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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
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まっすぐな目(1)

 書庫に続く回廊を、マリエはひた走った。

 かつて、一人で幾度となく通った場所だった。マリエは主の為に、知識を求めて書庫へ足を運んだ。そうして俗な書物をひもといてはカレルに伝えた。

 意味もわからぬ言葉を並べて懸想文を綴り、突拍子もないお伽話を常識と思い込み、主に対して、マリエ自身が経験したこともないような手ほどきをした。そうして内心では主に惹かれ、主が想う名も知らぬ婦人を羨んでいた。

 事実に気づけば、全てが空しい日々だった。

 書庫へと走るマリエは、しかし、それでも思う。今日までの道のりに、無駄なことは何一つなかったと。

 カレルの懸想も、マリエの行動も、何もかもが今日の為に必要なことだったと信じたい。身につけた愚にもつかない知識も、主に対するほんのささやかな気遣いも、そして畏れ多く不敬な感情の数々も、無駄ではなかったのだと願いたい。

 真実に辿り着いたマリエの決心が、カレルにも心を決めさせることができるなら、全てが報われることだろう。


 駆けてきた回廊の先には書庫の扉があり、近衛兵がそこを守っていた。

 兵たちはマリエの姿を見るや、一様に複雑そうな顔をした。その中でただ一人、アロイスだけが表情を動かさずにマリエを迎える。

「どうされました、マリエ殿」

 扉の手前で立ち止まり、マリエは肩で息をしていた。アロイスの言葉にもすぐには返事が継げず、しばらくぜいぜいと呼吸を繰り返す。アロイスは律儀にその間、黙っていた。

 呼吸をどうにか落ち着けて、マリエは顔を上げる。扉の前に立つ近衛隊長を臆さず見据えた。

「殿下に、お食事をお持ちしました」

 手にしたバスケットを掲げると、アロイスは目を眇める。

「持ってこられたのはお食事だけですか」

「は……いえ、あの」

 虚を突かれて戸惑うマリエをよそに、彼は口元だけで微笑んだ。

「何でもありません。しかし、書庫に食べ物を持ってこられるのは感心いたしかねます」

「申し訳ございません、殿下が朝から何も召し上がっていないだろうと思い……」

「なぜ、殿下のご命令に従わなかったのです」

 弁解しようとする言葉はぴしゃりと遮られる。微笑のままの口元とは対照的に、アロイスの声は厳しかった。

「殿下はあなたに、殿下のお部屋で待つようにと言づけていらしたはず。なのにあなたはどうしてここにいるのです。お食事をここまで持ってくる必要が、果たしてあったでしょうか」

 マリエは一つ、大きく息をつく。主の命令に背いたという自覚はあっても、この期に及んで一歩たりとも引くつもりはなかった。

「殿下の御身を案じてのことでございます」

 真っ向から視線も、言葉も返した。

「わたくしは殿下の側仕えです。殿下の御身が現在どのような状態にあるのか、把握しているようでなければなりません。いくらご命令と言えども、殿下の御身によろしくない兆しがあれば、諾々と従うわけには参りません。ですから、殿下のご様子を伺いに参りました」

「殿下の御為であれば、ご命令にも背くと仰いますか」

 アロイスが詰問口調で問いかける。

「はい」

 マリエは迷わずに頷く。

「殿下にはこの度のことでご寛恕いただき、心より感謝しております。けれど、だからこそ近侍らしい務めを果たしたいのです。今は殿下のお顔を拝見し、ご様子を把握しておくことこそが、近侍としてなすべき務めと存じております」

 嘘偽りない本心だった。

 カレルの近侍であることに、マリエは自らの価値を見出していた。主を守ることもできない非力な身ではあったが、それでも自分にもできることはある。そう思い、ここまで駆けてきた。

「書庫への立ち入りを、お許しいただけますか」

 背筋を伸ばしたマリエが、アロイスに尋ねた。

 アロイスはしばらく無言だった。唇を結び、他の近衛兵たちの視線も切り捨てて、検分するようにマリエを注視していた。

 その表情がふと解けたのは、マリエの呼吸が落ち着きを取り戻した頃のことだった。

「いいでしょう。あなたが殿下に害をなすとは思えません。あなたはご自身の本分をよくご存知だ」

 そう言って、アロイスは気遣うような面差しを見せる。

「我々はここより動くことはできません。あなたには――いえ、殿下にもいささか無礼とは存じますが、それでもよろしければどうぞ、お入りください」

 アロイスは、マリエが何の目的でここに来たのか理解しているらしい。マリエは再度顎を引き、ぎくしゃくと微笑を返す。

「マリエ殿」

 書庫の扉を開ける直前、アロイスは声を潜めて切り出した。

「以前、殿下がうさぎを飼いたいと仰った時のこと、まだ覚えていますか」

 唐突な質問にマリエは驚いたが、正直に答える。

「ええ。わたくしにとっても忘れがたい記憶でございます」

「私はあなたが、あの時のうさぎになるのではないかと危惧しておりました」

 アロイスが続けた言葉は、更にマリエを驚かせた。彼は今、自らの無力さを思い知ったような微笑を浮かべている。左目の下の痣が痛々しかった。

「しかし今となれば、あなたがうさぎであった方がよほど幸いだったのかもしれません。そうすれば殿下はあなたを、お傍に隠しておけたでしょうから」

 マリエがその言葉の意味を問う前に、アロイスは書庫の扉を開けた。そうして室内に声をかける。

「失礼いたします、殿下。マリエ殿が殿下にお会いしたいとのことです」

「――マリエが来たのか?」

 半日ぶりに聞いた主の声は、あまり平静ではない様子だった。すぐに告げられた。

「通せ、早く通せ」

 狼狽した口調で促され、マリエもようやく書庫に足を踏み入れた。


 書庫の北向きの窓は鎧戸が全て開けられていたが、それでもどこか薄暗い。その中でたった一つのランタンが灯り、昼間なのに夜のような、不思議な光が揺れていた。

 その光の傍らで、カレルは古ぼけた本が詰まれた机に向かっていた。マリエが踏み込んでいけば、やけにゆっくりと立ち上がる。何かためらうようにして、なかなか顔をこちらへ向けようとしない。

「……殿下」

 マリエも、おずおずと声をかけた。提げてきたバスケットは後ろ手に隠し、しばらく主の反応を遠目に見守った。

「マリエ、こちらへ」

 短く命ぜられ、マリエはそれに従った。

 そして歩み寄っていくと、机の前に立つカレルもようやくマリエの方を向く。

「あっ」

 その表情を見たマリエは、思わず声を上げた。カレルは唇の端に傷を作っていた。心なしか左の頬も痛々しく腫れているようだ。

「殿下、そのお顔は……」

 マリエが尋ねた途端、更にうろたえられた。

「いや、これは、その、大したことではない」

 アロイスの顔にあった痣と、カレルが拵えた傷。この二つを結びつけるのはマリエにも容易なことだった。そういえばアロイスも言っていた――こちらも少々手荒なやり方をした、と。もっとも具体的にどのような事態が繰り広げられたのか、マリエが教えてもらえることはなさそうだ。

 改めてマリエは昨日の失態を悔やみ、浅慮を省みた。

「殿下、昨日は大変なご迷惑をおかけしました」

「気に病むな」

 カレルはぎこちなく応じたが、気に病まないわけにはいかない。

「そうは仰いましても、昨日の件に関してはご寛恕いただき、感謝の言葉もございません」

「感謝など要らぬ」

 主は堪らずといった様子で睫毛を伏せる。少年のような照れを滲ませ、もじもじと続けた。

「私はただ、お前が暇を申し出はしないかと……そのことでいっぱいだった」

 表情には疲労の色が濃く、昨夜は恐らくまんじりともせずにいたのだろう。マリエは案じるあまり、その顔をじっと見つめた。

 カレルは伏し目がちに語を継ぐ。

「約束をしたからな、私がお前を守るのは当然だ。しかしお前は何かと気を回しすぎるきらいがある。この度のことでも先んじて、責任を取ろうとするのではないかと思っていた」

「いいえ。わたくしの方からお暇をちょうだいすることなど、決してございません」

 すかさずマリエは訴えて、カレルから安堵の溜息を引き出した。

「それならばよい。お前が私の傍からいなくなるのではと、不安で堪らなかった」

「お気遣いありがとうございます、殿下」

「あまりに不安で、部屋でじっとしていることもできなかった」

 カレルはそう言って、書庫を見回すように視線を馳せた。

 マリエは一瞬言葉に迷い、ためらいながらも尋ねる。

「では……殿下は、それでこちらへいらっしゃったのですか」

「それだけではない。しかし、そういうことでもある」

 曖昧に濁す返答を聞き、マリエはルドミラの言葉を思い出す。

 ではやはり、カレルはあのお芝居の事実の程を調べに来たのだろうか。好きではないはずの歴史書を、その為に読み漁っていたのだろうか。

「調べ物をしていたのだ」

 カレルはマリエの推測を裏づけるように言った。

 しかしその後は、なかなか語を継がなかった。調べ物の中身については言いにくいのか、しばらく黙り込んでいた。俯き加減の主を目の前にして、マリエも次の句が継げない。

 やむなく、別のことを口にした。

「殿下、お食事をお持ちしました」

 と言って、昼食を詰めたバスケットを掲げた。

「朝から何も召し上がっていないでしょうから、一段落つきましたらお部屋へ戻って、お食事もなさって、少しお休みになった方がよろしいかと……」

「いや、よい。私は平気だ」

 カレルは白金色の髪を揺らしてマリエの言葉を遮った。表情は穏やかだったが、語調はどこか頑なだった。

「ですが、お疲れではありませんか」

「平気だと言っている。お前こそ、身体の調子はもうよいのか」

「はい。一晩休んだらとてもよくなりました」

 マリエも答えた。実際のところは体調など顧みている余裕もないほどだったが、二の次にできるほど回復しているのもまた確かだ。

「そうか」

 溜息が聞こえた。

「昨晩は倒れたと聞いていたが、よくなったのならば安心だ」

 カレルが微かに笑い、やっとのことでマリエに視線を留めた。

 青い瞳と視線が合うと、マリエは自分でも意外なほどにどぎまぎした。頬が熱くなるのがわかる。

「アロイスが付き添っていた、とも聞いた」

 真っ直ぐな目が懸命に訴えてくる。

「本当は、私が付き添うべきだった」

 その言葉に、何よりもマリエの心臓が応えた。動悸が激しくなる。

 もしも目が覚めた時、傍らにいたのが他でもない主だったら――想像を巡らせただけで、畏れ多さとは違う狼狽が押し寄せてくる。

「あ、あの、ご心配もおかけしまして……」

「そうだな。心配した」

 素直に首肯し、カレルは尚も続けた。

「元はと言えば私のせいだ。お前が倒れたのも、お前に辛い思いをさせたのも、私が身勝手な振る舞いで無茶をさせたからだ。お前はそうではないと申すだろうが、私はわかっている。反省もしている」

 端整な顔には青年らしい。強い面差しが浮かんでいた。近頃とみに目にすることが増えた、少年期を脱した表情だった。

「皆にも迷惑をかけた。アロイスたちにも、それから、ルドミラ嬢にもな」

「殿下……」

 マリエの胸に、何とも言えぬ感慨が満ちてくる。

 それは主の成長を目の当たりにした喜びでも、主が確実に少年ではなくなったことへの寂しさでもあった。そして、本来ならばもう少し緩やかであったはずの成長に、こんなにも無残なきっかけを与えてしまったことを悔やんでいた。

 ルドミラの名前が出たので、先程の来訪を告げようと、マリエは口を開きかけた。しかしそれよりも先に、カレルがこう言った。

「マリエ、お前に頼みがある」

「は……はい、殿下。何なりとお申しつけください」

 恭しく一礼してから顔を上げれば、柔らかな微笑が映った。カレルは既に落ち着いた様子だった。

「私はこの度のことで、自分の未熟さを痛感した。私は自らの立場も忘れ、周囲を顧みぬままにふるまった。そうすることでお前たち皆に心労をかけた。私はまだ幼いのだと、私自身にもようやくわかった」

 マリエは黙っていた。反論をしたい気持ちはあったが、今はその時ではない。主の言葉に、一身に耳を傾けた。

「お前には、判断を頼みたい」

 カレルは言う。

「私はお前に様々な命令をするだろう。その中にはよいものも悪いものも、無茶なものも、まるで身勝手なものもあるだろう。今までお前は、そのほとんどに従ってくれていたが、今日からはそうしなくてもよい。今日からは、お前が判断するのだ。聞いてもよい命令か、そうではない命令かを」

 揺るぎない眼差しと共に、マリエに語り聞かせる。

「従うべきではないとお前が思った時は、もう従わなくてもよい。お前には異を唱える権利を与える。そうして私を諌め、私のなすことを見極めて欲しい」


 マリエは返事もできず、瞬きを繰り返した。

 たった今、近侍には過分な権利を与えられたようだ。だがそのことを受け止められていなかった。カレルが自分に優しく微笑んでいるのを、ただただ陶然と見つめていた。

 真っ直ぐに自分を見つめる青い瞳が、とても美しかった。


 カレルも、マリエの返事を待たなかった。

 むしろ待ち切れぬ様子で歩み寄ってくると、マリエの眼前に立った。身動ぎもできないマリエの手から籠を取り上げ、机上に置く。それから細い肩に両手を置き、立ち竦むマリエの耳元で、いざなうように囁いた。

「まず、これが最初の命令だ。――今は黙って、私の腕の中に留まれ」

 言うや否や、マリエは強い力で抱き寄せられた。

 命令を拒めなかったのか、拒む気がないのか。答えはもう、マリエにもわかっていた。

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