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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
近衛隊長の溜息
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子供達の笑い声が響く(1)

 アロイスが知るカレルとはいう少年は、いつでも、ひたすら真っ直ぐだった。

 これと決めたことは必ずやり遂げる。たとえ困難があろうとも、目的の為ならばたやすくは挫けない。将来、その白金色の頭に冠を戴く者として、まことに相応しい気質だと言える。

 ただカレルの意思の強さ、言い換えれば諦めの悪さは日常的にもたびたび発揮されてしまう。

 それは例えば馬を乗り回せるようになりたいだとか、剣の扱いが上手くなりたいだとか、あるいはその日の午後のお茶は城の裏手に広がる森で飲まなければ気がすまないだとか、王位継承者としてはあまり関係のない局面でもひたすら真っ直ぐだった。

 お蔭でアロイスは余計な苦労を背負い込まされる。カレルに乗馬を教えたのも剣技を教えたのも、他でもないアロイスだった。怪我をしないように細心の注意を払いつつ、日々めきめきと腕を上げていく王子の相手をするのは難しいことだった。野掛けともなれば先に森へ出て下見と人払いをし、カレルが寛いでいる間も始終神経を尖らせている。城内では自由気ままに歩き回るカレルに付き従い、その身を守るべく気を配り、機嫌を損ねなら宥める役割も諌める役割も一手に引き受け、挙句の果てに、よその貴族令嬢のお守りまでさせられる。

 近衛隊長とは、実に難儀な務めである。


 それでもアロイスは主のことを好いている。

 いっそ不敬なほどの親愛の情をもって、カレルに仕え続けていた。


 しかし、その日のアロイスはカレルの傍らではなく、自室にいた。

 城の敷地内、城壁の影にひっそり建つ騎士団の宿舎の一室で、太陽が中天に懸かってもまだ寝台の中にいる。

 休みのない日々に慣れきった身体は、心地よく惰眠を貪ることを許してくれない。鎧戸の隙間から射す光が眩しく、浅い眠りと曖昧な目覚めを繰り返している。ぼんやりした頭の片隅には後ろめたさが巣食う――今頃、部下たちは殿下をお守りする任務に就いているはずだ。なのに自分が部屋にこもっていていいのだろうか。そんなことを考えながら一人まどろんでいる。


 これと決めたら意志の固いカレルは、先だっての約束を守ると言い張った。

「お前に休みを取らせる。私に二言はない」

 ルドミラのお守りを終えたアロイスに、一日の休暇を取らせるのだと言って聞かなかった。隊長の身分で、隊員を差し置いて休みを貰うのは気が引ける。

「お気持ちだけで十分でございます、殿下」

 アロイスは丁重に断ろうとしたが、カレルの意志を曲げることはできなかった。それどころかへそが曲がりかけたので、渋々拝命仕った。

 とは言え一日の休みなど中途半端なもので、ただ寝ているより他にすることもない。遠方にある実家へ帰るほどの余裕はなく、人のひしめく城下街へ出かけていくような気概もなく、そもそも騎士団の他の人間とも顔を合わせるのが億劫だった。誰かに会えばその度に『自分がなぜ殿下から休暇をいただけたか』を説明しなくてはならない。それでなくとも近衛隊長という職務の多忙さは僚友たちにも知れ渡っているところだ。宿舎内をうろうろしていれば物珍しげな目を向けられるに決まっている。

 後ろめたさに自ら拍車を掛けることもない。アロイスは休暇を睡眠に費やすことに決めた。その睡眠すら、今のような心境では愉しむこともなかなかできなかったのだが。

『だからと言って、お勤め以外に何の楽しいこともないなんておかしなことだわ。そんなのって無味乾燥というか、全くつまらないじゃない』

 浅い夢の中、小生意気な令嬢の言葉がふと蘇る。

 ない、と胸裏で答えれば、令嬢の声はたちまち哀れみを帯びる。その時に向けられた眼差しも、易々と思い出せた。

『あなたって、寂しくて、とてもかわいそうな方ね』

 けれど、そんなことはないとアロイスは思う。

 自分は、あの方が手に入れられなかった最も貴い楽しみを、もったいなくも日々味わっているのだから。


 アロイスは、カレルの母親の顔を知らない。

 存在だけは知っている。カレルの近衛騎士として選抜された際に聞かされていた。乏しい情報にも徹底した緘口令が敷かれており、アロイスはそれを忠実に守っていた。知り得た彼女の所在についてはカレル本人にすら話したことはない。

 その話を聞かされた直後、初めてカレルと顔を合わせた。

 アロイスがまだ二十四、カレルは六つになったばかりの頃だ。

 当時のアロイスは若さゆえにあまり真面目な騎士ではなく、どうして自分が近衛兵に選抜されたのかを疑問に感じていた。その理由はすぐに知れた――母親がなく、乳母たちに甘やかされて育ったカレルのわんぱくぶりは、百戦錬磨の老兵たちを辟易させていたらしい。カレルの子守には体力の有り余っている若い兵が必要だった。アロイスは同情心半分、残りは命令だからやむを得まいと渋々カレルの警護に当たった。

 幼い王子は手のかかるやんちゃ坊主だったが、一方で裏表のない性格でもあった。意志の強さや真っ直ぐな心は幼少の頃よりすでに萌芽していたし、初対面の相手にも人懐っこく、屈託のない笑顔を向けてきた。

 その明朗さにアロイスが魅了されるまでには、さして時間もかからなかった。

 気性の穏やかな馬を選んで乗せてやったり、棒切れで剣術の真似事をしたりと、一緒になって遊んでいた時期もあった。


 カレルが八つの頃、近侍としてマリエがやってきた。

 その頃からカレルは、アロイスとの会話の端々に三つ年上の彼女の名を挙げるようになっていた。マリエがああ言った、マリエがこれを作ってくれたと嬉しげに語る様子を、アロイスはただただ微笑ましく見つめていた。

 それから少し経ち、カレルがいわゆる年頃の時期を迎えると、今度は極端にマリエのことを話さなくなった。近衛隊長となったアロイスの前では口が重くなり、大切にしたがるそぶりで秘密を作り続けていた。

 しかしその秘密もアロイスからすれば瞭然としていて、カレルが剣術を本腰入れて習いたいと言い出した時も、いじらしいと思いながら了承した。

 もちろん簡単な話ではない。カレルに怪我でも負わせればアロイスが処罰される結果となる。そのことはわかっていたが、それでもアロイスは寄せられた信頼に応えたかった。

 親愛の情の後から、ようやく忠誠心がついてきた。アロイスが主を思う気持ちはもはや並大抵のものではない。国王陛下よりも、顔も名も知らぬあの方よりも、更に近いところでカレルの成長を見守ってきた。

 日々の楽しみと言うなら、一番の楽しみはそれだった。最も貴く、だが畏れ多くもある楽しみだ。

 そしてそれはこの先も続く。

 アロイスが次に見守るのはカレル自身ではなく、カレルが何よりも深く想い、何よりも大切にしてきた唯一の存在となる――。


 居室の扉が叩かれ、アロイスははっと目を開けた。

「隊長殿、お休みのところ申し訳ありません! いらっしゃいますか隊長殿!」

 廊下から聞こえた部下の声は、ただならぬ緊張を孕んでいた。

 すかさず跳ね起き、寝台の横に立てかけた剣へと手を伸ばす。目覚めた直後でも頭が冴えているのは訓練の賜物だ。休暇中でも呼び出される心構えはあったし、だからこそ出かけていく気になれなかったのも事実だ。殿下の御身に何かあったかと、ありとあらゆる覚悟をしながら居室の扉へ近づく。

 近衛隊長と言えど立派な部屋に暮らしているわけもなく、寝台と机、それに小さな戸棚があるだけの狭い部屋に寝泊りしていた。鎧戸の隙間明かりが埃っぽい空気を貫き、部屋の奥にある軽装鎧を鈍く照らし出している。それを一瞥してから、アロイスは扉の前に立った。

「どうした、何があった」

 扉越しに声をかければ、外ではまず安堵の吐息が聞こえた。

 だが、すぐに慌てた様子で語を継ぐ。

「も、申し訳ありません。その、実は、隊長殿にお客様がお見えで……」

「――客?」

 自分のところにやってくる客など、覚えがない。遠方にある実家から、年老いた両親や親族がわざわざ訪ねてくるとは思えない。城内はともかく、城下に知人はほぼ皆無だ。客として現れる相手の心当たりはなかった。

 だからと言って無視を決め込むこともできない。緊急事態ではないらしいことに胸を撫で下ろしつつも、アロイスは剣を手にしたままで応じる。

「わかった。今開ける」

 若干の警戒心を残し、一旦薄くだけ扉を開けた。見慣れた顔の部下が光溢れる廊下に見え、その肩越しに、見覚えのある別の顔を認めた時、思わず扉を開け放っていた。

「……なぜ、あなたがここに?」

 寝起きのせいか、驚きのせいか、喘ぐような声になった。

 栗色の髪の貴族令嬢は、アロイスの姿を見るなり眉を顰めた。

「まあ、お休みでしたの? こんな時分まで?」

 今のアロイスは僚友ならともかく、育ちのいい令嬢に見せられるような風体はしていなかった。短い髪には癖がつき、顎には髭が伸び始めている。着衣は寝間着でこそないものの、皺だらけでよれよれの古い衣服を身に着けていた。それでいて剣の柄はしっかりと握り締めているという不調和ぶりだ。箱入りのルドミラが嫌な顔をするのも無理はない。

「どういうことだ」

 慌ててアロイスは扉を半分だけ閉めた。顔だけを覗かせて、ルドミラを案内してきた部下へと問う。

 年若い部下は済まなそうに答える。

「こちらのご令嬢が、隊長殿にどうしてもお会いしたいと……殿下に伺いましたところ、知らない間柄でもないのだし、とりあえず部屋まで案内すればよいではないかと仰いまして」

 いかにもカレルらしい許容の仕方だ。

 ルドミラは所在無く辺りを見回している。宿舎のむさ苦しい空気が珍しいのか、しきりに瞬きも繰り返していた。そして彼女の手は、美しい染物の包みを抱えている。

 状況が把握できないのは、寝起きだからではないだろう。

「ルドミラ嬢。私にどのようなご用件ですか」

 覚悟を決めて、アロイスは尋ねた。

 たちまちルドミラは眉を顰める。

「あら、忘れてしまいましたの? わたくしはあなたにクルミのケーキを届けに来ましたのよ。上手く焼けたらあなたに差し上げるって、この間言っておいたでしょう?」

「その為にわざわざこんなところへ?」

 アロイスは驚いたが、更に驚いたのは部下の近衛兵の方だったようだ。大きく目を見開き、うろたえながらアロイスとルドミラを見比べる。

 そこへ、ルドミラがつんと顎を反らした。

「その為って、あなた、わたくしの焼いたケーキをそういうふうに評さないでちょうだい。とびきり上手に焼けたのだから、食べてくれないのは嫌よ」

「はあ……しかし、私は今起床したばかりでして」

「なら、身支度を整えていらっしゃいよ。少しだけなら待ってあげてもよくてよ?」

 ルドミラの言葉に、部下の狼狽が一段と激しくなる。物問いたげな目を向けられ、アロイスは途方に暮れた。そんな目をされても困る。

 ともあれ、このままでは余計な誤解を招きかねない。既に遅すぎる気もしたが、令嬢がここにいる限り、手を打たなくてはならないのは同じことだ。ひとまず部下にはこう告げた。

「お前は戻っていい」

「は……」

 部下は諾々と、しかしちらちらと何度も振り返りながら立ち去った。

 その後でアロイスは令嬢へと水を向ける。

「ルドミラ嬢、それでは少しの間お待ちいただけますか」

「ええ。早くしてちょうだいね」

 令嬢は少女らしい潔癖そうな顔つきで頷いた。


 それでアロイスは嘆息し、いそいそと居室へ戻っていく。

 全く、とんだ休日になりそうな予感がしていた。

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