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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
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致死量の優しさ(2)

 森の木々が風に揺れ、囁き合うような葉擦れの音を立てていた。

 その合間に、夜に生きる鳥や虫の声も聞こえてくる。森の中は不気味な音で埋め尽くされ、道行く二人以外の存在を意識させる。森に満ち満ちた生命が全て、じっと二人を見つめているようだった。

 冷たい風に吹かれる度に、マリエは思わず首を竦める。昼間は暑いくらいだった麻の外套が、今は薄く心許なく感じられた。自分を負う広い背中だけが温かく、心地よく、だが寄り添うことへの後ろめたさも消えてはいなかった。

 自分を何をしているのだろう。

 使えるべき主に背負われて、守られて――結局は足手まといになっているだけだ。


「――マリエ」

 温かい背中が震え、声がした。

 マリエは閉じていた瞼を押し上げる。辺りはもうとっぷりと暮れ、残照でかろうじて道が見えるほどだった。

 それでもカレルは歩き続けている。白金色の髪が風に吹かれ、マリエの頬をくすぐる。

「マリエ? 眠ったのか?」

 二度目の問いに、マリエはようやく我に返った。

「いいえ、殿下。起きております」

 答えを聞いたカレルは、安堵の溜息をつく。

「そうか。具合はどうだ」

「平気です。お気遣いありがとうございます」

 元気であるふりを装うには、あまりにも弱々しい声だった。マリエの身体は震えるほど冷え切っているのに、頭だけがぼんやりと熱い。

「本当のことを申せ」

 カレルの声が苦しげに歪んだ。

「いつから具合が悪かった?」

「……あの」

 マリエが口ごもっても、カレルは繰り返し問い詰めてくる。

「城を出てきた時からか? 朝から調子がよくなかったのではないか?」

 原因は察している。恐らく寝不足のせいだ。

 どうして寝不足になったのか、それは今更どうでもよかった。ただそのせいで、今日という日と主の厚意を踏みにじった。マリエはその事実に打ちのめされている。

 真実を告げるわけにはいかなかった。たとえカレルが気づいていたとしてもだ。

「申し訳ございません、殿下」

 思わず謝罪を口にすれば、今度は苛立ちまじりの吐息が聞こえた。

「謝れと言っているのではない。本当のことを申せと、それだけ言っているのだ」

 不機嫌そうな声で、やや早口気味に言われた。心なしか歩調まで速まったようだ。

「私が命じたから、無理を押してでもついてきたのか」

 辺りに吹く風が強くなり、マリエは身震いをする。

「そんな……そのようなことは、決して」

「では、どうして黙っていた。正直に打ち明けてくれていたら、私もお前に無理を強いることはなかったのに」

 その言葉が悔しそうに響き、マリエもそっと唇を噛んだ。

 カレルを後悔させることだけはしたくなかった。今日に限ってどうして倒れてしまったのかと、やり場のない思いが込み上げてくる。

 マリエは気力を振り絞り、すぐ傍にある耳元へと告げた。こればかりは強く言っておかねばならなかった。

「殿下、わたくしは楽しゅうございました」

「……心にもないことを。今日はずっと、辛かったであろう」

 すぐさまカレルが否定し返してきたが、マリエは必死に本心を打ち明けた。

「いいえ、殿下。本当のことでございます。街を歩くのもお芝居を観るのも、ご一緒できて、本当に楽しい思いをいたしました」

 久方ぶりに歩いた城下町では、目に映る何もかもに心が躍った。

 一人きりではこうはいかなかっただろう。マリエ一人では道に迷わぬようにするのがせいぜいで、辺りを楽しむ余裕もなかったはずだ。それを存分に楽しめたのも、カレルがいてくれたお蔭だった。隣を歩いてくれたことも、手を引いてくれたことも、時々言葉をかけてくれたことも、全てが楽しく、嬉しく、幸せだった。

 それほどに満ち足りた日を、こうしてすれ違ったまま終えてしまうのなら、とても悲しい。

「殿下、本日はありがとうございました。連れてきてくださったことをわたくしは、一生心の内にしまっておきます」

 だからせめて、マリエは自分を負う主へと語りかける。

 一心に、嘘偽りない言葉で。

「そして、申し訳ございません。わたくしのことでお心を煩わせてしまって、そのことこそ何より辛く思っております」

 マリエは言い終えて目を伏せた。

 自分の声が耳鳴りのように、反響していつまでも残り続けていた。


 カレルは近侍の訴えをどう思っただろう。

 しばらくは黙って歩いていたが、やがて、振り絞るような声が聞こえてきた。

「悪かった」

 声からは苛立ちも怒りの色も抜け落ちて、今は夜風より穏やかだった。

「お前の心を疑うとは、私もどうかしていた。済まぬ、先程の言葉は忘れてくれ」

 優しい主の声を、マリエはまどろむような気分で耳を傾ける。

「お前に一つ、どうしても打ち明けておきたいことがあった」

 聞き慣れたカレルの低い声は、熱に浮かされた頭に溶け込んでくる。

「今日の、芝居のことだ」

 今のマリエには、相槌を打つ余裕すらなかった。

「私はあれを、どうしてもお前に見せたかったのだ。お前と一緒でなければいけなかった」

 ただ、その声に聞き惚れていた。

「お前に劇場の芝居を見せてやったことがないからでもあるし、もちろん評判の、面白おかしい芝居だと聞いたからでもあるが、それ以外にも理由がある」

 そこでカレルは言葉を区切り、躊躇するような間を置いた。

 数歩進んでから結局、続けた。

「あの話は、事実だと聞いた」

 マリエは耳を傾けつつ、瞼の裏に芝居の情景を蘇らせる。

 人格者と慕われる青年と、彼を操る二つの心と、彼が惹かれた酒場の歌姫の物語。

「あの話はかつて、この国で本当にあったことだと言う者がいるのだ」

 カレルの言葉は続く。

「私は歴史の勉強は嫌いだが、事実ならば知りたいと思った。生まれ持った運命を乗り越えていく術を、身分の差をものともせず、一人を想い続けるやり方を。何より、あの男の話が事実として存在するのなら、私にとってはこの上ない支えとなる」

 だがカレルの疑問は、芝居の中では解決されずじまいだった。あの芝居が事実あったことだとしても、舞台上の物語が全てではないはずだ。その裏側には物語にできないほどの辛さや苦しみがあったのだろうし、芝居の中では語られない事実が、観客のあずかり知らないところに存在してもいるのだろう。

「ひたすらに想い続けることは、決してたやすいことではないな」

 万感込めてカレルは言う。 

「それでも、あの男にできたことが、私にできぬはずがあるまい。私はどうしても叶えたいのだ。たとえそれが後ろ指差される振る舞いであろうとも――」

 そこでふと、不自然に話が途切れた。

 同時に、カレルは急に立ち止まる。マリエは怪訝に思ったが、どうなさったのですかと尋ねるほどの気力もなかった。

 だが、

「……明かりだ」

 カレルが声を漏らし、つられて視線を前方へ向けた瞬間、意識が鮮明になった。


 森の向こうにぽつりぽつりと複数の明かりが見えていた。

 あれは、ランタンの明かりだ。

 そして木々の隙間から、光と影とがすり抜けてくる。数人の大柄な人影が忙しなく動き回っているのがわかる。暗くてはっきりとは見えないが、誰を捜しているのかは察しはついた。

「殿下……!」

 マリエはとっさにカレルの背から降りた。着地する時にふらついたが、頓着していられなかった。

 カレルの腕に縋りつき、慌てふためき急かした。

「殿下、急ぎましょう。あれはきっと」

「しっ、静かに」

 カレルはマリエの言葉を遮り、鋭い眼光で明かりの瞬く方を見やった。すぐに険しい面持ちになる。

「女の声もする」

「え……」

「もしかすると、あれは」

 耳を澄ませる二人の元に、森を吹き抜ける夜風が、遠くの声を運んでくる。

「――離して! 離しなさい、無礼者!」

 凛とした婦人の叫びが誰のものか、考えるまでもなかった。マリエとカレルは顔を見合わせた。

「ルドミラ嬢か」

「はい、確かに、そのように」

 二人が呆然とする間にも、怒鳴る女の声は届く。

「何と言われても存じないものは存じませんのよ! わたくしを脅かそうったっておあいにくさま、無駄ですからね! わかったらとっととその汚い手を離しなさい! さもないとお父様に言いつけて、あることないこと言い触らして差し上げてよ!」

 気のせいか、叫び声は次第に近づいてくるようだ。

 やがて、それに応じる声も聞こえてきた。

「正直に話していただかなくれては困ります。そろそろ教えてはくださいませんか」

「ですから、存じないって申し上げてるでしょう!」

 アロイスが慇懃無礼に諭すのに対し、ルドミラは怒声で応じている。

 何を意味する会話かは、もはや瞭然としていた。


「少しだけ、走れるか」

 カレルの問いに、マリエは頷かずにはいられなかった。

「はい、殿下」

 するとカレルはマリエの手を取り、声のする方へ駆け出した。マリエは半ば引きずられるように、それでも力を振り絞ってカレルについていく。森を漂うランタンの明かりが近づいてくる。

 やがて誰かが気づいたか、鋭い声を上げた。

「殿下がいらっしゃいました!」

 たちまち森の中に人のざわめきが広がる。ランタンの明かりが取り囲むように集まってきて、カレルとマリエはあっという間に取り囲まれた。

 二人を閉じ込める輪から、近衛隊長アロイスが進み出てきた。彼は右手にランタンを持ち、左腕には――華奢なルドミラ嬢を、丸太のように抱えていた。

「殿下!」

「まあ、殿下! やっとお戻りくださいましたのね!」

 アロイスとルドミラはほぼ同時に口を開いたが、表情は対照的だった。厳めしい顔を一層強張らせているアロイスに対し、ルドミラは安堵と怒りの入り混じった面持ちをしていた。

「お留守の間はもう大変でしたのよ!」

 アロイスの片腕に抱えられたまま、ルドミラは声を振り絞って叫ぶ。

「この者たち、わたくしが殿下とマリエをどこかよそへ隠してしまったと思い込んで、しつこく問い詰めてくるんですもの! 婦人に対する態度がなってない方々ばかりでしてよ!」

 丸太のような扱いをされても尚、勝気な令嬢はつんと顎を逸らしてみせた。手足をばたつかせて逃げ出そうとしているが、どれほど暴れられてもアロイスは微動だにしない。

「もっとも、わたくしは決して口を割りませんでしたけれど――きゃっ!」

 最後の悲鳴は、アロイスによって地面に投げ出された際に上げたものだった。

 放り出されて転がるルドミラに、マリエは慌てて這うように近づく。ルドミラは面を上げ、呻くように訴えてきた。

「あんまりな扱いよ。わたくしを何だと思っているのかしら!」

 アロイスはもはや彼女など眼中にもないのか、一切取り合わなかった。そのままカレルの前へ進み出て、不自然なほどの恭しさでひざまずく。

「殿下、ご無事でしたか」

 上げた面は険しく、疲労の色も濃く表れていた。

 途端にカレルはきまり悪そうにする。

「私を捜していたのだな」

「その通りでございます。我々一同、殿下のお姿が見えなくなったことで大変な思いをいたしました。城内はおろか、こうして森の中まで捜し回りました次第。ともあれ、ご無事で何よりでした」

 あらゆる感情を封じた、淡々とした声でアロイスは報告した。

 それを聞き終えたカレルは、ちらりとルドミラに視線を投げた。ルドミラはマリエの手も借りず、一人で気丈に立ち上がったところだ。

「心配をかけた。しかし、ルドミラ嬢への扱いがいささか手荒ではないか」

 カレルが問うと、アロイスは眉一つ動かさずに答える。

「お言葉ですが、殿下とマリエ殿が行方をくらまし、お二人がいたはずの部屋にかの令嬢が一人いたとあっては、疑わしく思うのも無理のないことでしょう。案の定、何か知っているそぶりながら口を割りませんもので、こうして捜索に付き合っていただきました」

「……付き合わせたも何も、無理矢理抱えてきただけのくせに」

 ルドミラはふんと鼻を鳴らした。

 相変わらず無視を決め込むアロイスの代わりに、カレルがルドミラに詫びる。

「大変な迷惑を掛けたな、この詫びは必ず」

「いいえ、殿下に謝っていただくようなことではございませんわ」

 かぶりを振ったルドミラの視線も、やはり近衛隊長へと突き立てられたままだ。

「殿下、一体どちらへ行かれていたのです」

 アロイスはカレルだけを見据えている。怒りとも苛立ちとも違う苛烈さが、その双眸にぎらついて見えた。

「我々一同、心底より殿下の御身を案じておりました。殿下がどちらでどうなさっているのか、そのことが何より気懸かりだったのでございます」

「……済まなかった」

 カレルが力なく項垂れる。

「街へ、出ていたのだ。芝居を観てきた。それだけだ。マリエを連れて街へ出かけた。ルドミラ嬢にはその間の留守番を頼んでいた。ルドミラ嬢は何も悪くない。悪いのは私だ」

「そういうことでしたか」

 主の言葉を聞いたアロイスは嘆息し、兵たちもわずかに表情を緩める。そこでアロイスはようやくルドミラの方を顧みて、短く告げた。

「ルドミラ嬢。疑いをかけてしまい、申し訳ありません」

「謝って済む話じゃなくてよ」

 ルドミラは噛みつかんばかりに言い返したが、アロイスの視線はそのまま横に動いた。

 傍らで立ち尽くし、一言も発せずにいるマリエに留まった。

「さて、マリエ殿」

 貫かれそうなほど鋭い眼差しと共に、アロイスが切り出した。

「あなたに伺いましょう。先程、殿下が仰ったことは事実ですか?」


 その問いの意味を、マリエはとっさに理解できなかった。

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