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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
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その腕に守られて

 長い長い時を経て、マリエはカレルの本心を知った。

 たった今、聞かされたばかりのその言葉を、マリエは胸に刻み込む。きっとこの先、何があろうと忘れることはないだろう。事あるごとに思い出し、これからのマリエを支えてくれるだろう。


「今日までお前は、よく私に仕えてくれた」

 カレルは囁くような声量で、しかしはっきりと聞こえるように告げてきた。

「私の日々が常に平穏で満ち足りていたのは、お前の働きがあってこそだ。礼を言う」

 率直な感謝を向けられ、マリエの心は喜びに打ち震えた。思わず主の背中に腕を回し、強く抱き締め返した。

「過ぎたお言葉です、殿下」

「そんなことはない」

 カレルもまた、マリエをきつく掻き抱いた。次の言葉は耳元にくれた。

「お前は私の幸いを守ってくれた。以前、森へ出かけた時に申したな。お前は剣を振るえぬから、私を守ることができぬのだと。だが、断じてそんなことはない」

 マリエの腕は細い。

 いくら毎日忙しなく立ち働こうと、剣を振るえるだけの腕力が身につくことはなかった。カレルを守ることなど不可能だと思っていた。

 昨日、街へ出かけたその帰り、主に負われて辿った道が苦々しく蘇る。頼りないこの腕で守れるものは、何もないのかもしれないと思っていた。

 けれど、カレルは囁く。

「父上と母上から賜った幸いを、守り通してくれたのは他でもないお前だ。お前の働きのお蔭で、私は居心地のよい部屋にて日々を過ごせた。気分よく眠ることもできた。食事の時間を楽しむこともできた」

 微かな笑いが零れ、マリエの耳をくすぐる。

「……そういえば、腹が減った」

 当然だろう。今日は朝食も昼食も摂っていないのだから――昨日の夕食も、かもしれない。マリエもつられるように、カレルの腕の中で小さく笑った。

「そういえば、お食事をお持ちしました」

「後で貰う」

 応じたカレルは片腕を緩めると、マリエの肩から二の腕までを手のひらでゆっくりと撫でた。

 大きな手のひらがくれる優しい感触に、マリエは目を伏せ、胸裏で思う。次に作る食事はいつよりも一等腕を振るった、温かく美味しいものにしよう。

「私の日々の穏やかさは、お前の腕に守られていた」

 マリエの細い腕を撫でながら、カレルは尚も言い募る。

「とても感謝している。ありがとう、マリエ」

「光栄に存じます、殿下」

 何を誉められるよりもずっと、今の言葉が心に染み渡った。

 この腕で守れたものがあった。今日まで守り続けられたものがあった。マリエにはそれだけで幸いだった。それだけで、カレルの傍らにいて、この主に仕えてきて幸せだったと思えた。

「お前が常に傍らにいることが、私にとっての支えだった」

 カレルは言葉を重ねながら、今度はマリエの唇に指で触れてきた。

「だから、この先――お前が私の傍からいなくなるのだと思うと、いささか辛い」

 マリエには、主の傍を離れるつもりはなかった。許されるのなら生涯仕えたいと思っている。いつまでも。カレルが立派な青年となり、やがて王位を継ぎ、王として国を治めるその生涯に、ずっと付き従いたいと望んでいた。

 しかし、カレルの思いは違うのだろう。マリエにも今ならそれがわかる。

「それでも私は、お前であって欲しいのだ」

 カレルの指が、マリエの唇をなぞる。

 形を確かめるように、柔らかさを知りたがっているように。

「私と共に次代を担うのは、他でもない、お前であって欲しい」

 その指と言葉がくすぐったく感じられて、マリエも無言のまま腕の力を強める。ぎゅっと抱きついた。

「お前には酷な命令だろうな。これまでもずっと私の為に働いてきてくれたというのに、何もかも擲って、私だけを選べと告げるのは。ろくに休みも取れずにいたお前に、これ以上何かを差し出せというのは。しかし、私はお前であって欲しいと望んでいる。私が生涯を懸けて守るのも、想うのも、お前の他には考えられぬ」

 書庫に沈みゆくその声の、欠片たりとも逃したくはなかった。一字一句を噛み締めて、マリエは耳を傾ける。

「私は最早、お前の他に望むものもない。全てを擲ち、この国の為に生きよう。この国の全ての民の為、尽力しよう。だからただ一つだけ、お前の存在だけを望む。どうか――私と共に、次代を担う役目を負ってほしい」

 そこまで語ると、カレルは唇から指を離した。

 代わりに額をくっつけ、マリエの黒い瞳を覗き込む。

「先程お前に頼んだ話を覚えているか、マリエ」

 問われてマリエは頷いた。ここへ来てから聞かされた言葉は、全て記憶しているつもりでいた。忘れられるはずがない。

「わたくしに、判断を任せると言ってくださった……あのことでございましょうか」

「そうだ。今こそお前に見極めて欲しい。聞いてもよい命令か、そうではない命令かを」

 マリエの唇に熱い吐息がかかる。

 唇の間の距離も今やごくわずかだ。マリエがもう一歩踏み出すだけでよかった。

「その目と耳と心とで、しかと判断して欲しい」

「はい、殿下」

 マリエは何もかもを受け止めるつもりで頷いた。

 主が本当に命じたかったのは、何よりもこれから告げられる望みに違いなかった。マリエに判断を委ねたのは、それが果たして幸せな結末かどうか、カレル自身にも判別つきがたかったからかもしれない。

 マリエも思いを馳せている。

 陛下はその時、幸せでいらっしゃったのだろうか。

 殿下は今、幸せな恋をしていらっしゃるのだろうか。

 どんな運命を辿るのが、最も幸せな結末と言えるのだろう。未来のことは誰にもわからない。だが未来に続く選択を、マリエは今、選び取らなければならない。

 それなら、自らの望むものを選べばいい。


 次の沈黙は短かった。

 ためらう必要もないと思ったのだろう、カレルは語気を強めて言った。

「何もかも打ち捨てて、私の影となれ」

 床に伸びる影は既に重なり合い、溶け合って、一つになってしまったようだった。

「時が来たら、私はお前をここから連れ去り、誰にも見つからぬところへ隠してしまうつもりでいる。お前は全てを擲ち、私の生涯に同道せよ。誰の目にも触れず、その名もその姿も、心の内さえ知られぬままに、ただ私を見守り、見届けるのだ。そうして私と共にこの国の血筋を継いでいく。それこそが、お前の役目となる」

 マリエは唇を結び、自然と頬を染めた。

 何を期待されているのかは把握していた。それだけの資質を、まだ自身に見出すことはできていないが、それでも主の心は、覚悟は既に決まっている。

「お前を幸せにする自信は、実のところない」

 カレルは率直だった。潔く打ち明けてきた。

「全てを捨て、擲つだけの価値がある運命かと問われれば、私には何とも言えぬ。お前には苦しいばかりの生涯になるかもしれぬ。お前に世継ぎが産めなければ、更に辛い思いをさせることとなる」

 そう語り、一度だけ溜息をついた。

 だがすぐに硬い口調で続けた。

「しかし、私は生涯お前を守ると誓う」

 マリエを見つめる青い瞳は、今でも、どこまでも真摯でひたむきだ。

「生涯、お前だけを想うと誓おう」

 そしてその言葉もまた、一途な恋にふさわしい真剣さで告げられた。

「だから、私の影となれ。私の生涯に同道し、そして私と、この国と運命を共にせよ。それこそが私の望みだ」

 眠れぬ夜を過ごしたはずの顔立ちに、疲労の色は窺えなかった。

 それどころか希望に満ち溢れている。長い懸想の病から解き放たれ、胸のうちを洗いざらい打ち明けてきたカレルは、晴れやかと言っていいほどの明るい表情をしていた。

 そして、とても、幸せそうに見えた。

 

 マリエは生まれ持った身分を、未だに負い目に感じている。

 自分が近侍であるということ、その事実だけで十分、カレルを苦しめてしまったと知っている。この先も自分の存在が、むしろカレルを苦しめることもあるだろう。マリエが自ら身の振り方を、もう一度選ばなくてはならない日がやってくるかもしれない。

 そうだとしても、この方の為にありたいと思う。

 近侍だからではない。従者だからではない。篤い忠心と生真面目さだけではできないことを、今日まで数多果たしてきたはずだ。マリエがカレルに心を込めて尽くしてきたのは、もっと大きな理由があった。

 いとおしいと思うからこそだ。

 不敬なその感情を、しかしマリエは結局封じ込めることすらできなかった。そのお蔭で今は、カレルにいつよりも幸せな思いをさせられた。カレルの為に、一介の近侍にはできないようなこともできた。

 ならばもはや迷うこともない。


 家族の顔が、ふと脳裏を過ぎる。

 自分の髪の色と同じ、黒髪の母親の面差しを思い起こした時、マリエはおぼろげにだが察した。

 もしかすると母はこうなることを案じて、マリエがカレルの近侍となることに懸念を示したのではないだろうか。恐らくは国王陛下と、陛下が愛した婦人のことも知っていただろうから。

 しかし誰も、マリエの選択を咎めはしないだろう。

 若い娘の真摯な恋ゆえの判断を、誤りだとは言わないだろう。

 誰もが、カレルを愛し、慈しんでいる。誰もがカレルの幸いを望んでいる。マリエとて同様だ。カレルにはこれから先も幸いであって欲しい。それが他でもないマリエに叶えられることならば、マリエにしかできないことがあるのなら、他に何を望むことがあるだろう。

 いとおしい人を、自らの手で幸せにできる。

 そのこと以上の幸いが、この世に、他にあるだろうか。


 深呼吸の後、マリエは一息に答えた。

「殿下。わたくしは、殿下の影になりましょう」

 足元から長く長く伸びる影。常に寄り添うその影に、個々の名前は存在しない。その姿に関心を示す者もいないだろう。

 確かに存在している、その事実だけをよすがに生きる。

 マリエは、そうありたいと望んでいた。

「わたくしのこの腕で、殿下の幸いをお守りすることが叶うのなら。わたくしは生涯を殿下に捧げます。殿下の仰せの通りにいたします、これからもずっと」

 途端、カレルの表情が解けた。

 凛々しい顔に弾けた極上の笑みに、長い時を経て叶った想いを喜ぶその表情に、マリエは強く惹きつけられた。だが、残念ながら、その笑顔をずっと見つめてていることは叶わなかった。

 カレルはマリエを強く抱き締め直すと、勢いよく、噛みつくような口づけをぶつけてきた。


 次の瞬間、書庫の外ではどよめきが、そして祝福の喝采が起きた。

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