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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
43/103

例えば此処を離れるとしたら、(1)

 マリエは卒倒したくなった。

 初めての唇への口づけは衝撃的であり、同時にカレルとの一連の会話、及び現在の状況の一部始終を見られていたらしいという事実に、マリエの思考は著しい混乱をきたした。

 廊下の喝采は続いている。書庫の扉は閉じたままのはずなのに。

 当のカレルは平然としたもので、待ちかねていたこのひとときを謳歌するように、じっくりと唇を合わせてくる。柔らかくほのかな熱はマリエにとっても未知のものだったが、主のように集中できるほどの豪胆さはない。おまけに主の腕にしっかりと捕捉されており、この場から逃げることもできない。

 ならばせめて、意識だけでも逃げ出したい、気を失ってしまいたい――そうは思っても、貴婦人の教育を受けていないマリエは、思うように卒倒することができなかった。本来ならば喜びに溢れた瞬間であるはずなのに、マリエはただただ呆然とするばかりだった。


 永遠とも思える時が過ぎた後、ようやく唇が離れる。

 カレルは書庫の扉に目を向け、舌打ちまじりに呟いた。

「連中、見ていたな」

 主の腕の中で、マリエは返答もできなかった。恥ずかしさのあまり泣き出してしまいそうだった。けれど泣くにしてもふさわしい状況ではないように思えて、かといって笑えるほどの度胸はなくて、燃え尽きたように脱力した身体をカレルの胸に預けていた。

「それにしても」

 マリエの頭上で微かな笑いが零れる。

「他人事だというのに、彼奴らは騒ぎすぎだ。あれでは城のほうぼうに聞こえてしまう」

 カレルの笑いながらの言葉は、本気の懸念というわけではなさそうだった。書庫は城内の隅にある。小難しい書物しか置いておらず、その上黴の臭いのする薄暗い辺りなど、好き好んで足を運ぶ者はそうそういない。近衛兵たちの喝采を聞きつけられることもまずないだろう。

 それでも、カレルは声を張り上げた。

「アロイス!」

 近衛隊長を呼ぶ声は一喝のように鋭く、最も間近で聞いたマリエは思わずびくりとした。カレルはそんなマリエを一旦離すと、今度は肩を抱いて隣に立たせた。


 廊下の喝采が突如止む。


 書庫の扉はいつのまにやら、ごく薄く開いていたようだ。それを改めて大きく開き、戸口にアロイスが参上した。

 扉を丁寧に閉めた後、大股で歩み寄ってきて主の面前にひざまずく。

「お呼びですか、殿下」

 深く頭を垂れたアロイスは、笑いを堪えるような声で応じた。広い肩が微かに震えているようにも見えた。

 それを見下ろすカレルが密かに片眉を上げる。

 もっとも、口では重々しく切り出した。

「お前の立ち聞いていた通りだ。私は覚悟を決めた」

「お言葉ですが、我々近衛兵一同、盗み聞きなどという行儀の悪い真似は断じてしておりません」

 恭しい言葉とは裏腹に、声は愉快そうな活気に満ちていた。語るに落ちたとはこのことだとマリエは思う。

 無論、カレルも同じように思ったのだろう。

「盗み聞きでないのなら、何と申すか」

 嫌味含みの問いを投げかけ、アロイスを睨む。しかしアロイスは涼しいそぶりだ。

「たまたま聞こえてしまったのでございます」

「随分とよい耳をしているのだな、お前たちは」

「お褒めにあずかり光栄です。我々は殿下の御身をお守りすべく、殿下の置かれていらっしゃる状況を逐一把握しようとしておりますゆえ」

 近衛隊長の音吐朗々とした弁解に、カレルは呆れた様子でマリエに視線を寄越した。マリエからすれば、理由がなんであれ今までの会話を聞かれていたというだけで眩暈がする。何も言えず、もじもじと俯くしかない。

 カレルも諦めの色を滲ませ、語を継いだ。

「まあよい。――お前も聞いての通りだ」

 水を打ったように静まり返る書庫に、主の声だけが響く。

「私は覚悟を決めた。望んでいたものをようやく手に入れたからだ」

 肩を抱く手が力を込めた。眩暈を覚えるマリエを支えてくれていた。気恥ずかしさに打ち震えつつも、大きな手の温かさだけを確かに感じている。

「手に入れたからには、二度と手放すことはしない。失うつもりなどない。どのような手を使ってでも守り抜くつもりでいる」

 カレルの声も、今は瑞々しい活力に溢れていた。

「アロイス。お前は申したな、私には覚悟がないのだと」

 その言葉は、マリエが聞かされていたものと同じだ。

「覚悟がなければ何も守れぬ、それはお前の申す通りだ。ならば私は、私の持ち得る力の全てで、最も大切なものを守る。かくなる上は――」

 そこで一呼吸置き、カレルは厳かに命じた。

「お前はこれより、私と、私にとって最も大切な者を守れ。私がマリエを傍らに置く間は、同じようにマリエをも守れ。来たる時が来たならば、お前には更なる大役を授ける。お前の腕を見込んでの命だ、引き受けてくれるな」

「御意に従います、殿下」

 寸分の躊躇も見せず、アロイスは即答した。伏せたままの面は見えないが、少なくともその受け答えに動揺や迷いは窺えなかった。まるでこの時に備え、前々から待ちかねていたかのようだ。

 一方、マリエは酷く動じていた。自分が守られるべき立場になるということに、当然ながら面食らった。畏れ多さに眉尻を下げると、それを読み違えたか、カレルは穏やかな声で言ってきた。

「案ずるな、マリエ。アロイスは私の剣だ。口は悪いし一言多いが、剣の腕は間違いなく確かだ。これより先はお前の身が危険に晒されることもない」

「過分なお言葉です」

 ぼそりと、アロイスが口を開く。

 それでカレルも苦笑して、

「面を上げよ」

 と呼びかけた。

 アロイスが従うと、柄にもなく真面目くさった表情が二人を見据えた。その中で異彩を放つ左目の下の痣は、明け方にマリエが見た時より一層青みを増したようだ。

「痣を作って済まなかったな」

 素直に、カレルが詫びた。

 アロイスは嬉しそうに唇の両端を吊り上げる。

「私の方こそ、無礼な真似をいたしました。ご寛恕いただけますか」

「殴ったことについてはな。しかし、盗み聞きに関しては詮議の余地があるようだ」

「お言葉ですが、盗み聞きではございません。聞こえてしまったのでございます」

 そこは頑なに譲らなかった。

 カレルはアロイスに対して、軽く笑ってみせた。

「いつから気づいていたのだ、お前たちは」

「何のことでございましょうか」

「私の懸想についてだ。お前だけではなく、皆が揃って気づいていたからこその大騒ぎだったのだろう?」

 この会話も、書庫の外で近衛兵たちが聞いているはずだった。今ここで、何かが確実に変革の時を迎えている。それをマリエは肌で感じ取っていた。

 アロイスは表情一つ変えずに答える。

「畏れながら、存じておりました。失礼を承知で申し上げるなら、わからない者がいるとは思えぬほどわかりやすい懸想ぶりでございました」

「その割に、マリエはちっとも気づいていなかったようだがな」

 どこか不満げにカレルが息をつく。

 そうは言われても、そんな畏れ多いことをいかにして悟れと仰るのか。マリエは困惑していたが、早く気づいていればよかったという思いも確かにある。

 それでも、今日までの長い道のりに、何一つ意味のないものはなかったと信じたい。

「私は、長らく殿下のお気持ちを見守っておりました」

 アロイスはひざまずいたまま、そこで温かく目を細めた。兄が弟へ向けるような、優しく慈しむ笑みだった。

「多少は手や口も出してしまいましたし、昨日などはさすがに殿下をお止めした方がよいだろうと思っておりましたが、終わりよければ全てよし。この度のことは大変喜ばしいことと思っております」

「今は、異を唱える気はないのか」

 確かめるようにカレルが尋ねた。

 それにも、アロイスは微笑んで答える。

「それは野暮でございましょう。殿下がご決断なさった以上は、そのお覚悟に従うまでです。私は殿下の御為ならば、この命さえも惜しくはございません。殿下と、殿下の大切になさっているものを、生涯かけてお守りいたします」

 誓いを立てた後、アロイスは視線を背後の扉へ向けた。途端、書庫の扉は勢いよく開き、廊下にいた近衛兵たちは一斉にひざまずく。

「我々一同、殿下のお覚悟に徹頭徹尾付き従う所存です」

 アロイスが言うと、同意を示すように他の兵は身動ぎ一つしない。

 カレルは一度唇を引き結び、その後で告げた。

「感謝する。お前たちの忠心に報いるべく、私もよき王になる。父上の跡を、しかと継いでゆけるように、多くを知り、学び、この国に忠を尽くす王になろう」


 マリエは感極まり、深く息をついた。

 カレルは確かに成長した。大人になった。これからの未来においてもよい成長を遂げていけるだろう。陛下の跡も、きっと立派に継いでいくことだろう。

 自分はせめて影となり、カレルを支えていきたいと思う。

 その為ならば何でもできる。どこへでも行ける。どのような扱いをされても構わない。カレルの為に生きられるのならばそれでよかった。躊躇も迷いもなかった。

 いつかはここを、カレルの傍らを離れるのだとしてもだ。


 しかし、ひとまず、さしあたっては。

「ところで、マリエ」

 ふと、カレルがマリエの方を向く。その顔には、先程とはうって変わって力のない苦笑が浮かんでいた。

「私は腹が減った。そろそろ部屋に戻らぬか」

 まだわずかに残るあどけなさで、マリエの主は言う。

 今はまだカレルも十八で、マリエはまだ、ただの近侍だ。だから今のところはカレルの傍らで、存分にその務めを果たそうと思う。この先の未来について、空腹のままで話しても仕方がない。

「はい、殿下。早速支度をいたします」

 机上の籠を手に取って、マリエは力強く答える。それから逆に尋ねた。

「温め直して参りましょうか、殿下」

「いや、よい。一刻も早く食事にしたい」

「かしこまりました」

「それと、夕食の時でよいのだが、クルミのケーキが食べたい」

「仰せの通りにいたします」


 カレルと普段通りのやり取りを交わしつつ、マリエは視界の隅で、アロイスが笑いを噛み殺そうとしているのを見つけた。

 彼はこの瞬間、ここにいる誰よりも、とても嬉しそうな顔をしていた。

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