髪も洗ってしまった後、マリエは布越しに声をかける。

「殿下、全て済みました」

 すると向こうからは待ち構えたように返事があった。

「香油はどうする?」

「え、遠慮いたします……」

「何だ、せっかく私が塗ってやろうと思ったのに」

 主の言葉はどこまでが本気なのだろう。マリエは困惑したが、主の方は平然と続けた。

「着替えはここに置いておく。他になかったのだ、黙って着替えよ」

「ありがとうございます、殿下」

「私は外に出ているぞ」

「は、はい。わたくしもすぐに参ります」

 扉が開き、閉まる音を確かめてから、マリエも布をくぐって浴室を出た。

 そして丁寧に折り畳まれた着替えを手に取って検め、更に戦慄した。

「で、殿下、これは……」

「どうした。他になかったと言ったであろう」

 そこにあったドレスには見覚えがあった。

 以前カレルがどうしてもと言って、マリエの為に仕立てさせた本繻子のドレスだ。灰がかった白い生地が美しいそのドレスは、結局お披露目の際に一度着てみせただけで、それきりカレルの部屋にしまわれていたはずだった。

「あの、これではこの後の務めに差し障りが……」

 マリエはさりげなく進言したが、

「そのことは気にするな。いいから早く着るがよい」

「ですが、殿下」

「あまり手間取るようなら私が手を貸すぞ、いいのか」

 脅かされれば従うより他なく、マリエはこわごわ本繻子のドレスに袖を通した。


 以前そのドレスを着た時はルドミラの手を借りていた。

 マリエはこの手のドレスに一切縁がなく、自分だけの手で着られる自信がなかったからだ。生地をたっぷり使ったドレスは着やすいものではなく、一人で身に着けるのにいささか手間取った。

 それでも主が焦れる前には着替えを済ませ、自分でサッシュを結ぶこともできた。


「……殿下」

 マリエがそっと呼びかけると、扉が開いてカレルが現れ、姿を見るなり目を瞠った。

「そのドレス、やはりよく似合うな。しまっておくにはもったいない」

 それからありとあらゆる角度からマリエを眺め、くるりと回したり、まだ湿り気を含んだ髪を持ち上げて首の後ろや背中まで覗いてから、満足そうに微笑んでみせる。

「素晴らしいな……。お前の美しさ、この目に焼きつける時間がいくらあっても足りぬほどだ」

「あ、ありがとうございます」

 感謝を述べてはみたものの、マリエはこの状況に全く思考が追い着いていなかった。

 これから、一体何が起きるのだろう。

「少し、髪を拭いてやろう」

 カレルはドレスを着たマリエを屈ませると、その髪を布でとても優しく拭いてくれた。過去にマリエが、幼かったカレルにそうしたように――その優しさに思わずうっとりしていれば、髪を拭き終えたカレルがマリエの手を取る。

 そしてその手の甲に軽く口づけると、呆気に取られるマリエに向かって微笑んだ。

「では部屋まで戻るとしようか、マリエ」

 マリエは声も出せなくなって、その手に縋るように立ち上がるのがやっとだった。


 何が、かはわからない。

 だが確実に、いつもと違う夜が訪れようとしていた。

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