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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
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誓約(2)

 花瓶を携えたマリエが戻ってきた時、カレルはまだ寝台にいた。

 身を横たえたまま、やはり天蓋をぼんやりと見上げていた。


「殿下、そろそろお召しかえを」

 萎れた花を活けた花瓶を寝室へと移した後、マリエはそっと言葉をかける。

「まだカフスもつけていらっしゃらないんですね。ぼちぼち、お急ぎになりませんと」

 寝台からは、力のない答えが帰ってくる。

「お前に頼もうと思っていた」

「カフスをですか?」

「そうだ」

 冗談とも本気ともつかぬ物言いだった。

 いつもは着替えに際してマリエの手を借りることを嫌がるカレルが、今日に限って子供のようなことを言い出す。マリエは困惑し、尋ね返した。

「殿下、どうかなさったのですか」

「そうだな。どうかしたかと問われれば、どうかしているのだろう」

 投げやりな言葉の後で、カレルは大きくかぶりを振った。


 いつもの明朗さが影を潜めているのはやむを得まい。

 今日の面会がカレルにとって気鬱なものであることは、アロイスに言われるまでもなくマリエにもわかっている。

 まして相手はカレルと同い年の十八歳、多感な年頃の婦人だ。そして妃候補となる貴族令嬢でもある。先方はカレルに気に入られようとしてやってくるのだろうし、そんな相手に対してどう接するか、年若いカレルが頭を悩ませるのも無理はない。

 しかしそんな時だからこそ、あえてカレルには胸を張って欲しいとマリエは思う。

 ルドミラは才媛と呼ばれているそうだが、聡明さで言えばカレルとて劣ってはいないはずだ。風貌には隠しきれない気品も覗き、背筋さえ伸ばせば王子としての風格は申し分ない。近侍としての贔屓目かもしれないが、少なくともマリエはそう思っている。


 だがそんなマリエの思いをよそに、カレルは大袈裟な仕種で頭を抱えだした。

「どうも、頭が痛い」

「お風邪をお召しになられたのですか」

 ぎょっとしたマリエは、すぐさま寝台へと駆け寄る。

 すると寝そべったままのカレルが、近侍へちらりと視線を投げる。

「そのようだ」

 とカレルはもっともらしく続けた。

「それと寒気もする。これは風邪かもしれぬな」

「まあ……。先程まではとても元気でいらしたのに」

 頭を悩ませていただけではなく、体調まで崩してしまうとは。マリエの胸に不安が過ぎれば、カレルは呻くような声で続ける。

「何やら熱もあるようだ」

 忠心に篤いマリエは、その言葉にすっかり色を失くした。

「殿下、失礼いたします」

 白金色の前髪をそっと払い、主の額に手を当てる。

 カレルは一瞬びくりとしたものの、何も言わずにされるがままだった。横たわったまま、ただじっとマリエを見上げていた。カレルの頬は赤々として、確かに熱があるように見えていた。

 しかし直に、マリエは首を傾げた。手のひらを当てた先は熱くもなく、自らの手よりも冷たいほどだった。

「お熱があるようではございませんが……」

「ある。間違いなくある。お前は私の言うことが信じられぬと申すか」

 途端に語気を強めたカレルは、残念ながら病人には見えなかった。マリエはむしろその言葉の後に、初めて疑念を抱くに至った。

「殿下が嘘をおつきになるなど、よもや思いもいたしません」

「そうであろう」

「ええ。お優しい殿下のこと、まさかわたくしを欺かれることは決してなさいませんでしょう」

 マリエは手を離し、揶揄するように告げる。

 するとカレルは跳ね起きて、居心地悪そうにマリエを見やった。

「……私とて、お前に嘘をつくのは心苦しい」

「嬉しゅうございます、殿下」

 マリエが心から微笑むと、カレルはついに観念したようだ。

「熱があるというのは嘘だ。風邪など引いてはおらぬ」

 白状してみせた後、苦々しく続ける。

「しかし具合も悪くはなる。何と言っても今日のことが憂鬱で堪らぬのだ。どうにかしてあの、何とか言う女と会わずに済む方法はないものか」

「ルドミラ様でございます、殿下」

「名前などどうでもよい」

 カレルはカフスをつけないシャツのまま、手をひらひらと振ってみせる。

「どうせ他の女と一緒だ。花のことや着るもののこと、宝石のこと、あるいは他の者の噂話なんぞが大好物で、それ以外の話でもしようものならたちまち気を逸らしてしまう面倒な連中だ。ああいう手合いが私は一等苦手で仕方がない」

 どこかで聞いた言い回しだと思いながらも、マリエは胸中でカレルに同意を示した。


 カレルに会いに来る令嬢たちが好むのは、得てしてそういう話題だった。花や着るもの、宝石、或いは社交界の噂話――それらは彼女たちにとって興味深い話題なのだろうが、何より当たり障りのない、相手を傷つけることのない話題でもあった。教育が行き届いた令嬢たちはそのことをわかっているからこそ、カレルの前でカレルの好まない話題を続けたがる。

 しかし、カレルの好む話は違う。

 花はあの日摘んだ花以外興味を示そうともしないし、着るものに関してはこだわりもなく、宝石に至ってはまるで頓着しないという有様だ。室内にこもって他人の噂話をするよりは、陽光の下へ飛び出し、身体を動かしている方がよいという。話の合わない相手とひとときを過ごすのは、確かに気が重いことに違いなかった。


 何より、不毛だというアロイスの言葉も的外れではない。

 令嬢たちが幾度足を運ぼうとも、カレルの心は今、他の者へと向いている。一方で令嬢たちの多くには自らの意思などなく、家の者の望むがままにカレルの元を訪れていることも暗黙の事実だ。

 日頃カレルの懸想ぶりを目の当たりにしているマリエにとって、誰かがその心を揺るがすのはなかなか難しいことに思えた。

 相変わらず、マリエはカレルの想う相手を知らない。

 だがいつか、カレルが想う相手と、自らの好む話を交わし、嬉々としている姿を見てみたい。少なくとも今のように、物憂い顔ではしていないだろうから。


「約束を断ることはできぬのか」

 マリエの思索をよそに、カレルは面倒くさそうに言い出した。

「気乗りがしない。どうせつまらぬ話だけで時間を潰すのだから、お互いに会わず、他のことでもしている方がよほど有意義ではないか?」

「ルドミラ様を始め、来訪する皆様は殿下に是非お会いしたいと思っているはずです。それに一度は約束なさっているのですから、お守りになるのが筋でございます」

 マリエはとうとうと言い聞かせたが、主はそれが気に入らなかったようだ。

「端から好き好んで交わした約束ではない」

 ますます頑なになって、カレルは抗弁する。

「向こうがどうしてもと言うから時間を作ってやったまでだ。ならば、作ってやった時間をこちらがどうしようが構わぬだろう」

「お言葉ですが、殿下。人の信を得るならば、一度交わした約束を破るようではいけません。たとえどんなものであれ約束は守り、皆が互いに信じ合ってこそ、人と人との繋がりは維持されていくのでございます」

 と、マリエは諳んじるように言った。

 それを聞いたカレルは愕然と目を見開く。

「随分と大仰な物言いだな。それは真にお前の言葉か」

「いえ、これは『求婚入門』という本に記されていたものでございます」

「求婚!」

 カレルが声を上げたので、マリエは身を震わせた。

 だが驚きはカレルの方が強かったようだ。焦りを滲ませた問いが告がれた。

「なぜお前がそのような本を。まさかどこぞの者に求婚でもされたと……」

「い、いえ、わたくしは全くもって無縁でございます。あくまでも殿下の御為、お役に立てるかと思いまして目を通した次第でございます」

 いつものようにマリエは答える。

 ちなみに先に諳んじた一文は、夫婦関係を円満に続けていく為の助言、という項目に存在していた。

「とてもためになる本でございました。よろしければ殿下もお読みになってくださいませ」

「要らぬ、求婚などと気が早い。そもそもできるかどうかもわからぬのに――ともかくだ」

 ぶつぶつと早口にひとりごちた後、カレルは話題を戻す。

「マリエ、お前は私に、私の意に染まぬようなこともなせと申すか」

「……それは、わたくしも、殿下のお気持ちを尊重したく存じます。ですが」

 そこで言葉を切ると、マリエは口ごもった。

 立場を思っても、カレルの胸中を思っても、あまり強くは言えまい。しかし約束を破らせてしまっては、それこそ信にかかわる。カレルは王位を継ぐ身だ。誰にも信ぜられ、誰にも慕われる存在でなくてはならなかった。

 寝台に腰掛けたカレルが、マリエを注視している。

 何を言うかを待っているようだ。

 その態度に主からの信を感じ取り、マリエはより胸を痛め、思案を巡らせた。だがどうしても主の思いを裏切らずに済む進言は浮かばなかった。

 やがて、苦し紛れに主を呼んだ。

「……殿下、お願いいたします」

 縋る思いでそう告げた。

 カレルは、それだけであっさりと諦める気になったようだ。見守るマリエがはっとするほど、一瞬にして顔つきが変化した。何もかもを呑み込む大人の面持ちで口を開く。

「わかった。約束は守ろう」

 そうと聞いた瞬間、マリエも実に安堵した。

「殿下、ご立派です」

「そうでもあるまい。やむなく守ってやろうと思っているのだからな」

 カレルが自嘲気味に言うので、すかさずマリエはかぶりを振る。

「いいえ、立派でいらっしゃいます。殿下は大人になられました」

 近頃たびたび感じていることだ。やはりカレルは、もう少年ではない。いつまでも子供でいるはずはなく、日に日に成長しているのだと強く実感した。

「その口ぶり自体が子供の扱いのようだ」

 鼻を鳴らしたカレルは、ふと思いついたように眉を顰める。

 ややもせず、再び表情を変えた。今度は見違えるほどに明るい表情となり、マリエを見た。

「マリエ。お前はつい先程申したな。約束は決して破らず、守るべきものだと」

 怪訝に思いつつ、マリエは頷く。

「仰る通りです、殿下。確かに申し上げました」

「ならばお前も、人と交わした約束は必ず守るのだな?」

 次にそう問われた。

 訝しさは深まったが、正直に答えた。

「もちろんでございます。わたくしも約束を交わすことがあれば、必ず守る所存です」

「私との約束でもか?」

「殿下との約束事であれば、何を差し置いても守りましょう。わたくしは決して、殿下を裏切るような真似はいたしません」

 忠心をもって、マリエは朗々と答えた。

 するとカレルは堪らなく満足そうに笑んだ。

「今の言葉、しかとこの耳で聞いたぞ。ではマリエ、私と先日交わした約束のことを覚えているか?」

「約束、でございますか」

 何のことか、とっさには浮かばなかった。

 困惑するマリエを見て取り、すぐにカレルが溜息をつく。

「お前のことだから忘れているのではと思っていた」

「申し訳ございません、殿下」

「まあよい」

 そうしてカレルは声を潜めて、囁いた。

「……芝居だ」


 瞬間、マリエの心臓が跳ね上がった。

 すぐに思い出せた。

 忙しない日々の中で記憶のかなたに追い遣っていた、悩ましい問題を。

 主への忠心と、近侍としての立場。板挟みの思いに答えは出ず、そうこうしているうちにカレルへと内心を打ち明ける機も失した。

 更には毎日の務めに追われ、悩んでいることすら忘れかけていた――決して忘れてはならぬことだというのに。


 思い出した途端、マリエは頬が熱を持つのを自覚した。

 だが、今こそ注進すべきと口を開く。

「殿下、それはその、いささか難しいことだと存じます。近衛の皆様の目を盗むのは――」

「よもや、私との約束を反故にするとは申すまい?」

 語気を強めて、カレルはマリエの弁解を制する。その顔には凛々しい会心の笑みが浮かんでいた。

 マリエは言葉に詰まる。

「約束だ」

 既に少年ではない王子が、ゆっくりと繰り返す。

「誓って、私は必ず果たしてみせる。お前も約束を必ず守れ。そして次こそは忘れぬように、ここで誓え」

「殿下……」

 言われてマリエは俯いた。

 立場を弁えるなら誓えるはずもない。しかし約束を守れと先に説いたのはマリエだ。そしてカレルは、マリエが約束を守ることを望んでいる。

 芝居のことは、固辞すべきと思っていたはずだ。

 だが自分がここで頷けば、カレルも少しは明るい気持ちでこれからの時間に臨めるかもしれない。

 だが、もしそれでカレルが町行きを実行に移したらどうするのか。結局は誓いを破るのと同じことではないか。

 だが――マリエは、件の芝居に心惹かれていた。カレルがその話を持ちだしてきた時、胸が躍る思いで聞いていた。そしてカレルが自分を守ると言ってくれた時、罪悪感の裏で別の思いを抱いていたはずだ。

 拒みたくない。その時、マリエはそう思った。

 そのくせ無性に気まずく、気恥ずかしく思えて、消え入りそうな声で応じた。

「……誓います、殿下」

 答えてしまってからにわかに後悔した。

 こんなことを言ってよいのだろうか。言ったからにはカレルは必ず実行するのだろうし、もしそうなったら自分は誓約に従い、付き従わなくてはならない。もしそうなったら、マリエはカレルを守れるだろうか。

 近侍の葛藤をよそに、カレルは満ち足りた様子で深く笑んだ。

「よい答えだ。これでいくらか気分もよく、今日をやり過ごせるというもの」

 そして気が抜けてしまったマリエに対し、上機嫌でこう命じた。

「では客人の為、もてなしの準備を進めるように。手抜かりでもあっては、他でもないお前に恥を掻かせてしまうからな」


 覚束ない足取りで廊下へ出たマリエは、近衛兵の怪訝そうな視線に見送られ、ふらふらと厨房まで歩き始めた。

 混乱の極みにある頭は、それでもかろうじて、客人の為にお茶の支度をしなければと考えていた。茶器一式を磨き、茶葉を検め、それから――。

 ようやっと、とても重大な事柄を失念していたことに気づいた。


 石窯に放り込んでいたクルミのケーキのことだった。

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