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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
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消耗してゆく

 マリエは浴室の外で、主の湯浴みが終わるのを待っていた。

 布一枚を隔てた浴室からは、カレルが立てる水音が聞こえてくる。たった一人の入浴を満喫しているようで、時々泳いでいるような気配すら感じられることがあった。


 身分貴き人々は、浴室にも従者を立ち入らせて湯浴みの手伝いをさせるのが常だ。

 裕福な貴族の中には、侍女を五人も六人も引き連れては、髪を洗う者、足を洗う者、香油を塗る者とそれぞれに役目を与え、湯浴みの時間を楽しむ者もいるという。

 しかしながら、カレルは湯浴みに際して、マリエの手伝いを拒んでいた。

「もう手助けは要らぬ。一人で入りたい」

 恥ずかしそうに言い渡されたのは今から四年ほど前のことだ。マリエも繊細な少年の心情を汲み、以後はおとなしく浴室の外で控えてきた。

 だが一人気ままな湯浴みをするカレルに対しては、いささかの懸念も抱いていた。


 城内では湯浴みに時間をかけぬこと、転じて極めて短い時間のことを『殿下の行水』という。

 その言葉を裏づけるように、カレルが一人で湯浴みをするようになってから、石鹸や香油の減りが目に見えて遅くなっていた。

 一国の王子たる者、身だしなみには細心の注意を払わなくてはならないはずだった。近侍としてマリエも細やかな世話をし、カレルがすれ違う人々に顔を顰められることのないよう気を配っていた。しかし当の王子はマリエの目の届かぬところで適度に手を抜いているようだ。

 少年のうちはそれでも仕方のないことかもしれない。身体を清め肌を磨くよりも、湯の中で泳ぎ回る方が好きだと思うのもやむを得ないのかもしれない。だがカレルは既に少年ではなく、次の国王としての期待や責務も担う立場にいるのだ。そろそろ自ら身だしなみを気遣うようになって欲しいものだとマリエは思っている。

 思うだけではなく、時々口にも出している。

「殿下、お身体はちゃんと洗いましたか?」

 マリエの問いは布越しに浴室内まで届いたようだ。

 すぐに向こう側から、溜息まじりの返答があった。

「言われずともちゃんと洗った」

 もう飽き飽きだと言わんばかりにカレルは答え、次に機先を制すように続ける。

「背中も洗ったからな。案ずるな」

 それを聞き、マリエはすかさず言い返した。

「耳の後ろもですよ、殿下」

「……わかっている」

 うんざりした様子のカレルはその後、湯を掻き回す音に愚痴を紛れ込ませた。

「全くあれと来たら、いつまでも子供の扱いをする。もう幼子でもないというのに、いつまで年上らしく偉ぶっていれば気が済むのか……」

 傍らに控える近侍には、当然そんな呟きも筒抜けだ。マリエはそっと苦笑した。

 子供扱いをされたくないのなら、石鹸や香油の減りが遅いことにも気づけるようでなくては。全く気づいていないのか、それともカレルに誤魔化す気がないのかはわからないが、どちらにしてもマリエはカレルの抜け切らない幼さを案じてしまうのだった。


 カレルが湯から上がった後も、マリエの出番はほとんどない。

 近侍の務めには着替えの手伝いも含まれており、かつてはカレルも素直にマリエの手を借りていた。しかし湯浴みと同じように四年ほど前から、手を借りることを拒み始めた。着衣を検め、その日の予定に合わせたものを用意するのがマリエの務めなのだが、それすら要らぬと言い出したカレルとの間で、当時は何度か折衝が行われた。

 そして現在、十八歳の王子の湯浴み後に関してマリエが許されていることといえば、着衣一揃いを選び出して脱衣場まで持っていき、カレルが命じる度に顔を背けたまま一枚一枚差し出す、という実に手間のかかる仕事のみだった。

「マリエ、シャツを持て」

「はい、こちらに」

 命ぜられてマリエは、シャツを持った手を後ろへ突き出す。

 カレルがシャツを掴んだのを確かめると、手を引っ込める。背を向けたままのこの作業がかえって不敬ではないかと、考え込んでしまうこともあるこの頃だった。

 だが、たまにうっかり振り向いてしまう時もある。

「殿下、香油はお使いになりました?」

 ふと思いついて、マリエは主に声をかけた。

 そして何気なく振り向いた瞬間、脱衣場の隅で着替えをしていたカレルの背中が目に入る。シャツに手を通そうとしていたカレルはまだ下着を身に着けただけで、マリエの視線に気づくや否や、悲鳴に近い叫びを上げる。

「マリエ! こちらを向くなと言っておいたのに!」

「し、失礼いたしました」

 マリエも慌てて視線を逸らす。

 幼い頃より世話をしている相手だ、裸になったところを見たことは何度もある。いかに繊細な年頃とは言えそこまで拒絶しなくてもいいのに、と内心では思う。

 しかし気に懸かったのはそれではなく、今度はそちらを向かぬようにして告げた。

「香油はお使いになりましたか、殿下」

 一瞬間があり、カレルが答えた。

「いや」

「なぜです? 湯浴みの後は香油を塗るようにと申し上げていたはずですが」

 香油を入れた小瓶は既に手渡してある。いつもは渋々ながらも使っているカレルが、今日は使おうとしなかったのは疑問だった。

「これの匂いが気に入らぬ」

 と、カレルはぼやくように言った。

 独特の匂いを有する香油を好かない者も、確かにいる。王族が使う香油は特別に精製された上質の、素晴らしく香り高いものだったが、花の匂いですらも気に入らぬのはまさに年頃だからなのかもしれない。

 いくらかは理解しつつ、だがマリエも唯々諾々と引き下がるわけにはいかなかった。

「お言葉ですが殿下、香油はとても身体によいものです」

 咎める口調で告げると、咎める声が返ってきた。

「どこが身体によいものか。浮ついた匂いが鼻につき、傷にも染みる。ろくなものではない」

「ですが、傷や打ち身の治りをよくするものでもございます」

「そんなはずはない。この間も塗らなかったが、特別違いもなかった――」

 言いかけて、カレルは不自然に沈黙した。

 どうりで減りが遅いはずだとマリエは思う。抗議の意思を込めて振り返り、背を向ける主をじっと見つめる。まだシャツを着ていないカレルがぎょっとした。

「だから、こちらを向くなと言ったはずだ!」

「……失礼いたしました」

 今度は伏し目がちにしただけで、マリエは背を向けず語を継いだ。

「しかしながら、殿下。そのように手を抜かれるのであれば、殿下お一人にお任せしておくわけにも参りません」

 すかさずカレルも反論してくる。

「手を抜いているわけではない。いいから早く壁の方を向け」

「きちんと香油をお使いになってください。匂いがお嫌なら、私が鼻を摘んで差し上げますから」

「お前の手は借りぬ。とにかく向こうを向いていろ」

 カレルは強情だった。

 普段なら、忠誠を誓う相手に歯向かうなど考えもしないことだ。マリエも一瞬、譲るべきかと判断に迷う。

 しかし一国の王子として、身だしなみに関してだけはきちんとしていて欲しい。マリエにも責任のあることだからこそ、強くそう思う。

 仕方なしにマリエは、言うまいと思っていたことを口にした。

「恐れながら申し上げますと、殿下がお一人で湯浴みをされるようになってからというもの、石鹸も香油もなかなか減らなくなったのでございます。これがどういうことか、殿下にもおわかりでしょう?」

「節制しているのだ。よいことではないか」

 悪びれずに答えるカレルに、マリエは眩暈を覚えた。

「殿下、殿下は民にも広く愛される存在であるべきでしょう。身だしなみに気をつけてこそ信望もより得られるのだとわたくしは思います」

「傍によって匂いを嗅がれるわけでもなし、見た目がきちんとしていれば問題ないであろう」

 成長の過程で減らず口も覚えたようだ。

 やむなく、マリエは最後の切り札を提示せざるを得なくなる。

「……世の婦人たちというものは、やはりきれいにしている殿方にこそ惹かれるものだと、ものの本には書いてありました」

 その切り札は効を奏したようだ。

 うっと詰まってみせた後、カレルはぼそりと呟く。

「そうなのか?」

「当然です。ですから、殿下――」

 マリエは視線を上げた。

 途端、カレルは手にしたシャツで自分の身体を隠した。

「見るな!」

「あ、ええと……殿下、今日のところは是非、わたくしにお任せください」

 半裸の主を目の当たりにしても、マリエは平然としたものだ。カレルは忌々しげに赤面して背を向けたが、マリエは意に介さず続けた。

「香油、わたくしが塗って差し上げます」

 途端、裸の肩が跳ねた。

「お、お前がか?」

「ええ。お許しいただけますか?」

 マリエの申し出に、カレルは急にそわそわし始める。

「それはお前の手で、ということか?」

「もちろんでございます、殿下」

「だが、それはその、どうであろうな。お前は失念しているようだが、私は男だ」

「存じております」

「そしてお前は女だ。若い女が、軽々しく男の肌に触れるというのは……」

「わたくしには軽々しい気持ちなどございません」

 繊細な年頃らしく、気にかける内容も随分と繊細だ。マリエは主を安心させようと、なるべく柔らかい声音で諭す。

「殿下は香油の使い方をお忘れなのでしょう。わたくしがまた一から教えて差し上げます。そうすれば殿下にも、香油を使うのがいかに心地よいことか、ご理解いただけるはずです」

 マリエが語りかけると、カレルの背中が緊張するのがわかった。肩を大きく上下させた後、ぎこちなく振り向いた。

 そして視線を泳がせつつ、近侍に命じた。

「背中だけなら……ゆ、許してやってもよい」

「仰せのままに」

 マリエは粛々と拝命した。


 浴室の隣にある脱衣場には、簡素な木造の寝台が用意されている。

 それはまさに王族が香油を塗らせる時に用いるものだった。しかしカレルが用いたのはそれこそ四年も前の話だ。マリエは懐かしさを覚えていた。

 カレルは寝台の上にうつ伏せになっている。両手を顎の下で組み、面持ちはさながら外科手術でも施される患者のように険しい。頬が燃えるように紅潮しているのは湯上がりだからか、それとも下着姿を晒している気恥ずかしさからだろうか。

「では、失礼いたします」

 マリエは手のひらに香油を少量取り、温めてから、その手をカレルの背中に置いた。

 びくりと緊張した背中は、それでもされるがままだった。香油を広げ、ゆっくりと伸ばしていく手の動きに身体を震わせ、溜息をつく。

 辺りには上質な香油のよい香りが満ちた。

「いつの間にやら、殿下のお背中も広くなりましたね」

 主の背中は、隅々まで香油を伸ばすにも手間がかかるほど広くなっていた。マリエが言葉をかけると、拗ねた声がくぐもって聞こえた。

「いつまでも子供のままでいると思うな」

「仰るとおりです。この間までとても小さなお身体だと思っていたのに……」

 しみじみ語ったマリエはふと、カレルの背中に打ち身の跡を見つけた。指先でそっと触れると、う、と呻く声がする。

「殿下、こちらに痣がございます。どこかでぶつけられたのですか?」

「ああそれか。この間、剣術の稽古を付けてもらった時のものだ」

「あまり危ないことはなさらないでくださいね。お怪我をされては一大事です」

 いくら背中が広くなっても、中身の方はなかなか変わらないようだ。カレルは昔から活発で、身体を動かすことが好きだった。打ち身や擦り傷を作ってきたのも昔と同じだ。マリエが痣の部分にも香油を丁寧に擦り込むと、カレルは声を堪えるように唇を結んだ。

「痛みはございますか?」

「……いや。痛みは、ない」

「それならすぐに治ってしまうことでしょう。安心いたしました」

 主の背に手を滑らせながら、マリエは時の流れに思いを馳せる。

 それでも、カレルが何も変わっていないわけではない。背中が広くなり、見上げるほど背が伸びた今、カレルは想い人を作り、日々煩悶しているところだ。それも自らのさだめを理解した上での悩みだと思うと、マリエは少しでもその重荷を軽くしてあげられたらと思ってやまない。

「殿下、これも先程お話した、ものの本で読んだことなのですが」

 マリエは、ぽつりと語りかけた。

「世の女は殿方の背中に惹かれるのだそうです。逆に申し上げれば、殿方は広くて逞しい背中で、言葉よりも雄弁に世の女たちを惹きつけるものなのだと聞きました」

 マリエがこの手で触れている、カレルの背中も広くて逞しい。硬く引き締まった身体は女のものとは確実に違い、肩甲骨がくっきりと浮き上がっている。肩幅も広く、腕には筋肉がつき、脇腹には贅肉もない。

 ふと、先程聞かされたカレルの言葉を思い出す。主は自らを『男だ』と言っていたが、その通りなのだと実感させられた。

 であれば、この背中に惹かれる婦人もいるに違いない。

「殿下のお背中もご立派なものだとわたくしは存じます。殿下の想われる方が、この背中の魅力に気づいてくださることを、わたくしも願ってやみません」

 これほど広くなった背中ですら、かの婦人へ寄せる想いは背負い切れないほどだ。

 カレルの想いが叶えばよいとマリエは思う。

 たとえそれが先行きの暗い、茨の道であったとしても、叶えてはならぬ想いだとしても、マリエは近侍として支え続けていくつもりでいた。

 マリエの願いをカレルはどう聞いたのだろう。しばらく黙っていたが、不意に呟きを零した。

「マリエ、お前の手は冷たいな」

「はい。わたくしは湯に浸かっておりませんから」

 答えたマリエに、カレルは少し笑ってみせる。

「そうだな。ひやりとして、とても心地がよい」

「ありがとうございます、殿下」

「それにとても、――柔らかい手だ」

 吐息まじりの言葉は室内に溶け込み、やがて沈黙が訪れる。

 うっとりした様子で瞑目するカレルを見下ろし、マリエは静かに微笑んだ。

 止まってしまったような時間の中で、その手だけが動いていた。広い背中を優しく、労わるように撫でていく。次第に艶を帯びていく背中にじっくりと丁寧に香油を塗り込んでいく。

 芳香に満ちた室内で、穏やかなひとときが続いた。


 だがしばらくして、カレルが急に声を上げた。

「も、もうよい、マリエ」

 沈黙を引き裂くように鋭く、それでいて苦しげな声だった。

「もうよろしいのですか?」

 不自然な制止を、マリエは怪訝に思う。

 するとカレルは熱に浮かされたように、

「いや、その……頭がぼうっとするのだ」

「え?」

 思わず、マリエは主の顔を覗き込む。

「どうも、のぼせてしまったようだ……」

 呻いたカレルの顔は真っ赤で、呼吸が少し乱れていた。額には汗も滲んでいる。

 苦しげな表情を見たマリエは息を呑んだ。そういえばカレルは先程から赤い顔をしていた。それも湯上がりだからと見過ごしていたが、それだけの話ではなかったようだ。

 自らの迂闊さを悔やむ暇もなく、マリエは素早く行動を取った。

「た、ただいま、冷たいお水を持って参ります!」

 後片づけもそこそこに脱衣場を飛び出していく。

 彼女の後を追うように、脱衣場にはいつになく深く、思い詰めたような溜息が響いた。

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