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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
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天才(1)

 宣言通り、ルドミラは日を空けずに次の面会を請願してきた。

 カレルの元に届けられた手紙では、前回訪問時のいざこざには一言も触れられていなかった。何事もなかったように次回の約束が取りつけられ、ルドミラは何食わぬ顔でカレルの部屋を再訪した。


 現れた彼女の美しさは先日と何ら変わりなく、高く結った髪も、仕立てのよいドレスも、顔立ちからうかがえる聡明さと気位の高さも以前のままだ。

 唯一違うところがあるとすれば、それは彼女が持参した、古めかしく分厚い本だろう。

「ご機嫌よろしゅうございます、殿下。本日はよいお天気でございますわね」

 おざなりな挨拶を終えた後、ルドミラは勧められた椅子に腰を下ろす。そして悠然と本を開いた。向かい合わせに座ったカレルの存在を気にするそぶりもなく、無言で頁を繰っている。読んでいるのはどうやら歴史書のようだ。

 これにはカレルも困惑し、呆然と呟いた。

「一体、何のつもりだ」

 脇に控えたマリエも戸惑う。

 本日もルドミラの為に、前回以上に心を込めて、お茶とお茶菓子の支度を整えていたのだが。


 前回、ルドミラを激高させた一件では、近侍として大いに責任を感じていた。

 事の発端はマリエの焼いたケーキによるものだ。焦げたケーキを庇い立てしようとしたカレルが、ルドミラの目には贔屓だと映り、蔑ろにされたように思えたのだろうと理解していた。

 もちろん実際は執心されているなどということはなく、あの日のお茶も茶菓子も、全てルドミラの為に誂えたものだった。カレルとて一時のぼやきぶりが嘘のように愛想よく迎えたのだから、彼女に立腹されたのはマリエにとっても残念なことであり、自責の念にも駆られた。

 結局あの後、残された茶菓子はカレルが必死になって腹に詰め込んだ。そのせいで夕食が口に入らない事態も招いたが。それでもなお残った茶菓子はどうにもならず、主の命で近衛隊一同にも振る舞われる結果となった。

 幸いにして今日の茶菓子の出来は最良に近いものだった。

 だからこそ、ルドミラの態度には不安も過ぎる。


 本日のルドミラは、カレルにはいささかの関心もないようだった。目の前の王子を存在ごと無視した上で、手元の本に熱中している。

 こうまであからさまに拒絶されれば、さしものカレルも黙ってはいられなかったようだ。

「ルドミラ嬢、本日は私に会いに来たのではないのか」

 棘のある声が居室に響き、マリエは一人首を竦めた。

 当のルドミラはと言えば、視線は本に留めたままで、顔も上げずに答えた。

「ええ。わたくしの父はそのように申し出たそうですわね」

 そして眉一つ動かさず、カレルに棘をつき返す。

「でも、わたくしは無駄なことには時間を使いたくありませんの。殿下がわたくしに関心を持ってくださらないようですから、わたくしも無駄な努力は止めるつもりでおりますのよ」

「それで、読書をすると申すか」

 カレルが呆然と尋ねた。

 するとルドミラは労を惜しむように、わずかにだけ視線を上げた。朱唇を少し尖らせ、いかにも意味ありげな口ぶりで語を継ぐ。

「ええ、ご心配なさらず。わたくしはお二人のお邪魔をする気は毛頭ございませんから。この一冊を読み終えたらちょうどよい頃合いでしょうから、お暇いたします」

 その言葉を聞き、カレルはきまり悪そうにマリエを見る。事を荒立てたくないのか反論こそしなかったが、困惑は顕著に表れていた。

 マリエも茶葉を掬った匙を止め、このままお茶を入れてもよいのか、あるいはひとまず様子を窺っているべきか、しばし迷った。

 室内に不自然な沈黙が落ちる。

 ルドミラがページを繰る乾いた音だけがしばらく続いた。


 やがて、カレルが大きく息を吸い込んだ。

 不機嫌そうに見える顔つきで、それでも憤懣を抑え込もうとしているらしい。次に口を開いた時は、淡々とした声になっていた。

「あなたは随分と難解そうな本を読むのだな」

 社交慣れしていないカレルなりに、何か会話をしなければと思ったのだろう。

 そしてその言葉は、少なからずルドミラの気を引いたようだった。ちらと視線がカレルに向いた。

「ええ、わたくしは歴史を学ぶのが好きですの。この本は愛読書ですのよ」

 この令嬢は、見目麗しさや振る舞いを誉められるよりも、聡明だと言われることに喜びを感じるのかもしれない。表情が輝いているのをマリエは認めて、そう直感した。マリエにとっても初めて会う類の婦人だった。

 一方で、歴史にはとんと興味を示さぬのがカレルだった。

「歴史か」

 短く言った後で、苦虫を噛み潰した表情になる。

 カレルの勉強嫌いはマリエも重々承知しているところだ。ことに歴史については、歴史を教える家庭教師との相性もよくないらしく、何かにつけて反発しているのも知っていた。一泡吹かせてやろうとするカレルの企みにマリエが手を貸し、結果として二人揃って叱られたことも記憶に新しい。

 マリエがそっと笑いを堪えれば、ルドミラもおかしそうに口を開いた。

「あら、殿下は歴史が嫌いでいらっしゃいますのね」

「好きではない」

 不満そうにカレルが答える。

「あんなもの、学んだところでどうなるというわけでもあるまい。それよりももっと役立つものが数多あるはずだ。私も無駄なことに時間を割くのは好ましくないと思う」

 カレルが好むのはやはり、剣を振るうことだった。マリエからすれば、危なっかしい真似をするよりは机にしがみついていてくれる方がよほど安心できるのだが、進言して聞き入れるような主でもない。

 そしてルドミラは、カレルの言葉にまた笑んだ。唇の両端を吊り上げた、勝ち誇ったように見える笑みだった。

「歴史は面白いものでございますわよ、殿下。人は過ちを繰り返し、けれどその過ちを礎として国家が成り立つものなのですから。噛めば噛むほど味があるようで、わたくし大好きですの」

「あれに味があるのか」

「ございましてよ。それに殿下なら尚のこと、歴史を学んでおくべきと存じますわ」

 ルドミラは穏やかに勧めてくる。

「過去に学び、今を知る。要は歴史を学ぶことで、現在がわかるということもございます。逆に言えば、過去を学ばぬものは過ちを繰り返すだけのお馬鹿さん、ということになりますかしら」

 冷やかすようにルドミラが言うと、やり込められた格好のカレルは口ごもり、つまらなそうに視線を逸らした。

 マリエは二人の様子を注意深く見守っていた。かつてアロイスはルドミラを指して『才媛』と言ったが、そのことはもはや疑いようもない。分厚い歴史書はマリエが普段読んでいる俗な本とは違い、実に難解そうに映った。


 ちょうどその時、お茶の用意ができた。むしろ入れる機を長らく見計っていた。

 今こそ好機を踏んだマリエは、ルドミラにお茶を差し出す。

「ルドミラ様、どうぞお召し上がりください」

 それでルドミラは顔を上げ、マリエに対して愛想よく微笑んだ。

「あら、ありがとう」

 礼を述べ、お茶を上品に一口味わい、嬉しそうに表情をほころばせる。

「美味しいわ。……今日はね、あなたの作るお菓子だけを楽しみにしていたのよ」

「え?」

 思わずマリエは瞠目し、問い返す。

「ま、まことでございますか、ルドミラ様」

 すると、聡明な令嬢はすかさず顎を引いてみせた。

「ええ。この間のクルミのケーキ、大変美味しかったわ。少々焦げてはいたけど、わたくしも大好きになってしまったの。また、いただけるかしら?」

「もったいないお言葉でございます」

 マリエは感激した。

 先日のクルミのケーキはあの通りの失敗作で、しかもカレルとルドミラの軋轢を引き起こした曰くつきのケーキだった。これからはケーキを焼く度にあの日の気まずさが甦るだろう、そう考えるくらい気に病んでいたので、ルドミラの言葉はまさに救いとなった。

 早速、ケーキにナイフを入れ、ルドミラとカレルにそれぞれ差し出す。本日のクルミのケーキはこんがりとした焼き色も美しく、生地はしっとりと、バターの香りを漂わせて焼き上がっている。

 そのケーキを一口味わったルドミラは、満足げに睫毛を伏せた。そしてじっくりと味わってから、告げてきた。

「やっぱりとても美味しいわ」

「ありがとうございます、ルドミラ様」

 マリエが嬉しさから頭を下げると、令嬢も気をよくした様子で話を振ってくる。

「このお菓子は全てあなたが作ったのでしょう? さすがね」

「お褒めにあずかり光栄です」

「ねえ、今度作り方を教えてくださらない? わたくしも是非作ってみたいの」

 前回の失態を怒るどころか、ルドミラは実に優しく、温かい言葉をくれる。

「はい、喜んで」

 感激のあまり素直に頷いたマリエだが、直後口を噤んだ。

 視界の端で腕組みをする、主の不機嫌さに気づいたからだった。


 恐る恐る、マリエがそちらを窺えば、

「お前たちばかり楽しそうで、大変結構なことだな」

 カレルは好物のケーキに手もつけず、恨めしげな目をマリエに向けている。

「お前は他でもない、私の近侍ではないのか、マリエ」

 ねめつくような強い眼差しだった。しかし剣を振るう時に見せる苛烈な眼光とは違い、どこか寂しげで、拗ねているようにも見えた。

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