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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
後日談
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思い出はどこにでも(1)

 そもそもの発端はルドミラにあった。

 いつものように茶会という名目でカレルを訪ねてきた彼女は、しかしいつもとは少々異なるいでたちでいた。

 本繻子のドレスはつるつるとした薄紅色で、近年流行の肩を潔く露出する型だ。その肩口から大きく開いた背にかけて、それから背よりは控えめに開いた胸元まで布地を惜しむことなくひだ飾りがついている。裾は床に引きずるほど長く、手袋をはめた繊手が摘み上げても尚長く、それでも令嬢は滑るような動きで歩いてくる。結い上げた髪には花を飾り、まるで舞踏会にでも招かれたような装いで現れた。


 令嬢の清艶さにマリエはしばし見惚れたし、カレルも率直な褒め言葉を贈る。

「今日のあなたは一段と美しい。随分とめかしこんでいるようだが、この後に何ぞ用でもあるのか?」

 既に馴染みとなった茶会とはいえ、仮にも一国の王子との拝謁だ。彼女が自分に会いに来る為に装ったとは露とも考えない辺り、カレルのルドミラに対する親しみと、若干の鈍感さが窺える。

 もっとも、日頃のルドミラは流行の型やふんだんなひだ飾りには目もくれず、読書の妨げにならない、すっきりした細身の着衣を好む傾向にあった。その彼女が着飾ってきたのだから、カレルが疑問を抱くのも無理はないのかもしれない。

 当のルドミラはひとまず笑んで、

「お褒めにあずかり光栄ですわ、殿下」

 礼を述べた後、華奢でなめらかな肩を竦めてみせた。

「用なんて特にございませんのよ。わたくしも本日はいつも通りのいでたちで参ろうと考えておりましたもの。それを父が、せっかく仕立てたのだから是非殿下にお見せしなさいとしつこくて。渋々、着て参りました次第ですの」

 どうやら今日の召し物は下ろしたての品らしい。ルドミラの父は未だに娘と王子の内心を知らず、二人の婚姻を望んでいるのだろう。もしかするとこのドレスも、その為の一助として仕立てられたものなのだろうか。

 思いを馳せればマリエはいくばくか、複雑な感情に駆られたが、もはや迷いはなかった。


 誰かが望まなかろうと、誰にも望まれなかろうと、ただ一人、カレルが望む生き方をしよう。そうマリエが決意したのは既に何月も前のことで、その決意は以降も何ら変わりなく、揺るぎなく、胸のうちにある。自らが選び取った道なのだから、誰かの思いを踏みつけにしようと前に進むより他ない。

 そしてルドミラもまた、望まれないかもしれない生き方を選び取った――彼女に言わせればまだ決定事項ではなく、結末は未来において詳らかになるとのことだが、マリエは信じている。お芝居のように、結末は必ず幸いであるはずだと。


「ときに、その格好はアロイスにも見せたのであろう?」

 カレルはからかう口調になって、居室にはいない人物の名を持ち出した。

 閉じた扉に目を向け続ける。

「今日のあなたにどんな顔をしたか、見てみたかったものだ。密かに気の利いた言葉の一つも掛けたのではないか?」

 たちまちルドミラは片眉を吊り上げた。

「お言葉ですけど、あの人がそこまで婦人の扱いに慣れているとお思いですの? 何となく胡乱げに見てきただけで、真っ当な褒め言葉の一つもございませんでしたのよ!」

 渦中の人物は居室の外、扉の前で警護に当たっている。

 彼が実際にどんな反応を示したか、マリエには知るよしもない。ただどこからか咳払いが一度、聞こえたような気はした。

「わたくしはあなたが羨ましいわ、マリエ」

 マリエの注意を削ぐように、ルドミラが水を向けてくる。いつも以上に美しい令嬢は、艶やかな衣装にも映える物憂い笑みを浮かべた。

「もしもあなたが着飾ったなら、殿下は存分に褒めてくださるのでしょうね。以前から殿下はお褒めになるのが上手な方ですもの、ほら、いつぞやの焦げたお菓子のことだって」

「……そうでございましたね」

 思い返すのも恥ずかしい失敗と、その時に告げられたカレルの擁護めいた褒め言葉。それらが胸裏に蘇った途端、マリエは面映さに頬を染めた。

 それから、薄紅色のドレスをまとう令嬢に改めて見惚れる。

「わたくしは殿下ほど褒めるのが上手くはございませんが、本日のルドミラ様は特別おきれいだと存じます」

「ありがとう、着てきた甲斐があってよ」

 ルドミラが、今度は朗らかに笑う。

 柔らかく光る丸い肩に、ひだ飾りの影がしゃらしゃら揺れる。


 ところで、マリエ自身は美しく着飾る機会に長らく恵まれなかった。

 近侍の務めは影そのもの。主より目立つことは断じて許されず、与えられた着衣は全てが落ち着いた色合いばかりだ。式典の際に着る一番上等な服でさえ、妙齢の婦人にはあまりにも地味な貫頭衣だった。

 褒め上手な主から着衣について褒められたこともない。

 いや、なくはない。町行きの際にはあの外套が似合うと言われていた、そのくらいだ。

 着飾る為のドレスを持っているわけでもなく、端から盛装の機会を諦めていたマリエにとって、今日のルドミラの姿は憧れの結晶だった。茶会を終え、令嬢が帰館した後も、しばらく眼福にあずかった余韻に浸っていた。

 そのせいか、主の思案顔に気づくのが遅れた。


 気づいた時には、カレルの思案は締めくくりに入っていたようだ。

 茶器を片づけ、居室に戻ってきたマリエを見るや、唸るように息をつく。そして椅子の上で頬杖をつきながら、やぶからぼうに切り出した。

「そういえば私は、お前の着飾ったところを見たことがない」

 唐突な上に今更としか言いようのない言葉だった。十年超の奉公期間を経た今、マリエが着飾れるだけの衣装を持ち合わせていないことなど知っていてもよさそうなものだ。もっとも自分の召し物にさえ頓着しないカレルには、それも難しい注文なのかもしれない。

「わたくしはルドミラ様のように美しいドレスを持ってはおりませんから」

 マリエが答えれば、カレルはいとも容易く語を継ぐ。

「では、仕立てればよい」

 思わず耳を疑った。

「……殿下?」

「うむ。私はお前の装ったところを是非見てみたい」

 いたって率直に言い、カレルは照れた表情になる。

「ルドミラ嬢も大層美しかったが、お前もきちんと手入れをすれば、きっとよその令嬢にも引けを取らぬであろう」

 そこで楽しげに口元を緩ませ、更に続けた。

「まあこれは私の欲目かもしれぬが、だとしてもどうせ他の連中は見せるつもりもないから、問題はあるまい」

 その合間にもマリエはただただ当惑している。

 主の気まぐれさも今に始まったことではないが、それにしても本日の提案は度を過ぎている。

「近々、仕立て屋を呼ぼう。そしてお前に似合うドレスを作らせるのだ。何、代金のことなら案ずるでない。元よりお前に何か贈れる品はないかと常々考えていたところだったからな、私も楽しめる贈り物となれば言うことなしではないか。違うか、マリエ?」

 いつしか主の中ではどんどんと話が進んでいる。上機嫌で身を乗り出しながら改めて問われた時、マリエはやっとのことで混乱から立ち直り、恐る恐る進言した。

「お言葉ですが殿下、ドレスを仕立てていただいたところでわたくしには着る機会もございません」

 途端、カレルが顔を顰める。水を差されたことに不満を覚えたらしく、直後の発言も噛みつく口調になった。

「寝惚けたことを。私の前で着ろと言っているのだ、それが機会でなくて何になる」

「恐れながら申し上げますが、その為だけに、わざわざドレスを作らせるとおっしゃるのですか? 決して安価なものではありませんのに」

「……だから、金のことなら案ずるなと」

 カレルの反論に一瞬、隙が生じた。

 どうやら『その為だけに』という一言が効いたようだ。すかさずマリエは説得を重ねる。

「もし仮に、殿下にドレスを仕立てていただいたとしてもです。わたくしの部屋にはそれをしまっておく余裕がございません」

 近侍の居室はごく簡素な、寝る為だけの場所だ。ルドミラの着ていたようなドレスは確実にかさばるだろうし、隠しておくことは難しい。ましてそれは贈り主を知られてはならぬ品、人目につくようなことも断じて、あってはならない。

「なるほど。それは盲点であった」

 目を瞠るカレルがきまり悪そうな顔つきになる。

「しかし、もったいないではないか。お前も若い女だというのに、かの令嬢のように装うこともなく、いつも地味な格好で働きづめだ。おまけに……」

 一度言葉を切り、溜息をつく。

「……私はお前に、日の当たらぬ生涯を歩ませようとしている」

 みるみる萎れていく主の姿を、マリエはいとおしくも、心苦しくも思いながら見つめた。

 主の気持ちがわからぬわけではないのだ。どうあっても影にしかなれないマリエの先行きを案じてくれているのも、十分に伝わってくる。

 だがそれも、マリエがカレルと共に選び取った結末だ。

「わたくしは今日まで、殿下のお傍にいて不幸だったと思ったことはございませんし、この先も思うことは決してないと信じております。たとえどんな運命を迎えようとも、です」

 椅子に座る主に歩み寄り、マリエはその肩に優しく手を置いた。

 ただの近侍には許されぬ行為を、カレルは受け入れるように頷く。もう片方の腕を伸ばして手を握ってくる。温かく、大きく、少しごつごつした感触に、マリエはゆっくり目を伏せた。

「それにわたくしにはこの、近侍としての格好こそが最も相応しいと自負しております。きっと何を着るよりも似合っていることでしょう」

 美しいドレスに憧れはある。

 だが、マリエにとっては分不相応な衣装に違いない。たとえ仕立ててもらったところで自分一人では着方もわからぬだろうし、ルドミラのように品を保った立ち振る舞いができるとも思えなかった。端から手が届かぬものと思っていれば、さほど惜しくもない。

 カレルはマリエの手を握ったまま、黙っている。その顔をちらと覗き込み、マリエは問いを投げかける。

「殿下は、今のわたくしの格好はお嫌いですか?」

 少しばかりずるい質問だったかもしれない。

 だが効果はてきめん、素早く視線を上げたカレルは勢い込んで答える。

「そんなことはない! 何を着ていようとお前を嫌いになるということはないし、確かにその格好はよく似合っている。そして今のお前でも、既にどこの婦人にも劣らぬ見映えだ」

 返ってきたのは過分な言葉だった。

 一瞬うろたえたマリエをよそに、カレルは言い訳のように続けた。

「やはり欲目なのかもしれぬが……だとしても、私はそう思う」 

「そのお言葉だけで十分でございます、殿下」

 心から、マリエは応じる。

 ただの欲目だとしても構わなかった。自分を望んでくれている人からの褒め言葉は、それだけで生きていけるくらいに強く、胸に響く。

 だから手を、そっと握り返した。


 カレルも手を繋いだまま、それきり何も言おうとしなかったので――この話はここで済んだものと、マリエはてっきり思っていた。

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