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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
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貴方が笑うので

「失礼いたします」

 マリエは一礼して、主の居室に立ち入った。

 窓が開け放たれた室内には涼しい風が吹き込んでいて、窓辺に立つカレルの白金色の髪がそよいでいる。しかし新鮮な空気の中でも王子の表情は晴れない。

「……マリエか」

 ちらりとマリエを見ただけで、すぐに目を逸らしてしまった。

 マリエも肩を落とす。煩悶のあまり日に日に活力を失っていくカレルを、胸の痛む思いで案じていた。


 想い人の存在を打ち明けられてから、既に幾日かが経っていた。

 城内では思い悩むカレルの様子に薄々気付き始めた者もいたようだ。そういった敏い者たちがそれとなく探りを入れてくるのに対し、マリエは忠実にも沈黙を守り続けている。

 だが一方で、なす術のなさに歯痒い思いを抱いていた。心の内を明かされた唯一の従者でありながら、何の役にも立てない無力さを恥じるより他ない。近侍として、あるいは幼い頃より王子を知る者として、その笑顔を誰より望んでいるのに。

 ましてやマリエには、先日の懸想文における失敗がある。

 あの一件では一時的ながらカレルの気分を害した上、懸想文自体はかの想い人へと届けられたそうだが、何の反応もなかったようだ。

 皺くちゃの懸想文は現在、マリエの居室の机にしまわれている。あの日の後悔と共に。

 そしてマリエは先日の失敗をどうにかして挽回したい、今度こそ助けになりたいと思っていた。


「殿下」

 マリエはひざまずき、そっと主に呼びかけた。

 愁いを帯びた横顔のカレルが、こちらを見ずに口を開く。

「どうした、マリエ」

「わたくしに、いかようなご用件でしょうか」

 慎重に尋ねる。

 次の答えまでにはやや間があった。カレルは自ら窓を閉める、室内を吹き抜ける風が止む。それからしばらく経ってから、言いにくそうに告げられた。

「何用もない」

 抑揚のない言葉に、マリエは表情を強張らせる。

「何も……ないのでございますか」

「ああ。ただ呼びつけたまでだ」

 そう言った後、ゆっくりと足音が近づいてきた。カレルはマリエの傍までやってくると、ひざまずく近侍を真正面から見下ろし、眉を顰めた。

「用がなければ呼んではいけないのか?」

「いえ、そのようなことは!」

 反射的に声を上げたマリエは、カレルのどこか決まり悪そうな顔つきを見上げる。青い瞳と一瞬だけ視線が絡まり合い、すぐにぎくしゃくと逸らされた。

 そうなるとマリエの不安は一層募る。

「用は何もない」

 言い聞かせるような口振りでカレルは繰り返した。

「ただ……呼んだだけだ。特に用はない」

 まるで熱に浮かされたようだ。

 殿下の心はどなたかを想うあまり、病にも似た辛さに苛まれているのだ――そう察し、居た堪れなくなったマリエは、遂に自らの領分を踏み越える覚悟を決めた。

「殿下、先日は大変な無礼をいたしました。何とお詫びしてよいのか……」

 まずは、自ら口火を切って詫びた。

「無礼とは、何のことだ」

 カレルが怪訝そうに言葉を遮ってくる。

 ここぞとばかり、マリエは歯切れのいい口調で続けた。

「先日わたくしがしたためました、あの懸想文のことでございます」

「ああ、あれか」

「はい。殿下はあれをお送りになり、そして今日、煩悶なさっているのでしょう? あのような文では相手の方がご機嫌を損ねるのも当然です。全て、私の責任でございます」

 一息に告げたマリエは、それから唇を結んで審判を待った。王子の下す裁きならどのようなものであっても甘んじて受け入れる覚悟があった。


 マリエは色恋に通じているわけではない。にもかかわらず、ひも解いた詩集から得た知識だけで懸想文を認めたのも、近侍の領分を踏み越えた振る舞いだったようだ。幼い頃からカレルを知る者としてその幸せを望んではいたが、同時にその幸せがどれほど遠く困難なものであるか、もっとよく考えておくべきだったのかもしれない。

 しかし、この件についてはマリエにも不可解に思うことがある。

 カレルはマリエに想い人の名を告げず、ただその存在を胸の内にしまっておくよう言った。そしてそう言っておきながら、あの懸想文を意中の相手に送ったそうだ。

 更に想い人が懐にしまったはずの懸想文はどういうわけか、カレルによってマリエの手元へと戻ってきた。今はマリエの居室の引き出しの中にある。それは、なぜか。

 カレルも『懸想文を突き返された』とは口にしづらかったのだろうか。

 そうも思ったが、何となく、釈然としなかった。


 カレルはしばらくの間、マリエを訝しげに見下ろしていた。むしろこの時、カレルの方が不可解そうな顔をしていた。

 やがて小さくかぶりを振って、言葉を選びながら答えた。

「案ずるな、機嫌を損ねたということはない」

「さようで……ございますか、殿下」

 息を呑むマリエに、カレルは嘆息して続けた。

「ああ。手紙を渡した相手は、全くの無反応だった。機嫌を損ねたということではないだろう」

「では、その方には殿下のお心が伝わったということなのでしょうか」

「……どうも、そうではないらしい」

 わずかな間があり、カレルの答えはやや力なく聞こえた。足元に落とした視線をうろうろと彷徨わせている。

「マリエ」

 やがてためらいがちに、名を呼ばれた。

 マリエも居住まいを正す。

「はい、殿下」

「この件について、お前が気に病むことは全くない」

 カレルの視線は床の上で所在なげに揺れている。

「確かにあの懸想文はいささか突飛で、珍妙で、こんなもので喜ぶ女がいるものかという内容ではあった。しかしそれもお前に非のあることではない。もう少しまともな詩集をひも解くべきだとは思ったが、それでもだ」

 マリエは気の抜けたような顔をして、カレルの言葉が継がれるのを待った。

「あの文に記されていたのは、私の心ではない」

 白金色の髪を揺らして、カレルはそう言い切った。

「私の心ではないものを送ったところで、相手に何かが伝わるはずもない。あの文にはお前の心しか存在していなかった。私の心のない、お前の心のみの文では、何物も動かすことはできぬのだ」

「殿下……」

 かすれた声を上げたマリエに、ようやく視線を上げたカレルが微笑んだ。快活な主らしからぬ、ぎこちなく、引き攣ったような笑い方だった。

「伝えるならば私の言葉でなくてはならぬ。私の心でなくてはならぬ。それを学んだだけでも、この度のことはよい糧となった」


 王子の発言は、マリエの胸を打った。

 幼いばかりと思っていたカレルが、まるで大人のように思慮深いことを言うようになった。

 もはやカレルは直情的な少年でも、色恋に煩悶し足踏みするだけの子供ではないようだ。相手の気持ちを慮ることができる、立派な青年へと成長しつつある。

 そう思うと、マリエの感慨もひとしおだった。


 マリエはにっこりと笑い、興奮気味に口を開いた。

「殿下、さすがでございます。殿下のお心、わたくしにはしかと伝わりました」

 それを聞いたカレルは一瞬瞠目し、すぐに複雑な表情となった。

「そうであろうか」

「もちろんでございます。わたくしは今日のこの時ほど、殿下のお傍にいられて幸いだったと思ったことはございません」

「それはそれは……重畳だな」

 カレルはどこか呆れたようにかぶりを振った。

 途端にマリエは感無量の気分から引き戻され、慌てて取り繕う。

「し、失礼いたしました。殿下のお気持ちも考えずに」

 カレルの成長は喜ばしいことだが、当初の問題が解決したわけではない。カレルの想いが成就するかどうか、そもそも成就させてよいものなのかどうかすら、今のマリエにはわからぬことだ。

「気に病むな。どうせ今に始まったことではない」

 皮肉の込められたカレルの言葉に、マリエは恥じ入り、ぱっと赤面した。

 するとカレルは、そんなマリエの顔をじっくりと見つめた。見下ろす視線は強く、しかしどこか不安げだった。

「……マリエ」

「はい、殿下」

 返事をしてからもカレルはマリエを見つめていた。見えない言葉を探すように、つぶさに見つめてきた。マリエもその眼差しを黙って、粛々と受け止めた。

 だが、しばらくしてから解かれた唇が紡いだのは、マリエにとって予期せぬ科白だった。

「お前は、嫁には行かぬのだろう」

 唐突な確認の問いは、らしくもなく弱々しかった。

 マリエは戸惑いつつ、おずおずと答える。

「はい、殿下。今のところ、そのような予定はございません」

「そうか」

 途端にカレルは喜色を浮かべた。それはもう、空を覆う雲が晴れ、目映い陽光が差し込んできたかのような見事な笑顔だった。

 そして、急に上機嫌になって語を継いだ。

「ならば無理に行くこともない。嫁には行くな、行かずにずっと私の傍で働くのだ。その方がきっとお前の為にもなる」

 主の宣告にマリエは呆然とした。

 実際に嫁ぐ予定があったわけでもなく、また決まった相手がいるということも全くないマリエは、言わば行き遅れの範疇にあった。それでも結婚について何も考えがないわけではなく、いつかは親元に呼び返され、城勤めを終える日が来るかもしれない、漠然とだがそう思っていた。

 それを理由もなく行くなと命ぜられればさすがに驚く。カレルの言葉は、マリエにとっての絶対であり、従わぬことは考えられないが、一体どういう了見なのだろう。

「お前は生涯私に仕えるがよい。嫁に行くことなどないぞ、マリエ」

 嬉々として言うカレルに、マリエは大いにまごつきながら答える。

「で、殿下のお望みとあらば……」

「まさしく私の望みだ。よいな、マリエ」

「……はい、殿下。仰せの通りにいたします」

 すっかり大人になったと思えば、すぐにわがままじみた、幼いことを言い出す。

 やはりカレルはまだまだ子供なのだろうと、マリエは内心複雑に思った。それを言うならカレルの方こそ、懸想立てていられるのも今のうちのことだ。いつかは国の為、妃を娶らなくてはならぬのに――。

「よろしい。くれぐれも、忘れるでないぞ」

 カレルは満足げに笑んで、また言葉を探すようにマリエを見つめる。

 しかしその後、カレルの口から何かが告げられることはなかった。言うべき言葉が見つからなかったのか、ただひたすら、見つめていただけだった。

 マリエの胸中には、まだ不可解さや疑問が燻っていた。だがカレルが笑っているので、とりあえずのところは気に留めずにおくことにする。


 なぜなら、マリエの忠心はカレルにある。

 カレルが笑うなら、それだけでいい。

 望まれるうちは嫁にも行くまい、どうせ貰い手もないのだからと、心の内で泣く泣く誓った。

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