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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
23/103

覚悟を決めて、

 あの日ルドミラは、芝居を見に行った日のことを得意げに語ってくれた。

「わたくしは、旅芸人のふりをいたしましたの。ちょうどその日はお父様が、屋敷に旅の詩人たちを呼んでおりましたから」


 ルドミラの父親は吟遊詩人を招いての宴を好んでいたらしく、屋敷には旅の者の度々出入りがあったとのことだった。

 ルドミラはそれに便乗し、出て行く旅芸人たちに紛れて屋敷を抜け出した。化ける為の着衣は前もって用意をしていた。麻布で作った質素な外套は、気高き令嬢をも旅人のように見せかけたのだろう。誰にも気づかれることはなかった――かくしてルドミラは、単身街に飛び出した。

 街の地理は屋敷の書庫にある地図で学んだ。

 ルドミラの知識は、全て本で得たものだという。

「旅芸人のふりをするのも、実のところ本で学んだ通りのやり方でしたの。そういうふうにしてお城を抜け出したお姫様の話、お伽話にもございましたもの」

 その話を聞いた時、カレルは何か言いたげにマリエを見た。

 書庫で本を読み知識を蓄えている点はマリエも同じだが、身についた知識、及びその役立てぶりはまるで違っていた。主の視線の意味するところを察し、マリエは居心地の悪い思いがした。

「街へ出てからは実にたやすい話でございました。外套を羽織ったまま人混みに紛れ込んで、劇場へ向かいましたの。お芝居をやっている劇場は大きな看板が出ていて、すぐに見つかりましたわ。そこで切符を買って、すぐに中に入りました。酷い混みようで座るところもない有り様でしたけど――ちっとも気にならないくらい、素敵で愉快なお芝居でしたの」

 芝居のくだりに差しかかると、ルドミラの目はうっとりと遠くをさまよい始めた。街で評判の芝居は、彼女をも楽しませ、満足させたようだった。カレルを慮ってか、ルドミラは芝居の内容そのものについては多くを語らず、それゆえカレルの興味はより一層掻き立てられたらしい。

 ルドミラの話を聞いたカレルは、あれこれと質問を重ね、その都度実用的な回答を得ていた。

「街にも警邏兵がいるはずであろう。そのいでたちで怪しまれはしなかったか?」

「市場の辺りを通りましたの。あの辺りは外つ国からの客人も多い場所、旅装でもそうそう呼び止められはしませんわ」

「劇場で切符を買う時は? 顔をじろじろ見られては困る」

「あの劇場は大人気で、いつでも混んでいると聞きました。当然、切符売りがお客の顔をじろじろ見る余裕なんてございませんし、フードを目深に被っていても、いちいち外すように言われることはございませんでした」

 カレルの問いに、ルドミラは一つ一つ丁寧な答えをくれた。

「惜しいことに、わたくしが見つかってしまったのは、部屋が空っぽだったことを小間使いに気づかれてしまったからですの。もう少し上手くやれていたら気取られる前に帰れたのでしょうけど、お父様ったらすぐに追っ手を差し向けたんですもの」

「なるほど、それは参考になる」

 二人の会話は熱心で、こういう時だけは実に仲睦まじく見えた。それもこれも全ては件の芝居のお蔭なのだろう。カレルはルドミラによって、着々と知恵をつけつつあった。


 そして一通りの話を聞き終えたカレルは、厳かに宣言してみせた。

「ならば我々も、ルドミラ嬢のやり方に倣い、芝居を見に行く」

 力漲る表情で、堂々と言い放つ主に、マリエは何も言えなかった。

「その為にも支度をしなければ。手を貸してくれるな、マリエ」

 重大な決断を迫られていた。

 かつてカレルとの間に交わした、あの誓約についてだ。


 既に五度目の面会となった今日、ルドミラは機嫌よくカレルの前に現れた。

 彼女にお茶を振る舞った後、マリエは食卓を離れてすぐ傍の椅子に腰かける。足元の籠にしまわれていた麻布を取り出し、針と糸で縫い合わせる作業を再開した。カレルはもちろん、ルドミラもそれを咎めはしない。

「あなた、仕事が早いのね。もう形ができているじゃない」

「お褒めにあずかり光栄に存じます、ルドミラ様」

 麻布は、折り畳まれている状態ではただの布にしか見えない。しかし広げてみれば、それは確かに着衣の体をなしていた。頭を覆う為のフードがあり、やや長めの袖があり、裾は縫い目が目立たぬように丁寧に縫われている。既にあらかた縫い終わり、あとは留め具を付けるだけだ。そうすればルドミラが変装に使用したのと同じ、旅装のように質素な外套ができあがる。

「ルドミラ様に、仕上がりを見ていただきたかったのです」

 マリエが麻布を差し出すと、ルドミラは手に取ってためつすがめつした後で答えた。

「旅芸人のふりをするには、いささかきれいすぎるかしら。でも形はよいと思うわ。これなら中に何を着ていても、すっぽり隠れてしまうでしょうしね」

「ありがとうございます」

 意見を貰い、マリエは丁寧に頭を下げた。

「完成した後に泥をなすって、それから洗いをかけてみようと考えております」

「それはよい案ね」

 ルドミラも頷いてくれたので、麻布を抱えたマリエは再び椅子に腰かける。そして縫い物を再開した。

「では、今しばらくかかりそうだな」

 その作業を見守っていたカレルは率直にぼやき。

 しかしマリエが、すかさず口を開いた。

「急げば三日で仕立ててみせます、殿下。あと少しだけお待ちくださいませ」

「まあ、三日でできるの?」

 ルドミラが目を瞠り、その後で微笑む。

「あなたって本当に仕事が速いのね。うちの小間使いにも見習わせたいくらいよ」

「いえ、もったいないお言葉で――」

「マリエの有能さは、あなたももう存分に見知っていると思ったのだがな。この上なく優秀な、自慢の近侍だ」

 はにかむマリエを制して、カレルが我が事のように胸を張る。

 それでルドミラは冷やかすような笑みを浮かべたが、何も言わず、違う話題を継いだ。

「殿下の方は、お支度は万全でいらっしゃるのかしら?」

「縄梯子なら既に作った」

 カレルが窓際に目を向ける。

 その真下に置かれた木箱には、カレルが手ずから作り上げた縄梯子が納められている。いつの間にそんなものを作る術を身につけたのか、マリエはただただ驚かされていた。

「あとは道筋を覚えるだけだ。ルドミラ嬢、例のものは?」

「お持ちいたしました」

 促されてルドミラは、歴史書の間に挟んだ古い紙片を取り出す。

 それは城下町の地図を写したものだと、令嬢は言った。彼女が劇場まで向かった際に辿った道を記してあるらしい。

「この辺りは人通りも多く、立ち止まっていちいち地図を確かめるのは難しいかもしれませんわ。できれば覚えていかれる方がよろしいかと存じます」

 地図の写しを手渡しながらルドミラは言い、カレルも深く頷いた。

「わかった、頭に叩き込んでおこう。ともあれルドミラ嬢、感謝する」

「お役に立てるなら光栄の極みでございます。お二人にも是非楽しんでいただきたいですわ」

 ルドミラは愛らしく微笑むと、お茶を一口味わってから続けた。

「いつ決行なさるのかは、まだお決めになってないのでしょう?」

「そうだな。晴れた日がよいのだが」

 カレルは答えながら窓の外を見やる。

 今日は薄曇りの日だった。窓を開ければ肌寒く、ガラス越しに見える空には薄暗い雲が張り出していた。

「歴史の家庭教師が、腰が痛むだの膝が軋むだのと言っていた。もうじき雨が降る」

 カレルの言葉にマリエは思わず笑いを堪える。それでも針を進める手は止めず、主の声に耳を傾けた。

「雨の日は身を潜めるだけならちょうどいい。だがマリエを連れて行くとなれば、晴れた日の方がよいだろうな」

 そう語るカレルの声は、そこはかとなく弾んで聞こえる。

「まあ、殿下はお優しいんですのね。同行する婦人を気遣っておいでだなんて」

 ルドミラが揶揄するように告げると、カレルはむっとした様子で反論する。

「そうではない、雨の中では足が鈍るから晴れた日の方がよいと言ったまでだ。マリエを伴うのなら尚のこと、余分に時間がかかることを考えねばならぬからな」

「そうまでして連れて行かれる婦人のことを、よもや大切ではないなどと仰らないでしょう?」

 ルドミラもなかなか弁の立つ娘で、近頃ではカレルと他愛ない口喧嘩を楽しむようになってきたようだ。

「何を申すか。近侍を大切に思うのは主として当たり前のこと」

「大切に思っていらっしゃるだけ、かしら。得心いたしかねますわね」

「黙って聞いていれば、先程から口が過ぎるのではないか、ルドミラ嬢」

「わたくし、言葉を飾るのは苦手ですの。特にわたくしに関心を持ってくださらない方の前では」

 二人の応酬を、マリエは縫い物を続けながら聞いていた。

 近頃は間に割って入ろうと思うことも、仲をどうにかして取り持とうと思うこともなかった。二人は傍目には親しい友人のようにも見えたし、互いに本意ではないはずの面会の時を、口論という最も有意義な形で発散させているようにも見えた。


 カレルに手を貸すマリエに、迷いがないわけではない。

 主の命令は絶対。だがそうであっても、時に逆らわねばならぬこともある。城を抜け出し町へ出て、芝居を見に行くというこの度の計画は、本来ならば恨みを買ってでも止めるべきことのはずだった。

 だがマリエはかつて、同じ思いで主の為にうさぎを運び込もうとした。

 あの時、あの日のマリエも、同じ思いを抱いていた。うさぎをカレルの元へ連れて行こうとしたのは、カレルが主で、主の命令が絶対だからだった。しかしうさぎの騒動の後で叱責を受けたマリエが、それでも半日がかりで、誰の手も借りずにカレルを宥め、慰めようと思ったのは、カレルの思いを知っていたからだ。

 どうしても、何をもってしても叶わない願いのあることを知っていて、それを呑み込んでいくより他ないカレルに、せめて何かで心が紛れればと思ったからだ。


 あの頃から、マリエの忠心は変わりなく、マリエの胸のうちにある。

 恐らくカレルはとうにうさぎのことなど忘れているだろうし、忘れていなかったとしても、マリエが切り出せば顔を真っ赤にして口にするなと喚くだろう。あるいは頑として知らないふりをするかもしれない。だからマリエも、今更その記憶を持ち出すつもりはない。

 ただ、あの頃のうさぎと同じように、カレルにはどれほど望んでも叶わない願いがある。どれだけ恋焦がれても叶わない想いもあるようだ。マリエはまだ、カレルの懸想する相手を知らない。知らぬままに何もかも終わってしまうのかもしれない。マリエがどれだけ手を尽くそうと、本を読み、余分な知識を蓄えようと、どうにもならないのかもしれない。

 いつかはカレルもその想いを手放し、運命の赴くように、ルドミラなり、他の令嬢なりを選ぶ気になるのかもしれない。

 そうであろうとなかろうと、マリエはひたすらカレルの為にありたいと思う。カレルの望むように、望むことが叶わない時はせめて心が紛れ、穏やかでいられるように、そして常日頃からカレルが瑣末なことで心煩わされることのないように、忠心をもって仕えたいと思う。

 だから、決めていた。


「お二人も、上手くいくように願っておりますわ。他にも何かお手伝いできることがあれば、是非お声がけを」

 他愛ない応酬が落ち着くと、ルドミラは改めて切り出してきた。

「何でしたら、わたくしがこのお部屋で留守番役を仰せつかりましょうか。殿下がたがご不在の間、近衛兵の皆様の目を誤魔化す役割というのはいかが? そういうのも愉快そうじゃありませんこと?」

 続けた内容はカレルの為というより、自分が楽しがりたいからだというように見えた。悪童はどこにでもいるようだ、王族や貴族の子女の中にでも。

「感謝する。もしかすると頼むこともあるかもしれぬ」

 カレルが満足げに唇を歪めた。

「何はともあれ、やるからには首尾よくやるつもりだ」

 そうして傍らのマリエに対し、いきいきとした口調で告げてくる。

「決行の日が楽しみだな、マリエ」

 マリエは一度手を止め、面を上げて、しっかりと頷いた。

「はい、殿下。わたくしもとても楽しみに存じます」

 心はとうに決めていた。

 不安がないわけではない。事が露呈すれば、叱責されるのも、責任を負うのもやはりマリエだ。万に一つのことがあれば、今度こそはその身をもって責任を取らなければならないだろう。

 けれど、それでもよい、と思う。

 カレルがそう望むのなら。

「お前がそう言ってくれるとはな。実に喜ばしい」

 マリエの答えを聞き、カレルは弾けるような笑顔になる。ルドミラの冷やかす視線もどこ吹く風で、機嫌よくマリエの仕事ぶりを眺めている。


 その表情を目の端で見ながら、正しい選択をしたのだと、マリエは思った。

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