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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
22/103

うさぎ

 近衛兵がマリエに対し、警戒心と緊張を抱くことは滅多にない。

 マリエは近侍として、主のカレルのみならず、城勤めの大勢の者たちからの信頼を得るまでになった。それはマリエのカレルに対する忠心が、十年超の城勤めを経た今、誰の目にも揺るぎないものとして映るからだろう。マリエもその信頼がありがたかったし、報いるだけの働きを続けていかなくてはと思っている。

 しかしその忠心ゆえに、時としてマリエは近衛兵に疑いをかけられることもある。


 この日、マリエが抱えてきた大きな籠を、兵たちは不審そうに見つめていた。

 籐編みの籠だった。丈夫な蓋がついていた。中身は、外からは見えない。マリエの両手に余るほど、大きな大きな籠だった。

 カレルの居室の前を警護する兵たちが、何か思い出したように苦笑する。同じく廊下を警護中のアロイスが、誰より早く声をかけてきた。

「マリエ殿、そちらはまた随分と大きな籠ですな」

「ええ。ですが、中身は大変軽いものです」

 問われることを想定していたマリエは、何でもないように答える。

「検めてもよろしいですか」

 アロイスならそう言い出すだろうことも予想がついていた。だから先んじて籠の蓋を開けた。

「構いません。中身は麻布です、ご覧の通り」

 マリエが答えたように、籠の中には折り畳んだ布地が詰め込まれていた。間仕切りなどに使う柔らかい麻は、まだ染められておらず、素材そのままの色をしていた。

 片眉を上げたアロイスが、

「失礼」

 大きな手で畳んだ布地を捲り上げる。その下にあるのも同じ布だった。籠の底まで検めたが、やはり麻布しかなかった。

 アロイスは顔を上げ、笑いを噛み殺しているマリエと視線を合わせた。途端にきまりの悪そうな顔をして、こう告げてくる。

「確かに、布地だけのようです。疑ってしまって申し訳ない」

「近衛の皆様のお役目は存じております。検められるのも当然のことかと」

 籠を抱え直したマリエは、開いたままの蓋を閉じてから恥じ入った。

「わたくしは特に、以前にご迷惑をおかけしたこともございました。アロイス様は覚えておいででしょう?」

 その言葉に、アロイスは口元だけで微笑んだ。

「覚えておりますとも。もっともあれは、あなたの責任というより……」

 近衛隊長の視線は、黙って扉に向けられる。

 その奥にいるのはもちろん部屋の主、そしてマリエが仕える年若き主だ。


 かつて、マリエはカレルへの忠心を重んじるあまり、一騒動起こしたことがあった。

 発端は幼いカレルの嘆願だった。とある名家の令嬢が城を訪問した際、うさぎを飼っていることを幼い王子相手に語り聞かせたのだ。

 その令嬢は自慢げに、誇らしげにうさぎの話を続けた。雪のように真っ白で綿毛のようにふわふわしているうさぎが、いかに愛らしく、かけがえのない存在であるかを――令嬢が城を去った後、カレルの頭は当然のようにうさぎの姿でいっぱいになってしまったらしい。その頃既に近侍として仕えていたマリエに対し、自分もうさぎが欲しいのだと訴えてきた。

 カレルは動物を飼うことを禁じられていた。許されていたのは馬に乗る練習をすることだけで、悪い病気を貰っては困ると、猫や犬の類にも触れてはならないと言い渡されていた。

 そのことを知っていながら、マリエは命令に従った。当時のマリエは分別がなく、カレルの懸命の訴えに、つい絆されて応じてしまったのだ。

 ちょうど城で飼われているうさぎに、小さな子が産まれたばかりだった。あまりに殖えたものだから小屋が手狭になり、引き取り手を探していると聞いていた。その話を聞いたカレルは目を輝かせ、一羽連れてくるようにとマリエに命じた。

 マリエも主の望みならばと迷わず動き、事情は明かさずうさぎを貰い受けると、カレルの居室へ届けようとした。白さでは他の者に勝るとも劣らず、ふわふわと柔らかで触り心地のよいうさぎだった。誰にも見つからぬよう、蓋がついた籠に入れて、幼かったマリエは城の廊下をひた走った。


 そしてその後、うさぎはお約束の運命を辿ることとなる。

 籠の蓋を長い耳で押し上げ、やがてするりと抜け出した。マリエに一度は捕まえられたが、少女の小さかった手からは柔らかい身体で難なくすり抜けた。屈強な兵たちにも敏捷さで勝るうさぎは、彼らを翻弄した挙句まんまとその場を逃げ出した。そして城内を縦横無尽に逃げ回り、マリエたちを含む城勤めの者を大いに右往左往させたのだった。最後には庭園で芝生を食んでいたところを捕らえられ、一旦は親元に戻されたものの、直によそへと貰われていったと聞く。

 一方のマリエは散々だった。城の執政から叱責され、兵たちに対しても平身低頭、詫びて回る羽目となった。

 そしてカレルには落胆され、泣き喚かれ、宥めるのに半日を要した。マリエは一人きりでカレルを慰め、夕飯前だというのにクルミのケーキを三つも焼いて、それでようやく機嫌を直して貰えた。

 そんな経緯があってもくびにならなかったのは、皆がマリエの忠心と、そもそもの事の発端――むしろ元凶を察していたからだ。

 あれはマリエが十五、カレルが十二の頃の話だった。


 あれから六年が過ぎた。

 マリエは近侍としての分別を身につけ、カレルもまた幼いばかりの存在ではない。しかし当時の騒動を知る者たちは、マリエの忠心が時に騒動を引き起こすことを身に染みて理解しているようだ。だから、疑われるのも無理はないのだろう。

「しかし、その布地は何です?」

 アロイスが尋ねる。

 彼は事件当時、近衛兵を拝命したばかりの青年だった。そしてうさぎ追跡作戦では率先して城内を駆けずり回り、すばしっこいうさぎに何度も苦汁を舐めさせられていたのをマリエも覚えていた。

「こちらですか? 刺繍をするのに使うのです」

 マリエは努めて冷静に答える。

「ルドミラ様が素敵な刺繍のやり方を教えてくださるとのことで、今日のお越しに際しては、何か布地を用意して置くようにと仰いました」

 ルドミラの名前が出ると、アロイスの表情は複雑そうに歪んだ。兵たちはマリエを好奇と懸念の入り混じった目で見ている。マリエにはその視線の意味をすぐに察することができなかった。

「ああ、ルドミラ嬢ですか。あの方は近頃よく通っておいでですが、刺繍がお得意だとは存じませんでした」

 アロイスの口ぶりからは、ルドミラに対する好ましからざる印象が窺えた。


 あんなに素敵な方なのに、とマリエは胸中で呟く。

 確かにあの性質では、カレルの妃として相応しくないと思う向きもいるのかもしれない。初めの訪問の際はカレルと言い争いとなり、激高の末に部屋を飛び出していったほどだ。ルドミラの気性の激しさは兵たちにも知られているところだった。

 だがマリエからすれば、ルドミラは他の令嬢よりも印象深く、今まで出会った人々の中でも好ましい相手だった。聡明で闊達明朗、言葉は必要以上に飾らず、それでいて相手を誉めることも忘れない。彼女の知識は多岐にわたり、様々な分野に造詣が深いようだ。まだ数回顔を合わせただけだが、話していて楽しい相手だ。

 もっとも、アロイスはカレルに想う相手がいることを知っている。その相手ではない令嬢には、あまりよい印象を持てないものかもしれない。ましてマリエとは違い、室内で繰り広げられるカレルとルドミラの軽妙なやり取りを、傍で聞くことができないのだから。


「しかし、あなたとルドミラ嬢とが仲良くしていては、殿下はご機嫌を損ねやしませんか。殿下がいかに寛容なお方とは言え、あのような微妙なお立場のご令嬢と個人的に親しくなるのはいかがなものかと」

 アロイスが眉を顰めて懸念を示す。

 当然、マリエはきっぱりと言い返した。

「殿下はルドミラ様に興味をお持ちのご様子ですから。刺繍には興味をお持ちでなくとも、ルドミラ様のいる時は大抵楽しそうにしておいでです」

 その途端、居合わせた兵たちは目に見えて動揺した。

 アロイスもまた瞠目し、頬でも張られたような顔をして、一言零した。

「まさか」

 まさかとは、何のことだろう。怪訝に思うマリエを、アロイスは穴が開くほどじっと注視した。それから他の兵の視線を浴びつつ、小声で問いを継いできた。

「殿下が、かの令嬢を気に入っていらっしゃると?」

「ええ」

 躊躇せず、マリエは頷く。

 現に今日で五度目の訪問となるが、一度目を除いてルドミラが途中で退席したことはなかった。二度目も三度目も四度目も、約束の時間ぎりぎりまでいて、カレルやマリエと会話を弾ませていた。それは互いに気が合わなければできぬことだ。

「では、あの方が殿下の妃になると、マリエ殿はお思いなのですか」

 アロイスは単刀直入に尋ねてきた。

 問いの明け透けさにマリエは戸惑ったが、正直に、慎重に答える。

「それは、わたくしにはわかりかねます。ただ殿下があの方との面会を楽しんでいらっしゃるというのは確かなことです」

 その答えで、近衛兵の間には再び動揺が走った。


 マリエからすれば、嘘をついたつもりはなかった。

 カレルとルドミラはある側面では気が合うようだ。似たところがあるせいか、たった一つだけ共通して持ち合わせていた話題があったのだ。その話をする時、マリエの目に二人は仲睦まじく見えた。

 だからこそ、そう答えたのだったが――。


 アロイスは一度唇を結び、辺りに視線を巡らせる。

 そしてこの廊下にマリエと、近衛兵しかいないことを確かめた後、今までで一番小さな声で囁いてきた。

「マリエ殿は、よろしいのですか」

 問われて、マリエは眉根を寄せた。どうしてそんなことを問われるのかわからなかった。正直に答えるなら、頷き一つで済んでしまう。

「ええ。殿下が喜んでいらっしゃることは、わたくしにとっても喜びです」

 それでアロイスを筆頭とした近衛兵一同は、呆れと狼狽と哀れみと苛立ちとが複雑に入り混じった表情を浮かべた。そして無言のまま、マリエの為に主の居室の扉を開いた。


 扉をくぐったマリエは、もやもやしていた。何やら妙なことばかり聞いてくるものだ、と思っていた。近衛兵が揃いも揃って同じ反応をするのも奇妙だった。

 しかし背後で扉が閉まると、釈然としない思いは全て消散した。別の案件について胸を撫で下ろす。

 ――よかった。首尾よく事が運んだ。


 室内ではカレルが待ち構えていて、マリエの表情を見るや首尾の方を悟ったようだ。

「例のもの、用意できたか」

「はい、殿下。お持ちいたしました」

「よくやってくれた。これで我々も、ルドミラ嬢の後に続くことができる」

 実に満足げなカレルを発端として、マリエの忠心が再び騒動を引き起こそうとしていた。

 その鍵はやはり籠の中にある。

 うさぎではなく、まだ縫われる前の麻布だった。

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