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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
近衛隊長の溜息
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嘘に咲く花(1)

 アロイスがルドミラと和解を果たしてから、十日ほどが経った。

 約束された次の機会が果たされる日が訪れていた。


 ルドミラの訪問を前に、アロイスはカレルの居室へと呼びつけられた。

「お前には、無理を言ったようで済まなかったな」

 カレルから直々に気遣われたアロイスは、深々と嘆息したいのをどうにか堪える。

 無理を言ったのはカレルではない。そう思っているからこそ、これからの時間が憂鬱でもあり、不本意でもあった。

「お言葉ですが、無理ではございません。しかしながら疑問には思っております」

「疑問か。私の判断が間違っていたと申すか?」

 カレルは怪訝な表情で問い返した。

 アロイスは粛々と応じる。

「いいえ、殿下のご判断は正しいものと存じております。ですがかの令嬢、あの方の態度が翻ったことが、私は腑に落ちぬのです」

「それは見事に和解を果たしたからであろう」

 確かに和解は遂げた。ルドミラとの間に、かつてのような軋轢はもはや存在していないかのようだった。

 だがアロイスの真意を確かめただけで全てを許すとは、ルドミラの寛容さも大したものに思える。アロイスもそうなるように、彼女にとって口当たりのいい言葉を告げたのは事実だが、それだけで彼女がアロイスを懐に入れる気になったのならば、彼女が誇る聡明さもまだ未熟と言わざるを得ない。

「ルドミラ嬢は、お前に気を許してくれたのではないか?」

 カレルは素直な口ぶりで言い、それからにやりとしてみせる。

「あるいは、お前がよほど気に入られる言葉を捧げたかだな。そろそろ正直に申せ、アロイス。ルドミラ嬢に何と言ったのだ」

 先日からカレルはアロイスを疑ってかかっている。どうもアロイスがかの令嬢に、婦人が喜ぶような甘い言葉を告げたのではないかと思っているようだ。甘いというならあれらの弁解は確かに甘かったのだろうが、あれだけで信頼まで勝ち得たとは、アロイスにはどうしても思えなかた。

「殿下のお考えになっているようなことは、断じて申しておりません」

 アロイスは溜息まじりに王子の疑問を突っぱねた。

 刻一刻と迫り来る約束の時へ、鬱々とした気分を募らせていた。


 そもそも本日の任務は、ルドミラと書庫で共に過ごせという、本来の務めから著しく逸脱したものだ。

 本来守るべきカレルの傍を離れることが、アロイスにとっては心懸かりであり、不本意でもあった。カレルの警護については他の近衛兵に任せているし、部下の腕は当然信頼している。ルドミラを書庫へ通している間、カレルは居室でマリエと共に過ごす予定となっている。不安要素はなきに等しいのだが、これはもう誇りの問題だ。

 アロイスはマリエと比べれば不敬な面もある男で、カレルに対しても親しみと忠心とを均等に持ち合わせている。マリエなら思い浮かびもしないであろう率直な発言を、主に対して口にしてしまうこともあった。

 しかしそんなアロイスでも、自らの務めには少なからず誇りもある。隊長の地位を得るに至った自分が、直々のご指名で客人の相手をしなくてはならないとは。それも相手は貴い身分とは言え小生意気で、年頃らしい気難しさと掴みどころのなさを兼ね備えた小娘だ。これではまるで子守ではないかとアロイスは嘆く。

 理性では現実を噛み砕いている。主の客人を、主に代わり案内することの肝要さ。主と客人とがそれぞれにその役割を与えてくれたという光栄さ。誇り云々と主張するくらいならまず務めを果たし、主の客人に非礼のないようにするべきだ。そのことはわかっている。

 感情が嚥下の邪魔をする。

 なぜ自分が指名を受けたのか。全く理解できなかった。


 カレルもさすがにアロイスの不満を察していると見え、やがて宥めるように言ってきた。

「済まぬが、今日だけはルドミラ嬢の頼みを聞いてやってくれ」

「御意」

 アロイスが一礼すると、カレルは気遣わしげに畳みかけてくる。

「そうだ。この件が無事に済んだら、お前に何か褒美を取らせよう」

 そういうつもりで不満をあらわにしたわけではない。アロイスはそこで少々慌てた。

「光栄に存じます、殿下。しかし私は任務を全うしたいだけでございますゆえ、殿下から賜るものはこの務め一つで十分でございます」

「そう申すな。私とて、無理を通したようで心苦しく思っているのだ」

 ふっと笑んでカレルは言い、その後で黙考に耽った。褒美について既に思案を巡らせているらしい。従者に口を挟む暇も与えず、しばらくしてから意気揚々と発した。

「おお、そうだ。お前はこのところ休みもろくに取っていないのではなかったか」

 それも事実で、アロイスにはここ一年ほど休暇らしい休暇はなかった。もっとも城勤めの者に休みがないことはそう珍しくもなく、カレルの近侍であるマリエも、城に上がってからの十年、一度として実家へ帰ってはいないらしい。側仕えの苦労は並大抵のものではなかった。それに比べれば、兵士たちはまだ恵まれている方だ。

「一日くらいじっくりと休み、羽を伸ばしてはどうだ?」

 カレルの言葉に、アロイスはやんわりと反論した。

「お言葉を返すようですが、それは過分な扱いと存じます」

「そうでもなかろう。お前も隊長の座に就いてからというもの、働き過ぎのようではないか。一日くらい休んでも罰は当たらぬ。もっとも、一日で戻ってきてもらわねばならぬのが、お前の立場の辛いところだがな」

 カレルが労わるように目元を和ませる。

 その思いだけでも既に過分なほどだとアロイスは思う。

 近衛兵は十分な人員を揃えている為、身体を休める時間は常に十分確保できていた。それでも近衛の務めは終日神経を尖らせ、鍛錬を欠かさず、時にその腕を振るう機会も訪れる厳しいものだ。常に気を張る日々を過ごしていれば、時に休暇が欲しくなることもある。

 これまでは隊長位の多忙さにかまけ、休みを貰おうという気さえ持たなかったアロイスにさえ、カレルの言葉は魅力的でもあり、畏れ多いことでもあった。

 だがひとまずは、眼前の憂鬱をどうにかせねば。

 本日、これよりの顛末次第では、褒美どころではなくなるかもしれないのだから。

「今はお気持ちだけ頂戴しておきます」

 アロイスは丁重に礼を述べた。

 そしてこれより訪れる時間に対する覚悟を、慎重に決めていた。


 かの令嬢は、約束の時間よりも心持ち早めに現れた。

 彼女は本日も機嫌がいい様子だった。前回とは違い、純粋に読書を楽しめる機会とあってか、どことなく浮かれているそぶりでもあった。カレルとマリエへの挨拶もそこそこに、書庫へ向かおうとアロイスを促す。

「さあ参りましょう、隊長さん」

 声を弾ませたルドミラが、ひざまずいていたアロイスの腕を引いて立ち上がらせる。

「わたくし、今日はたっぷりと読書を楽しむつもりでおりますの。あなたも急いでちょうだい」

「かしこまりました」

 彼女に引っ張られるようにして、アロイスはカレルの居室を出る。

 退出する間際に、カレルが声をかけてきた。

「頼んだぞ、アロイス」

「お任せください、殿下。この務めも必ずや全ういたしますとも」

 アロイスは精一杯の虚勢を張った。

 気乗りはしなかったが、翻って不安があるというわけでもない。唯一の懸念たるルドミラの機嫌もいいようだし、後は迂闊なことを口走って彼女の神経を逆撫でしなければ済む話だった。ルドミラが読書だけをするつもりなら、それとて難儀なことでもないだろう。


 書庫まで、二人で廊下を辿った。

 今日はカレルもいなければ、他の近衛兵もいない。年若い貴族令嬢と近衛隊長という組み合わせは明らかに異質だったが、城内の人気の少ない界隈では悪目立ちすることもなかった。

 その道すがら、ルドミラは先に立って歩くアロイスに話しかけてきた。

「ねえ、隊長さん」

「……どうなさいました」

 怪訝に思い振り向けば、令嬢は楽しげに微笑んでいた。今日も髪を高めに結い上げ、空色をした絹のドレスに身を包んでいる。ドレスの袖口はやはりすっきりと細身で、読書を楽しむための服装と見て差し支えないようだ。

 ルドミラは目が合うと、優しい口調で続けた。

「今日は、付き合わせてしまってごめんなさいね」

「……いいえ」

 アロイスはぎょっとしたが、気取られぬように応じた。

 だが内心では奇妙に思い、ルドミラの真意を疑りたくなり、一方でそんな自分に嫌気が差してもいた。

「殿下に二度もお願いするのは申し訳ないと思ったの」

 ルドミラは、ひそひそ声で打ち明けてくる。先に立って歩いていたはずのアロイスにわざわざ追い着いてきて、隣に並んで歩き出す。

「だって、殿下は歴史書がお好きではないし、それにマリエを放っておくのだって気懸かりでいらっしゃるでしょうから。わたくしは一人でもよかったのだけど、そうもいかないでしょう?」

 吐息とほとんど変わりない囁きが、そこでくすっと笑声に変わる。

 ルドミラはアロイスに上目遣いの視線を向けた。

「あなたにも申し訳ないとは思っていてよ? わたくしも書庫で読書さえできれば、どなたにご一緒してもらってもよかったの。この間、あなたが私の頼みに不服そうにしているのを見ていて、悪いことをしたとも思ったのだけど」

 どうやら、顔に出ていたようだ。アロイスは苦笑を噛み殺す。

「でもどうせなら、口を利いたことのある方がよかったんですもの」

 ルドミラも苦笑いを浮かべていた。これは年齢よりもいくらか大人びた、美しくも賢そうな表情だった。

「全く知らない方と二人きりでいるのは、いくら何でも気まずいでしょう? だからお願いできる相手は、あなたしかいなかったの」

 回廊の先に、書庫の扉が見えてきた。

 並んで歩いていたルドミラが、アロイスの前に回り込むようにして立つ。そして後ろ向きの姿勢で器用に歩きながら、甘える表情で見上げてきた。

「ねえ、わたくしみたいな若くて美しい婦人に頼られて、光栄なことだと思わなくて? もっと喜んでくれてもいいくらいよ。わたくしと一緒のひとときを過ごせるんですもの」

 書庫の扉を背にしたルドミラが、愛嬌たっぷりの笑みを向けてくる。これは歳相応の、実に愛らしい少女の顔だ。そういう表情でさえ、彼女はとても美しかった。

 こんな少女の傍にいられる時間を、光栄だと思うべきなのだろう。しかしアロイスにはそれほどの殊勝さはなかった。実に小生意気だと思った。

 そういう彼女の小生意気さが、しかし不思議なほどにアロイスを愉快がらせていた。内心の鬱屈とした感情すら呆気なく押し流され、アロイスは晴れがましい思いで嘘をつく。

「無論、光栄に存じますよ、ご令嬢」

 するとルドミラは、花がほころぶようにはにかんだ。

「そうでしょう?」


 二人は書庫の扉を開け、連れ立って中へ立ち入った。

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