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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
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黒い髪(2)

 カレルはしばらく黙りこくっていた。

 考えを巡らせるように、揺れるランタンの灯を見つめていた。


 しかしふと顔を上げたかと思うと、咎めるような声を発した。

「あまり、しげしげと見るでない」

 面映そうに告げられた言葉の意味を、マリエはすぐには察せなかった。カレルの横顔を注視し続け、不意に逸らされた瞬間にわかった。

「し、失礼いたしました。わたくし、不躾な真似を」

「不躾というほどではないが」

 カレルは困惑を押し隠すように白金色の髪をかき上げる。

「ただ、好ましいことでもないだろう。こと、こういう状況下では」

「申し訳ございません」

「このように薄暗いところでそう見つめられると、どうにも落ち着かぬ心持ちになる」

 言葉通り、カレルは落ち着かぬ様で、一度腰を上げ座り直した。それからマリエの方は見ず、長く細い溜息をつく。


 困惑しているのはマリエの方も同じだった。

 薄暗いところにいるせいなのか、それともカレルを見つめていたせいなのか、ここに漂う空気はまるでいつもと違っていた。篭もる黴の匂いも気にならぬほど、二人きりの書庫は息苦しいほどの熱で満ち満ちている。

 お蔭でマリエは身動きが取れず、目のやり場にも困っていた。髪の色を誉められてからというもの、やはりそわそわと落ち着かぬ心持になっていた。


 書庫に、また沈黙が落ちる。

 黙っているのも気まずいマリエは、気を紛わすように口を開いた。

「殿下。逢い引きの演習と仰いましたが……」

「ああ、言った」

 カレルはどこか忌々しげに返事をする。

 もしかすると話題の選択を誤ったのかもしれない。なぜそれを切り出すのかと、非難がましい空気が端々から漂う声だった。

 しかしマリエには気懸かりなことがあった。それを確かめぬうちは、下手なことも言えまい。

「具体的に、わたくしはどのように振る舞っていればよろしいのでしょうか」

 だがその問いに対し、カレルは答えに窮したようだ。

「どのように、か……」

 口元を片手で覆い、しばし考え込んでみせる。

 マリエはそんな主の様子を横目で窺う。見るなと言われたからには見ているわけにもいかないが、気になるのもまた事実だった。

 しばらく思案に暮れた後、カレルはぽつりと答えた。

「話を、するだけでよい」

「話を、ですか」

 反復するマリエにカレルは顎を引き、

「どうせお前はあれ以来、逢い引きの作法など学ぶ機会もないままでいたのだろう。お前のような初心者に、小難しいことを要求するつもりもない。ただ話に付き合ってくれればよい」

 と言った。

 言い当てられてマリエは項垂れる。

「申し訳ございません、殿下。実はあれきり読書も途絶えがちで、なかなか時間が取れないのでございます」

「それはよい。例の俗な本とやらがお前に与える影響がどのようなものか、私は十分に理解した」

 カレルの目は、書庫に居並ぶ本棚へと向けられている。

 マリエに知恵をつけさせた書物はこの中にある。思えば一度として役立たなかった知恵だ、カレルがうんざりするのも無理はない。

「逢い引きとは、実際にしてみなければわからぬものなのだ。あれこれと想像を巡らせただけでは何の意味もない」

 沈んだ口調でカレルは語る。

「私は、一度目には失敗をした」

 ランタンの炎の色が、青い双眸にもちらちら揺れていた。

「人目を忍ぶのを忘れた。そのせいだろうか、きっぱりと拒絶されたのだ。隣に座るようにと言って、拒まれて、頭に血が上った。逢い引きらしからぬことをあれこれ告げたような気もする。それで――あまりよい印象を与えなかっただろうと思う」

 マリエはその言葉を、怪訝な思いで聞いている。

 そんな逢い引きを、殿下はいつなさったのだろうか。マリエ自身には覚えがなく、不思議で仕方がなかった。

「だから、二度目は人目を忍ぶ場所を選んだ。隣り合って座れるよう、私なりに取り計らったつもりだ。あとは頭に血が上らぬよう、せいぜい心がけるより他ない」

 そこまで言って、カレルは薄く笑った。

 そしてマリエの方を向く。ゆれる瞳で見つめてくる。

「マリエ、お前に問おう。お前はこれまでに何度の逢い引きをした?」

 唐突な問いに、マリエは目を瞬かせた。

「前にお話いたしました通り、わたくしは一度として、逢い引きをしたことはございません」

「……一度も、か」

 カレルが不機嫌そうに眉を顰める。

 そうは言っても、してもいないことを見栄を張って、したと言い募ることはできない。素直に頷いた。

「一度も、でございます」


 嘘をついたつもりはなかった。逢い引きをしたことなど、一度もない。

 逢い引きのようだと思う機会はあったが――あれを逢い引きと認めることは、マリエにとってこの上なく不敬なふるまいだった。

 もちろんカレルと花を摘み、夕刻の庭園で過ごした日のことは、マリエにとっても忘れがたい記憶だった。あの日見た夕景、風が掻き乱す花の香り、逢い引きについて教えてくれたカレルの言葉。何もかもが印象深く心の中に残っていた。

 しかしカレルとの逢い引きが許されるのは、カレルが想うかの婦人、たった一人だけだ。

 マリエにそれは許されない。あの記憶を、逢い引きとして数えてはいけない。


「お前はやはり、忘れているのだな」

 カレルが力なく肩を落とす。

 忘れているとは何のことか、マリエには何もわからなかった。間違った答えを口にした覚えはない。だがカレルは明らかに落胆している。

 どうしていいのかわからずに戸惑っていれば、カレルは何かを振り切るように唇を引き結んだ。

 そして面を上げ、いつになく凛々しい表情をマリエに向ける。

「では、今日こそ思うがよい。今がお前にとっての、初めての逢い引きだと」

 言葉とは釣り合わない重々しさで告げられた。

 その宣告に、マリエは愕然とした。

「殿下、それは……畏れ多いことでございます」

「黙れ」

 ぴしゃりと、カレルが反論を封じる。

「これは命令だ。命令という形でしか呑み込むことができぬのなら、命令以外のものをお前の記憶に刻み込んでおくことができぬのなら、私は命ずるより他になくなる」

 語気を強めて告げられた。

「決して忘れるな。以後誰に尋ねられようとも、今日がお前にとって初めての逢い引きであったと答えよ」

 カレルの『命令』は、少なからずマリエの心を打ちのめした。

 これまで見て見ぬふりをしてきた自分自身の心底の、それより更に奥深くまで看破されたような気がした。


 命令だと、あの日もカレルは口にした。

 そしてマリエはそれを拒んだ。拒むことができた。なぜならそれはマリエにとってどうにも許容しがたい事柄だったからだ。主の命と言えど不敬で、無礼な振る舞いを、受け入れることは不可能だった。

 では、この度の命令はどうだろう。

 やはりマリエがカレルと共にある時間は、逢い引きと名づけられてはならないはずだった。身分の差とはそれだけ広く、深く隔てられているものだ。受け入れてはならないはずだった。

 だというのに、マリエは強く拒むことができずにいる。

 許容しがたいことであるはずなのに、どうしても――あの日も思ったように、同じように思ってしまう。

 そうであったらいいのに。

 この時間が逢い引きだと、思ってよいのなら、きっと幸せだろう。満ち足りた気分でいられることだろう。もしも、そうであってくれたら。


 認められないのは立場や、身分のせいばかりではなかった。

 許容しがたい感情を律する手段として、マリエはいつしか自らに枷を嵌めてきた。

 マリエはいつ何時も、カレルの前では、近侍でいなければならない。

 時折、その線を越えそうになる心にも気づいていた。カレルに対する出過ぎた親愛の情や、同情や、あるいはもう少し一方的ないとおしさを、どうしても持ち続けるわけにはいかなかった。

 そういった感情が当たり前になってしまえば、マリエは近侍ではいられなくなる。


 カレルの言葉の後で、マリエはしばらくぼんやりとしていた。見透かされそうな心底は、カレルの目にはどう映るのだろう。そんなことを熱に浮かされた頭で考えている。

 その間もカレルは、真っ直ぐにマリエを見つめていた。片時も逸らさず、ひたむきに見つめてきた。

 沈黙が続くうち、ふと、マリエの胸裏に疑問が浮かんだ。

「殿下、恐れながら、お尋ねしたいのですが」

「何だ」

 お互い、声がかすれている。

「逢い引きの演習というのは……お二人でなさるものでございましょう?」

「そうだ」

「では、今は……」

 この書庫には、今、二人きりだ。

 マリエの問いが不自然に途切れたのを聞き、カレルは硬い表情のまま少し笑った。

「今は、何だ。マリエ、お前はどう思っている?」

「わたくしは、その……」

「好きに思うがよい。お前の目にただの演習にしか見えぬのなら、その程度ということだ。私にとっては、実践と同じことだがな」

 淡々と告げられ、マリエは戸惑った。

 好きなように思ってよいのならば、マリエ自身がどう思いたいかは――わからない。いや、考えてはならない。

「わ、わたくしにはわかりかねます、殿下」

 マリエはすっかりうろたえて、再びカレルを笑わせた。今度は表情ごと笑っていた。マリエの燃えるような耳朶や頬を見つけてしまったのかもしれない。

 だがそんなカレルも、今は熱を帯びているように頬を赤らめている。

「そうか。それでは――」

 カレルの長い指が伸びてきて、マリエのほつれた髪を一筋、掬い取る。指先に巻きつけるようにして、面映そうな眼差しを向けた。

「一つだけ、間違いのない真実を言おう。私はお前の髪の色が、とても好きだ」

 その言葉もまた、照れを含んだ口調で告げられた。

「あ……ありがとうございます、殿下」

 マリエはどこか夢見心地で答えた。ぼんやりしている自分が罪深い存在にも思えたが、込み上げてくる幸福感はどうしようもなかった。

「よい色だ。実につややかで」

「わたくしの髪の色は、母譲りなのでございます」

 そう答え、マリエはカレルの髪を注視し返す。

 白金色の髪は、国王陛下の髪色とは違っていた。では誰から譲り受けたものなのか、マリエは何も知らなかった。今までは畏れ多さゆえ、考えもしなかった。

 現在、この国に王妃はいない。国王陛下には妃がなく、ただ子としてカレルがいるだけだ。マリエはカレルの母親の、髪色どころか名前さえ知らず、それは臣民の全ても同様のはずだった。

「では、お前の母親にも感謝しなくてはな。お前に黒い髪を与えてくれたことと、お前を私のところへ、仕えさせてくれたことに」

 カレルのその言葉は、本来ならばこの上ない光栄だった。

 光栄と思うべき言葉だった。

 だが今となっては、マリエを打ちのめす以外の効き目はなかった。本心を秘する為の枷は完膚なきまでに叩き潰され、粉々になって、何の役にも立たなくなった。


 かつてマリエの母親は、マリエをカレルの近侍にすることに、頑なに反対した。

 王族の近侍には、一族の中で年が近く、優れた資質を持つ者がなるのが習わしだった。カレルが生まれた時に三つだったマリエは、その時から既に運命を決められていたようなものだった。

 しかしマリエの母親は、マリエが女であることを危惧した。いつかカレルが妃を迎える年頃になれば、娘の存在は多くの人にとって好ましからざるものに変わってしまうかもしれない、そう主張した。

 今になってマリエは、母親の懸念の意味を知った気がした。父親を始め、多くの親族は取るに足らない不安だと笑い飛ばしたが、母はこうなることを恐れていたのかもしれない。


 押し黙るマリエの頬に、カレルの指がそっと触れた時だった。

「――殿下、そろそろ立ち入ってもよろしいでしょうか」

 書庫の外から、アロイスの声が聞こえてきた。

 長い指に絡まる髪が解け、触れていた指先がつるりと顎まで滑り落ちる。カレルは顔を顰め、険しい視線が閉ざされた扉へ向けられた。

「連中、いつからいたのやら……よもや聞いていたのではあるまいな」

 呟きに重なるように、アロイスの訴えも聞こえる。

「お気持ちは概ねお察ししますが、我々にも任務というものがございます。あまり長らく姿をくらまされますと大変に困るのですが」

「了承した。十数えてから入ってくるがよい」

 カレルはそう応じると、すぐさまマリエに視線を戻した。ランタンの温かな光の中で、ふと表情を引き締めてみせる。凛々しい顔つきにマリエが見惚れていられたのは、一瞬だけだった。

「せめて、逢い引きらしきことでもしなければ気が済まぬ。マリエ、動くでないぞ」

「え……」

 口を開きかけたマリエに、問い返す機会は与えられなかった。

 柔らかい唇が、マリエのこめかみにそっと触れた。

 直後にカレルは立ち上がり、絶妙な間で開け放たれた書庫の扉を睨む。アロイスを筆頭に、あきれ顔の兵が歩み寄ってくるのを、気まずげな面持ちで迎えていた。

 マリエはしばらく、本当に身動きが取れなかった。腰を上げることもできず、カレルの手を借りてようやく立ち上がった。しかし書庫で何があったか、後にアロイスから問われても、とにかく黙秘を貫いた。

 言えるはずもない。


 その夜、自室に戻ったマリエは、母親から受け継いだ黒髪を櫛で梳いていた。

 鏡に映る自分の顔を見つめながら、カレルがよい色だと言ってくれた理由を、どうにかして冷静に考えようとしていた。

 あの方の想う方も、同じように黒い髪を持っているのかもしれない。殿下は黒髪の婦人に懸想しているのかもしれない――そう思い込もうとして、しかし別の考えが頭をもたげてくる。この上なく不敬で、この上なく近侍らしからぬ考えを、封じ込めてしまうことができない。

 髪に櫛を入れながら、マリエは罪の意識に囚われていた。

 いつまで、あの方の近侍でいられるだろう、と思う。

 あるいはもしかすれば、既に相応しい身ではないのかもしれない。

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