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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
後日談
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種蒔く日々の移ろい(3)

 晩餐会を終えて私室へ戻った頃、カレルは疲れきった様子だった。

 上着も脱がず、椅子に崩れ落ちるように座ってから、深々と溜息をつく。

「ようやく戻ってこられたな」

「殿下、今宵はお疲れになりましたでしょう」

 すかさずマリエは主を気遣い、言葉をかけた。

「本日の殿下は存分に務めを果たされました。あとはごゆっくりお休みくださいませ」

「確かに、あれだけ踊れば存分と言えるだろうな」

 カレルと踊った令嬢達は、皆とても幸福そうな顔をしていた。彼女ら一人一人の表情を思い起こす度、マリエは微かな胸の痛みを覚えずにはいられなかった。

 だが現実として、カレルが彼女らと満遍なく踊ったからこそ今宵の晩餐会も丸く収まった。マリエの心情など一切関わりなく、今宵は多くの人にとって幸福な夜だったに違いない。


 今や晩餐会の喧騒は遠く、楽隊の奏でる舞曲も人々のざわめきもここにはない。

 あるのはただ夜更けらしい静寂と、そこに溶け込むような二人の話し声だけだ。

「お休み前にお茶でもお入れしましょうか」

「いや、お前も疲れているであろう。何ならもう下がってもよいぞ」

 マリエの提案に、カレルは大人びた微笑で応じる。

 無論それは主なりの優しさだろうし、ありがたい言葉であるはずだった。だがマリエが真っ先に抱いたのは名残惜しさと寂しさであり、すぐには従えなかった。

「よろしいのですか?」

 往生際悪く聞き返すと、カレルの方もマリエの表情から内心を読み取ったのだろう。思い直したようにかぶりを振った。

「お前が疲れているのでなければ一杯貰おう」

「かしこまりました」

「ああ、やはり二杯だ。相伴せよ」

 カレルは自らの命令を訂正すると、含んだような表情で更に言い添えた。

「今宵は私の誕生日だからな、もう少し楽しんでもよいはずだ」

「かしこまりました」

 マリエは先程と同じように、しかし先程よりも嬉しい気分で応じた。


 二人が同じ卓を囲んで茶を楽しむようになったのは、ごく最近のことだ。

 もっともそれは夜が更けて、不意の来訪者が現れることのない時間のみに限られている。マリエも主と同じ卓に着くことの不敬さはよくわかっている。むしろ以前なら、たとえ主の命令であろうともあり得ないことだと徹底的に拒んだだろう。

 だが今のマリエは、カレルが誘えば共に茶を楽しむようにしている。誰にも見られる心配のない夜更けにだけ、二人だけで。

 昼間のように茶菓子を作る暇はなく、今宵も用意したのは朝のうちに焼いた小さな焼き菓子だけだ。

 それでも二人でなら格別の味わいとなる。

「どんな宴の席よりも、お前と飲む茶の時間の方がよほど楽しいな」

 カレルがしみじみと語るのを、マリエも幸福な思いで聞いた。

「お言葉嬉しゅうございます、殿下」

「嬉しいならもっと喜んでみせればよい。お前は何でも控えめだな」

 謝意を示すとなぜかカレルは笑ったが、それすらマリエには不快なものではなかった。


 ただ、今宵はやはり疲れているのだろう。いつもなら茶の時間にはカレルがよく喋り、マリエも熱心に相槌を打ったものだったが、今はお互いに黙っている時間の方が長かった。

 カレルはカップを持ちながら、時々物思いに耽るように目を伏せる。マリエにはそれが疲労困憊の姿に見えた。

 マリエの方も疲れていないわけではない。賀宴ではやはり普段とは違う緊張感があり、主の客人も大勢いる。その全てに失礼がないように振る舞うのは神経を使うし、黙って立っているだけでぴりぴりと張り詰めてくるのだった。その緊張がふっと解けた今、湯気の立つ茶の香りを堪能していれば眠気が静かに忍び寄る。そういえば昨夜はあまり寝ていなかった――。


 そこで、マリエは今日一日で忘れかけていた懸案事項を思い出す。

 母からの手紙は懐にある。主にいつでも見せられるよう携えてきた。だが今日はまだ見せるべきではないとも思う。


「……どうした、マリエ」

 胸中を言い当てるが如く、不意にカレルが尋ねてきた。

 マリエは勢いよく面を上げ、こちらを窺う主の気遣わしげな顔を見つける。

「い、いえ……。少しぼうっとしていただけでございます」

「お前は今朝からずっとそんな調子だな。もう緊張も解けている頃だろうに」

 カレルは眉を顰め、しばらくの間マリエの表情を検分していた。

 マリエとしても永遠に秘めたい事実を隠しているわけではない。今日は日が悪いと思っているだけだった。そのせいだろうか、顔にはよりわかりやすい表情が浮かんでいるようだ。

 やがて、カレルはこう言った。

「それとも何ぞ、私に話したいことでもあるのか」

 はっとして、マリエは思わず目を見開く。

「どうして……おわかりになったのですか」

「どうしても何も、お前の顔は近頃大層わかりやすい」

 言い当てられたことにだろうか、カレルはどこか安堵した様子だった。そして照れたように微笑んだ。

「やはりそうであったか。実は私も、少し期待していたのだ」

「期待、と仰いますと?」

 その言葉に違和感を覚えてマリエは聞き返したが、

「それを私の口から言うのはな。だからこそお前が打ち明けてくれるのを待っていた」

 カレルがそう続けたので、そういうものかと納得した。

 恐らく主は、自分に秘密を作るなと言いたいのだろう。聞けばマリエはすっかり主に隠し事ができなくなっているようだし、端から隠しおおせない秘密ならさっさと打ち明けてしまえ、そう主は言いたいのかもしれない。心優しい主のことだ、マリエの打ち明け話にも必ず耳を傾けてくれるに違いない。

「それに今日は、私の誕生日だからな」

 ぽつりとカレルが呟く。


 だからこそマリエは、今日はまだ言うまいと思っていたのだが――誕生日ということは、カレルがまた一つ歳を重ねたということ。

 見違えるように立派な青年へと成長した主には、マリエの下手な気遣いこそ無用のものなのかもしれない。

 守れぬ秘密を作るより、主の気持ちに寄り添うことこそ肝要だと、そう暗に訴えているのかもしれない。


 マリエはそう結論づけ、カップを置いてから切り出した。

「では、殿下。わたくしの話を聞いていただけますか」

「無論だ。何でも申してみよ」

 カレルは顎を引くと、心を落ち着けるかのように視線を落とす。

 その端整な横顔を見つめながら、マリエは語を継いだ。

「実は昨夜、わたくしの母から手紙が届きまして」

「……ん?」

 怪訝そうな声の後、カレルがゆっくり目を開けた。そして横目でマリエを窺う。

 何かおかしなことを言っただろうか。マリエも恐る恐る続ける。

「その内容のことを、殿下にお伺いしたく存じます。つまり――」

 縁談がどうの、身を固めるのがどうのという話はさすがに口にしにくく、ひとまず要点だけをかいつまんで話した。

「わたくしの弟、名をミランと申しますが、近頃ようやく十になったそうなのです」

「ほう」

「それで、母としてはそろそろ弟にも城勤めを始めさせたいとのことで、一度殿下にお目通りを叶えられたらと」

 そこで一旦言葉を区切り、呼吸を整えてから、

「そして……近い未来においては弟が殿下の近侍を務めさせていただき、わたくしには実家へ戻るようにと――」

「ならぬ」

 短く、カレルが口を挟んだ。

 見れば王子殿下はすっかり機嫌を損ねているようで、物問いたげでありながら不満げでもある眼差しをマリエへと突き立てている。

「マリエ。たった今、私の中で淡い期待が潰える音が響いたぞ」

「え……ええと、どういうことでございましょう」

「しかも実家に戻れとは何事だ。他の誰が許しても私が許さぬ」

「も、もちろんでございます。わたくしも今更戻る気などございません」

 マリエが大急ぎで応じると、カレルはまだ不満顔ながらもいくらか穏やかな声音で言った。

「その手紙とやらはここにあるのか」

「はい、ございます」

「では見せてみよ。お前の母親の意図するところを知りたい」

 そこでマリエは懐にしまい込んでいた手紙を差し出した。

 カレルはそれを受け取りすぐさま目を通し始めたが、その表情がみるみる険しくなっていき、

「あ、あの殿下。縁談などわたくしは考えてもおりませんのでどうか……!」

「当たり前だ。即刻返事を書き、私が腹を立てていたとしかと伝えよ。何なら私が書いてもよい」

「畏れ多いことでございます、わたくしが確かにしたためますので!」

「ならばよし。私の怒りについても必ず書くのだぞ」

 どうにか宥めるのに成功したところで、マリエは本題に入る。

「ただ、わたくしからもお願いでございます。一度、弟に会ってはいただけないでしょうか」

「お前の、弟か……」

 するとカレルは、まるで想像を巡らせるようにマリエの顔をしげしげと見つめた。

 マリエは恥じ入りながら続ける。

「わたくしは、いつかこの城を去る身。その後には殿下のお傍に別の近侍が必要でございます。もし、わたくしの弟にそれが務まるのであればこの上なく光栄なこと」

「なるほど」

 聡明なカレルはすぐに得心したようだ。

「では、近々機会を設けよう。先のことを見据えて、支度をしておかなければな」

「はい。何卒お願いいたします」

 自分に残された時間がいかほどか、マリエはまだ掴み切れていない。

 だからこそ、すべきことはできるうちに済ませておかなければならない。その時がいつ訪れてもいいように。


「それにしても、お前に弟がいたとはな」

 カレルは新しい楽しみを見つけたように唇を歪めた。

「初耳であったぞ、マリエ。どんな弟か話して聞かせよ」

「お言葉ですが、わたくしもついぞ会ったことはございません」

「会ったことがない……?」

「はい。わたくしが城勤めを始めてから生まれた弟でございます」

 マリエの答えに、カレルは衝撃を受けたようだ。瞠目したかと思うと、次の瞬間気まずげに続ける。

「私が言うのもどうかと思うが、お前はたまに家へ帰ったらどうだ」

「わたくしは既に独り立ちをした身でございます。お気遣いなく」

 そう言って、マリエは主に微笑んだ。

 実のところ帰りたいという気持ちはあまりない。十年も帰らなければ生家への愛着は薄れ、ましてや顔も知らぬ弟がいるのでは落ち着けるものでもない。両親も自分の顔を見たがっているようではなく、帰ってこいと言われたのはこの度が初めてだ。それも手紙の返事を出せばどうなるか――。

「では、私と同じくお前にとっても、弟との初めての対面となるわけだな」

「はい」

 そのことも、マリエはいささか気が重い。

 長らく顔を合わせる機会もなかった弟と、一体何を話せばよいのだろう。向こうも初対面の年上の女をすんなり姉と思えるものだろうか。ただでさえ、これまでマリエには小さな子供と触れ合う機会があまりなかった。歳の離れた弟との接し方がまるでわからない。

 そんな不安を打ち明けたところ、カレルは朗らかに笑い飛ばした。

「何を申す。お前は幼い頃の私の面倒をよく見てくれたではないか」

 そして戸惑うマリエを励ますように、その手を温かく握ってくれた。

「案ずるな。お前が不安に思うことを、きっとお前の弟も思っていることだろう」

「殿下……そう、なりますでしょうか」

「ああ。幼子と言えど侮るなよ、意外と気を遣うし、顔色も窺うのだからな」

 得意げに語るカレルの顔立ちに、幼子の頃の面影はない。

 マリエはそれを感慨深いような、胸ときめくような思いで見つめ返していた。


 翌日、マリエはすぐさま母親あてに返事を出した。

 さすがにカレルの言葉をそのまま書く気にはなれなかったが、王子殿下が気分を害することへの警句はそれとなく忍ばせた。その上で、自分はまだ城勤めを続けるつもりでいること、仮に務めを解かれても縁談を受ける気はないので勝手に話を進めないで欲しいことはしっかりと書き綴った。そして、お目通りが近いうちに叶うだろうということも。

 するとほとんど日を置かずに母から手紙が返ってきて――マリエの身の振り方については一切触れることなく、ミランの殿下へのお目通りが叶うことを喜ぶ言葉だけが簡潔に綴られていた。


 カレルの誕生日から一月が過ぎた頃、遂にお目通りの日が訪れた。

 この日、マリエは城門前に立ち、弟の到着を出迎える手はずだった。

 弟がどれだけ優秀かはわからないが、十歳ともなれば分別もつき、一国の王子と顔を合わせることの重大さは理解しているだろう。恐らく緊張していることだろうから、まずはマリエが軽く話をして、弟の緊張を解きほぐしてやる方がよい――とは、当の王子殿下の提案である。


 しかしながら、マリエの方が緊張している場合はどうすればよいのだろう。

 城門前で弟の来報を待ちながら、マリエは今までになくそわそわしていた。風のある肌寒い日だったが既に喉はからからで、背中に変な汗を掻いている。足元がふわふわと覚束ないのも困ったものだ。

「マリエ、少しは落ち着け」

 おまけに背後から、ここにいるべきではない人からの声がして――、

「殿下……お部屋でお待ちになっているのではございませんでしたか」

 振り返れば城門の内側、緑の植え込みのその陰に、こちらをこっそり覗くカレルの姿があった。

「案ずるでない。アロイスもいる」

 得意げな王子殿下のすぐ後ろには、同じようにこちらを窺う近衛隊長の姿も見え、

「アロイス様まで、どうして……」

 マリエが咎めるように名を呼べば、アロイスは心外そうに答えた。

「私は殿下の御身をお守りするのが務め。殿下の向かわれるところへ来たまでです」

「よく言う。お前もマリエの弟がどんな者か、興味を募らせていたではないか」

「そう仰る殿下は、マリエ殿を案じるあまりこちらへ来てしまわれたのでしたな」

「面構えは岩のようなのに口の軽い男だな。少しは私を見習うがいい」

 アロイスとカレルの小競り合いのようなやり取りを、マリエは頼もしい思いで聞いていた。

 実は少しだけ、心細かったのだ。

 だがミランもこんなところで王子殿下の顔を見れば卒倒してしまうかもしれず、マリエは二人に釘を刺す。

「殿下へのお目通りはあくまでもお部屋で。どうぞお願いいたします、殿下」

「わかっておる。姿をちらりと見たら気取られぬうちに戻る」

 その返答を聞くと、マリエは深呼吸を一つした。

 先程よりも不思議なくらい、気持ちが楽になっていた。


 そして二人分の視線を背負いながらどれほど待った頃だろうか、

「……あれか。髪の色が同じだ」

 カレルが呟いた通り、黒髪の小さな少年が城門へ続く坂道を上ってくるのが見えた。

 その姿は本当に小さく、着ている外套は地面すれすれの長さだ。やがてそのあどけない顔立ちがはっきり目視できる距離まで来た時、彼の方もマリエに気づいて、ぱっと駆け出し近づいてきた。

「ねえさま、ですか?」

 開口一番、黒髪の少年はそう言った。

「ミランと申します。あの、あなたが、マリエねえさまですか?」

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