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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
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誓約(1)

 その日、マリエは朝から仕事に追われていた。

 いつもよりも念入りにカレルの居室の掃除をした。お茶菓子もいつもより多めに拵え、次々と石窯へ放り込んだ。カレルの好きなクルミのケーキも忘れずに用意した。焼きたてのものを持っていけば主の機嫌もよくなるだろうと踏み、一番最後に焼くことを決めていた。

 そして最後の菓子を焼いているその間に、城の庭園まで駆けていき、見映えのよい花をたっぷりと摘んできた。


 花を抱えて廊下を駆け戻れば、主の居室の前では近衛隊長アロイスが待ち構えていた。

 息を弾ませるマリエを手招きすると、声を落として告げてきた。

「マリエ殿、先程から殿下があなたをお探しです」

 アロイスが顔を顰めたので、マリエも戦々恐々と聞き返す。

「殿下は、ご機嫌を損ねていらっしゃいますか」

「もちろんですとも。あなたが退出してから既に六度、どこへ行ったのか、いつ戻ってくるのか、どこかで見てはおらぬかと我々に繰り返し尋ねておいでです」

 アロイスはわざわざ指を折り、マリエに見せつけるように示した。

「本日は我々も、普段より多く警護に人員を割いております。これから最後の作戦会議もありますし、殿下のご用事にまでは手が回らぬ状況です」

「それは、失礼いたしました」

 マリエは慌てて詫びた。

 朝から慌しく仕事に追われたせいで、普段よりも主と顔を合わせる時間が少なかった。だが朝食はもう食べ終えた後で、着替えも全て用意を済ませたはずだ。昼間のこの時頃に呼びつけられる用に心当たりはない。

 いや、なくはない。マリエは心中密かに息をつく。

「早く行って差し上げてください。本日の殿下は、大変機嫌を損ねておいでだ」

 近衛隊長は険しい面持ちでマリエを促した。そしてマリエが頷くと、片眉を上げて不遜に続けた。

「もっとも、殿下のお気持ちも理解できなくはありません。本日は不毛な相手と、実に不毛な時間を過ごさなくてはならないのですから、ご機嫌がよろしいはずがない」

「……アロイス様」

 選ばれた者しか立ち入れぬ領域とは言え、城の廊下には他の近衛兵も控えている。アロイスの軽率とも思える発言に、マリエは咎めずにはいられなかった。

「これは失礼。殿下のご心労を思うあまり、口が滑りました」

 アロイスは悪びれたそぶりもなく首を竦める。

 そして花を抱えたマリエの為に、主の居室の扉を開いてくれた。


 カレルは応接間ではなく、寝室にいた。

 寝台の上に横たわり、両手両足を投げ出して、天蓋を睨みつけている。

「殿下、遅くなりまして申し訳ございません」

 恐る恐るマリエが発した言葉にも、すぐには反応しなかった。深い溜息をついた後、身も起こさずに返答した。

「どこへ行っていた」

「はい、お茶菓子を用意して、その後にお花を摘みに行っておりました」

 花を抱えたマリエが、叱責を恐れつつも答える。

 途端にカレルが跳ね起きた。

「……花だと?」

 上体を起こしたカレルは、ようやくマリエに目を留めた。そしてその手に抱えた花々を認めるや否や、不機嫌さを更に募らせた。

「その花をどうする気だ、マリエ」

「殿下のお部屋の、花瓶に活けるのです」

「誰がそんなことを許した。勝手な真似をするな」

 カレルが眉を吊り上げ噛みついた。

「花なら既に、この間摘んだものを活けてある」

 確かに、応接間に置かれた花瓶には花が活けられていた。

 数日前の夕刻、カレルはマリエを伴って、城の庭園まで散歩に出かけた。アロイスの勧めで自然に親しむという目的の下、二人で心ゆくまま花を摘み、そしてあずまやからの夕景を眺めた。

 その時の花は、今日までずっとカレルの居室の花瓶に活けられていた。

「お言葉ですが、殿下」

 弁解の為にマリエが切り出すと、カレルは刺すような眼光で睨みつけてきた。

「言い訳など聞きたくもない」

 たちまち縮み上がったマリエは、弱々しくなった声で続ける。

「その……この間殿下が摘んでくださったお花は、既に萎れ始めております。元気のよいお花を生けた方がよろしいかと思ったのです」


 あの時の花は、花瓶の中で揃って項垂れている。花の命は短いものとはまさにその通りで、美しい花も数日過ぎれば花びらは落ち、萎れてしまうのが当然だった。

 しかしどういうわけか、カレルは花瓶の花を換えることを許してはくれなかった。見映えが悪いとマリエが気を揉んでも、決して花を片づける命令を与えなかった。

 普段ならば主の言うことは絶対であり、マリエもカレルの気が済むまでと思っていたのだが、今日ばかりはそうもいかない。

 今日は、カレルを訪ねてくる客人を迎えなくてはならない日だった。

 カレルの機嫌が悪いのも、要はその客人のせいだった。


「見たところ、さして違わぬではないか。ならぬと言ったらならぬ」

 カレルはマリエの摘んできた花を一瞥し、鼻を鳴らした。

 ここで更に機嫌を損ねては、客人を迎えるどころではなくなる。マリエは必死になって訴えた。

「殿下、お許しください。本日は殿下が客人をお招きになられたのでしょう。見映えをよくしておかなくては失礼に当たります」

「見映えが悪いか、あの花は」

 ありありと苛立ちを覗かせ、カレルが聞き返してくる。

「それはその、摘み立てのお花と比べてしまえば……」

「比べなければよい話だ」

 にべもない主の言葉に、マリエの方が萎れそうだった。

「どうしても、換えてはなりませんか」

「ならぬ」

「殿下……」

 マリエはもう言葉も継げず、懇願の眼差しをカレルに向けるばかりった。

 その視線をどう受け取ったのか、カレルはきまり悪そうに視線を外す。白金色の髪を無造作に掻き回しながら、ぼそぼそとぼやいた。

「なぜそこまでして花を換えたがる。あの花には意味があるのを忘れたのか」

 意味。告げられた言葉に、マリエは思わず目を見開いた。

 その反応を見てたカレルが、力なく肩を落とす。

「本当に忘れているようだな、マリエ」

「そのようなことは……もちろん、殿下が摘んでくださった意味深いお花であることは存じております」

 すかさずマリエは知っていることを答えたが、そんな物言いはかえってカレルの機嫌を損ねただけだったらしい。大きな嘆息が寝室に響く。

「やはり忘れているか。お前がそれほどに物覚えの悪い人間だとは思わなかった」

「申し訳ございません、殿下」

 マリエは訳もわからぬまま詫びた。花については先に答えた以上の意味を知らず、そうとしか言えなかったのだ。

 仕事に関しては物覚えがよい方だと自負していたが、言われてみれば近頃は他に気がかりなこと、気に病むことも多く、うっかり失念しまうことも何度かあった。あの花についても、何か失念していることがあるのかもしれない。ちょうど今は、もうじきここを訪れる客人の件で頭がいっぱいになっている。

「殿下のお気持ちはもちろん、尊重して差し上げたいのです」

 マリエは眉尻を下げながらも切り出した。

「ですが、人にこのお部屋を見せるのであれば、不備のないように誂えておかなくてはなりません。もし至らぬところがあって殿下に恥を掻かせたのでは、わたくしも申し訳が立ちません」

 近侍の責任は重大だった。カレルはマリエの振る舞いに寛容な主だが、客人はマリエの手腕をも厳格な観察眼で見るに違いない。この居室の隅々を、お茶菓子の出来を、近侍としてのふるまいを、つぶさに見ていくに違いない。

 もし客人の顰蹙を買う失態でもあれば大事となる。

 何せ、今日の客人とは――。

「なるほど。お前の言い分も、得心できるものではある」

 懇願が功を奏したか、カレルはマリエの進言を受け入れる気になったようだ。まだ顰めた顔のまま、しかし声音は穏やかに続けた。

「お前の目が行き届いていないなどと、他所の人間に思われるのも不快だ。好きにするがいい」

「ありがとうございます、殿下」

 マリエも胸を撫で下ろす。摘んできた花が無駄にならずに済んだことに安堵していた。

 しかしそこで、カレルはごく平然と命じた。

「では、新しい花瓶を調達してくるように」

「お言葉ですが、花瓶でしたらとうに、あちらにございます」

「あちらに置いている花は花瓶ごと、こちらの寝室へと移す。お前が摘んできた花は違う花瓶に活け、向こうへ置くのだ。いくら何でも寝室まで覗かれる心配はないだろう、どんな花を置いていても文句は言われまい」

 カレルは何が何でも、庭園で自ら摘んだ花を捨てたくはないようだ。マリエは唖然とし、思わず尋ねずにはいられなかった。

「殿下はあの花を、そこまでして取っておきたいとお思いなのですか」

「ああ」

 表情を物憂げに翳らせ、カレルは小さく呻く。

「たとえお前が忘れてしまって、覚えているのが私だけだとしてもだ。あの花は、思い出深い」

 苦しげなその言葉がマリエの胸に突き刺さる。

 だが、自分が何を『忘れてしまった』というのか、とんと思い当たらない。

「わたくしは、先日のお散歩のことも覚えておりますが……」

 おずおずとそう述べれば、カレルは呆れたように再び寝台へ倒れ込んだ。

「忘れているではないか。もうよい、ひとまず花瓶を持て」


 マリエは駆り立てられるように主の居室を飛び出し、城内で花瓶を探し回った。

 ようやく目ぼしいものを調達して、戻ってきた頃にはマリエの息も上がっていた。カレルの居室の前に控える近衛兵が、マリエへと同情半分、呆れ半分の視線を向けてくる。

「殿下はよほどご機嫌が悪いのでしょうな」

 アロイスの苦笑いに対し、マリエはもはやたしなめる気も、反論する気も起こらない。

「何せ本日のお相手、ルドミラ嬢はかなりのやり手――もとい、才媛と伺っております。殿下には、あしらうにも荷の重い相手となりましょう」

 そう語るアロイスは普段の軽装鎧ではなく、赤い詰め襟の制服を着ていた。客人を迎える時にのみ着用する騎士団の正装だった。


 マリエはルドミラという貴族令嬢について、多くを知らない。

 建国の歴史にも名を連ねる、由緒正しい名家の令嬢であることと、それゆえにカレルの妃候補として名前が挙がっていること、そして随分前からカレルへの拝謁を熱烈に望んでいた令嬢のひとりであること――知り得ているのはその程度だ。アロイスが語った噂については真偽の程を知らず、それはお目にかかればわかることだと頓着するつもりもない。

 ただ、おぼろげにだが察していた。

 未だに明かされないカレルの想い人とは、ルドミラのことでもないのだろう。

 マリエはカレルの心中を思い、密かに胸を痛めていた。

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