伝書婦人と悪食令嬢(3)
扉の前に陣取るカレルがしびれを切らす。
「何をしている、即答せよ」
苛立った様子の独り言に、口を押さえられているマリエは反応ができなかった。
だがマリエもアロイスの答えを待ち詫びていたのは同じことだ。
どのくらい待っただろうか。
やがて、とうとうアロイスが言った。
「承知いたしました。何なりとお聞きください、ご令嬢」
諦めまじりとも、精一杯の優しさともつかぬ穏やかな声音でそう言った。
途端にルドミラの険しかった表情が解け、久方ぶりに少女らしい微笑みが浮かんだ。
「では、まず聞かせてちょうだい。前に伺ったのだけど、職務を終えて一息つく時は真っ先にわたくしの顔を浮かべているって本当?」
先程よりは短い沈黙が書庫の中に落ちた後、
「……事実でございます、ルドミラ嬢」
アロイスは、聴いたこともないような優しい声でそれを認めた。
するとルドミラの横顔は、ますます明るく輝く。
「そう、よかった。他には?」
「他と仰いますと?」
「他にどんな時、わたくしのことを考えているのかしら?」
「それは……例えば、夜、眠りに就く時などです」
「そう。わたくしの夢を見たことがある?」
「無論、ございます」
書庫の外で二人の会話を聞くマリエは、この辺りで頭がくらくらしてきた。これは誰がどう聞いてもただの睦言だ。他人が盗み聞きしていい会話ではない。
だがカレルはマリエの口を押さえたまま、扉の前から動こうとしない。
そしてアロイスは堰を切ったように話を続ける。
「私は殿下に全てを捧げたつもりでした。この剣と、忠心と、我が生涯。それが私の全てだと思っておりました」
「でもあなたはそれだけの人じゃない、そうでしょう?」
「仰る通りです。他には何もないと思っていた私の胸に、あなたはたやすく入り込んでしまわれた」
「だってわたくしは、近衛隊長ではないあなたを知っているんですもの。少しだけだけど」
そう言うとルドミラは少々照れたように栗色の髪をかき上げた。
「またいつか、あなたのことを知る機会があるかしら……」
「わからないとしか申し上げられません」
この問いにアロイスは即答し、ルドミラと書庫の外の面々を苦笑させた。
「そういうところは正直なのね」
「私にも、嘘をつきたくない気分の時がございます」
アロイスはそう言うと前に進み出て、ルドミラの足元にひざまずいた。
扉の隙間から覗くマリエからもその姿がようやく見えたが、頭を垂れているせいで表情はやはり窺えなかった。
「私の剣と忠心と生涯、それ以外のものはごくわずかでしょうが、それでよければ全てあなたに捧げましょう」
誓いを立てるようにアロイスは言い、目の前に立つルドミラの手を取った。そしてその手の甲に口づけた。
誰かが深い吐息を漏らし、マリエは危うく跳び上がりそうになったが、意外にもルドミラはそこで眉を顰めた。
「手の甲だけでは嫌」
すぐに、アロイスが面を上げる。困惑しているのが表情からありありとわかる。
「ルドミラ嬢、それは……」
「困るとでも言うの? わたくしはちっとも困らなくてよ」
「ですが……」
アロイスの目が横に流れ、書庫の扉を、薄く開いた隙間を捉えた。一瞬浮かんだ微苦笑の後、令嬢に向き直る。
「ご存知かもしれませんが、ここも殿下の御前です。それはさすがのあなたもお困りになるでしょう?」
「えっ」
とっさにルドミラも扉の方を向き、その顔がたちどころに上気した。
マリエは彼女と目が合ったようにも思ったが、ルドミラはすぐにアロイスへ視線を戻し、真っ赤な顔で言い放つ。
「そんなことくらいで尻込みするなんて、近衛隊長ともあろう方が意外と臆病なのね」
「……あなたの豪胆さには、私とて敵いません」
目を剥いたアロイスはそう応じた後、身軽に立ち上がった。
それからはもうためらうこともなくルドミラの細い肩に手を置き、そっと顔を近づけたが、マリエが見ていられたのは二人が目を閉じた瞬間までだった。
あとはもう正視することもままならず、両手で目を覆って、周囲で湧き起こる感嘆の声から大方の状況を察するしかなかった。
令嬢はその後、いつになく上機嫌で帰途についた。
書庫に残ったのは対照的に不機嫌そうなアロイスと、そんな彼を見て笑いを堪えているカレル、そしてすっかりあてられて赤面したまま立ち直れていないマリエだった。
「殿下のお手を煩わせたことは反省しておりますが、だからといって見世物扱いはあんまりです」
アロイスが抗議すると、カレルはにやりとして応じる。
「喧嘩をする方が悪い。これに懲りたら少しは控えよ」
「私はそうありたいのですが、ご令嬢がどう思われるか」
首を竦めたアロイスは、その後で未だに動揺しているマリエに目を向けた。
「マリエ殿も、そこまで恥ずかしがるなら見なければよかったでしょう」
「も、申し訳ございません。見ないようにしていたのですが……」
「全く。あなたが止めてくれなければ、他に誰が殿下を止められるのですか」
そう言い残すと、アロイスは書庫を出ていこうとする。
だが扉に手をかけたところで振り返り、並んで立つカレルとマリエを眺めた。その時、わずかにだけ目を細めたように見えた。
「殿下、マリエ殿。ここはお二人にとっても思い出の場所でしょう」
城の書庫はいつでも古い書物の匂いがする。雨の日だけは少しだけ空気が重く感じられたが、それでも匂いの本質が変わることはない。
それはマリエの記憶にもまだ新しい、いくつかの思い出に絡む匂いでもあった。
「私は外におりますので、次はお二人でどうぞごゆっくり」
まるで意趣返しのように言い残し、アロイスが書庫を出ていく。
扉が完全に閉まったのを確かめてからカレルがこちらを向いた。
途端にマリエはうろたえながら進言した。
「で、殿下、そろそろお戻りになってお茶にいたしましょうか」
「何を慌てている」
カレルはそんなマリエの反応を面白がっている。声を立てて笑った。
しかしマリエは笑えるはずもなく、不自然なくらいに静かな廊下が気になって仕方がない。それでなくともこういった雰囲気には慣れていない為、すぐ傍にいるカレルの顔を直視できない有様だった。
するとカレルはマリエの肩に手を回し、ぐっと引き寄せた。そして廊下に聞こえないよう、耳元で囁いてくる。
「どうだ、マリエ。私の策は見事に上手くいったぞ」
「は……はい。さすがでございます、殿下」
「だから言ったであろう。私にはルドミラ嬢の気持ちがよくわかる、とな」
カレルは得意げに語ったが、それでマリエは弾かれたように面を上げた。
肩を抱き寄せる王子殿下の、すぐ近くにある顔を見上げる。実に晴れやかな、一点の曇りもない満面の笑みだ。だからこそ、マリエは問いかけずにいられなかった。
「殿下も、ルドミラ様のように不安を抱かれることがあるのですか?」
もしそうなら、マリエにもするべきことがあるはずだった。カレルが胸に不安を巣食わせたままで日々を過ごしているのかと思うとマリエの心まで痛んだ。何をすればいいのかはわからないが、何かして差し上げたいと思う。
問いかけられたカレルは笑んだまま、マリエの瞳を見つめ返してくる。
「今は全くない」
答えは簡潔で、力強かった。
「今は……。では、以前はもしや……」
「私はお前をよく知っている。お前はずっと私の傍にいてくれたからな」
マリエの言葉を遮るように、カレルはそう言った。
そしてふと笑みを消し、静かな声で付け加える。
「一つ、私が最も知りたいと思うことを長らく知り得ずにいたが、それも先だって知ることができた。だからもう、不安などない」
それを聞いて、マリエは深く息をついた。安堵したのと同時に、今の言葉が胸に響いて、またしても言い表しようのないいとおしさが満ちてくるようだった。
「お前の方こそ、不安はないか」
逆にカレルが尋ねてきたので、マリエは間髪入れずにかぶりを振った。
「わたくしも、何一つとして。殿下のお傍にいる今は、幸いに満ち満ちております」
「そうか。ならば不安になった時はすぐに申せ。何ならルドミラ嬢のように怒ってみせてもよい」
「お言葉ですが、わたくしが殿下に怒りを抱くなど、あり得ないことでございます」
カレルに憤る自分自身はあまりにも想像がつかず、マリエはそこで小さく笑う。
その顔にじっと見入ったカレルが、意を決したようにマリエの顎を掴んだ。
そして半ば強引に上を向かせたかと思うと、黙って唇を合わせてきた。
口づけられていた時間はほんの一呼吸の間だったが、柔らかく慣れない感触はマリエを動揺させるには十分だった。
声も出せずに硬直するマリエを見て、カレルは先程とは違う大人びた笑みを浮かべる。
「確かに、不意を打ってもちっとも怒らないのだな、お前は」
廊下で起きたどよめきが、今のマリエには遠く聞こえた。
「で……殿下、あの、急にこのようなことは……!」
「それどころか実に幸せそうな顔をする。お前がそういう顔を見せること、私はずっと知らなかったぞ」
カレルがしみじみと感じ入ったように言った。
マリエは今の自分がどんな顔をしているか知りようがなかった。ここには鏡も、その代わりになるようなものもない。だが主の言葉は信じられるものであったし、それによれば今のマリエはこれまでにないような顔つきをしているらしい。
「恐らく、まだ他にもあるのだろうな。私の知り得ぬお前の顔が」
そう言うとカレルはマリエの熱い頬を撫で、万感の思いを込めて呟く。
「それらを全て、これから見てみたいものだ。私の記憶に留めて、いつ何時でも思い出せるようにな」
マリエはその言葉にすら答えられず、カレルの日ごとに大人びていく面立ちに見入っていた。
胸には幸福が満ち溢れ、いとおしさも込み上げていたが、まだそういう感情をどう表せばいいかわからなかった。ただ口元には自然と笑みが浮かんで、照れながらもそれを隠さずにいると、カレルも同じように幸福そうに笑い返してくれた。
かくして、マリエは伝書鳩の役割を無事解かれることとなった。
なお、ルドミラの悪食ぶりはこれ以降いくらか鳴りを潜めたようだ。犬も食べないような喧嘩はその後しばらく起こらなかったが、近衛隊長と王子殿下が互いに相手を冷やかし、からかいあう小競り合いが代わりに当面続いた。
お蔭でマリエもこれらの記憶を、ずっと忘れることはできなかった。
それを幸いなことだと思えるようになるまでにはいくらか時間が必要だったが――後になって振り返れば確かに、幸いな日々の記憶に違いなかった。




