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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
16/103

緑色の

 太陽が傾き始める時分、日の光もこっくりと煮詰めたような色をしていた。

 生垣をめぐらせた広い庭園は、午後の日差しに照らされてより一層鮮やかに見えた。敷き詰められた一面の緑色の芝生に、彩りも美しい花々が咲き乱れている。


 マリエはカレルと共に、庭園の片隅で花を摘んだ。カレルの居室の内装に合わせて、白や淡い水色の花を選んだ。強い西日と暖かな風の中、摘み取った花々はほのかによい香りを漂わせていた。

「蕾の花はなかなかないものだな」

 庭師から借りた鋏を手に、カレルが唸る。

 花に親しむことがあまりないせいか、きれいに咲いているものを見ればすぐに摘みたがる。色とりどりの花が揺れる庭園は、カレルにはさながら宝石箱のように見えるのだろう。瞳を輝かせて花を摘み回っていた。

 お蔭でマリエは大きな花束を抱える羽目となった。初めのうちは夢中になるカレルを微笑ましく思っていたものの、花束が次第に量と重さを増すに従い、さすがに主へ声をかけた。

「殿下、程々にしておきましょう。活ける花瓶がなくなってしまいます」

 しかしカレルはどこ吹く風で目を細めた。

「何、花が余ったらアロイスの居室に届けてやればよい。あれは花に明るいようだからな」

「お言葉ですが、とうにそのくらいは摘んでおります」

 そろそろ両手でも抱えきれなくなってきた。あまり力を込めれば潰れてしまうから、慎重に持たなくてはならない。

「これだけ活けたら花瓶が引っ繰り返ってしまうことでしょう。何事もほどほどがちょうどよいのでございます」

 マリエがやんわり告げると、カレルも納得したか、笑いながら頷いた。

「確かにそのようだ。では花摘みは終わりにしよう」

 鋏をしまい、立ち上がる。

 花を抱えたマリエも身を起こし、辺りを見回して目を眇めた。

 木々の梢をかすめる午後の太陽は、芝生の上に秀逸な切り絵のような陰影を作る。庭園には目映い光が射し込み、全てのものを等しく、こっくりと色濃く見せていた。カレルの白金色の髪も、その髪にそっと寄り添う小さな花びらも。

 花だけではなく、ここにあるものは何もかもが美しかった。

「今日は風が暖かい」

 ふと思いついたようにカレルは呟き、それから傍らのマリエに尋ねる。

「お前は寒くはないか、マリエ」

「はい、殿下。今日はとても過ごし易い日でございます」

 マリエは素直に答えた。

 それでカレルも気をよくしたか、その顔に満面の笑みが浮かんだ。浮ついた眼差しを少し離れたあずまやへ向ける。

「ではあちらで少し休んでいく。ついて参れ」

「かしこまりました」

 歩き出すカレルの背を、マリエもためらわず追い駆けていく。摘んだ花束を抱え、緑色の風景の中を、足早に。


 石造りのあずまやは、強い日差しを遮るのにちょうどよかった。ほとんどが蔦に覆われて、柱も屋根も青々としている。中には長椅子が用意されており、カレルは埃を払うこともなく無造作に腰かけた。

 マリエは花を抱えたまま、主の傍らに控えた。小高いところに立つあずまやからは庭園が見渡せるようになっていたから、カレルの視界を遮らぬよう、主の斜め後方に立っていた。

「どうした、お前も座れ」

 カレルが振り返り、マリエを気遣った。

「たっぷり歩いて疲れたであろう。座って休むがよい」

 長椅子の座面を叩いて示す。そこには確かに、二人が並んで座れるだけの広さがあった。

 だが、マリエは微笑んでかぶりを振る。

「いえ、お気持ちだけで十分でございます、殿下」

「昨夜はあまり寝ていないのではなかったか? いいから、少し休め」

「お言葉を返すようですが、畏れ多いことでございますから」

 マリエに固辞する以外の選択肢はない。このあずまやはマリエのような身分の者が使うことを許されていなかった。

「私の命令が聞けぬのか」

 たちまち機嫌を損ねたカレルが、不満そうに促してくる。

「座れ」

「殿下、無理を仰らないでくださいませ」

 すっかり大人になってしまったのかと思えば、こうして聞き分けのないことを言い出すこともある。しかもカレル自身に悪気はなく、純粋な厚意からの言葉だからこそ、マリエにとっては悩ましい。

 むしろ、精神的に成熟したからこそ発揮された思い遣りなのかもしれない。近頃のカレルはマリエに対し、優しい労わりや気配りを見せるようになっていた。元より心優しい主ではあったが、そう実感する機会がとみに増えたように思う。

「人目については大事になってしまいます」

 そうマリエが言葉を返せば、カレルは憤然と顎を反らした。

「人目だと? この庭のどこに他の者がいる」

 夕暮れの風が吹く庭園は静かだった。花も緑も波打つように揺れている。二人のいるあずまやからは、誰の姿も見えない。

 だが、

「近衛の皆様が……」

 マリエが声を潜めた通り、この庭園は二人きりの空間というわけではなかった。

 マリエがカレルに対してそうしたように、近衛兵たちもまたカレルの視界に入らぬよう、庭のあちこちに控えて警護をしている。常に不測の事態に備え、鋭い視線を絶えず辺りに走らせているのが離れていてもよくわかった。

「あの連中のことは気にするな」

 カレルは造作もなく言い切った。

「よもやお前に対して、不敬だの何だのと文句をつけてくることもあるまい」

 カレルの言葉も、まさにその通りなのだろうとは思う。

 アロイスが昨夜言ったように、近衛兵たちからすれば、マリエは特別な従者に当たるのかもしれなかった。事あるごとにカレルの温かい心遣いを受け、優しく労われ、こうして傍らにいることを許されるばかりか、隣り合って座ることさえ許そうというのだから。

 特別。

 マリエには、その言葉こそが重い。

 守りたいのだと言われた時、とっさに否定の言葉を口にできなかった。そのことがマリエの中で今も尾を引いていた。いかにカレルが親しげに接してこようと、最も近しいところにある従者であろうと、やはり特別であってはならないのだと思う。

 だがそうなると、どうしても主の優しさを拒むことになる。

 そのことがマリエには苦しかった。

「殿下、わたくしはお気持ちだけで……」

 答え終わるか終わらぬうちに、カレルが視線を逸らした。庭園を眺めやりながら深い溜息をつく。

「そうか。融通の利かぬ奴だな、お前は」

「……申し訳ございません」

 マリエは俯き、両手に抱えた花束を見た。

 白や淡い水色の花々は、そ知らぬふりで風に揺られ続けている。


 じりじりと日が暮れてきた。

 空は次第に茜に染まり、庭園の風景が様変わりを始める。緑色の芝生が、青々とした葉を広げた木々が、彩り豊かな花々が、どれもゆっくり熟していくように深く色づいていく。風も次第に強く吹きつけ、漂う花の香を掻き乱す。

 庭園は静かだった。風の音と、揺れる木々の音しかしない。カレルもマリエも黙り込み、同じ方向を、同じ景色を眺めている。カレルは長椅子に腰掛けて、マリエはその傍らに立ち尽くしたままで。

 同じ景色を見ていても、目に映るものは違うのだろうとわかっていた。マリエの目に、ここに差し込む日の光は強すぎて、眩むような景色だった。美しいのに、この上なく美しいのに、じっと見つめ続けているのは困難だった。

 カレルの青い瞳には、この庭園はどんなふうに映っているのだろう。

 マリエには推し量ることもできない。同じところに隣り合って座り、同じ景色を共に眺めることは叶わない。カレルの目にどんな景色が映っているか、マリエが知ることは永遠にないのだろう。

 夕風が吹き抜けていく。

 陽光を浴びるカレルの髪が、芝生と同じように美しく光り波打つ。


 唐突に、またしても溜息が聞こえた。

「人目か」

 カレルの呟くような声も聞こえてきた。

「では次は、人目を忍ぶようにしよう」

 マリエの耳にもそれははっきりと届き、何のことだろうと目を瞬かせれば、長椅子のカレルがこちらを振り返る。

 先程まで不機嫌そうにしていた顔に、今は青年らしい控えめな笑みが浮かんでいた。

「マリエ、お前は例のことを調べたのであろう」

 そしてカレルはそう尋ねてきた。

「例のことと仰いますと……」

「逢い引きだ」

 その言葉を口にする時、カレルにも若干の照れが窺えた。

 そしてマリエは、申し訳なく思いながら答える。

「昨晩調べはしたのですが、未だにはっきりと理解はしておりません。申し訳ございません、殿下」

「そうか」

 カレルは意に関せず頷き、マリエから視線を外す。

 端整な横顔が、どこか面映そうに庭園を見渡している。薄い唇が微かに動き、声はごく小さく、マリエにだけ聞こえるように告げてきた。

「私は、逢い引きとは、こういうものだと思う」

 その言葉に、マリエは思わず主の横顔を凝視した。

 まだ照れの残る顔が、それでもためらわずに続ける。

「逢い引きとは、話す内容が重要なのではない。たとえ何も話すことがなくても、共に時を過ごすだけで、それは十分に逢い引きらしいと言えるはずだ」

 それからカレルは目の端で、ちらりとマリエを窺い見た。

「今はとても、逢い引きらしい過ごし方だと思わぬか、マリエ」

「え? いえ、あの」

 急に息が詰まり、マリエは返事を途切れさせる。

 思ってもみないことだった。ややうろたえながら、何とか続きを口にした。

「それはその……そうだとすると、大変畏れ多いことでございます」

 従者として正しい答えを述べたとマリエは思う。

 しかしカレルは落胆の色を隠さず、微かな苦笑を唇に過ぎらせる。

「……お前はとことん融通の利かぬ奴だ」

 風に掻き消えそうな弱々しい呟きと、どこか苦しげに歪められた横顔。それらを認めた時、マリエもにわかに切なさを抱いた。

 近侍としての本分を守れば、主の意に沿わぬこととなる。かといって思い上がった振る舞いをすることは許されない、決して。

 どうあるのがよいのか。

 どうあることが、自分と、忠誠を誓うカレルの為によいのか。

 今のマリエは、その答えを持ち合わせていなかった。


 ただ、カレルの横顔を見つめるうちに、ふと素直な気持ちが込み上げてきて、知らず知らずのうちに口をついて出た。

「今が、逢い引きらしい時間だと仰るなら――」

 そこでカレルが振り返る。二人の視線が緩く結ばれ、絡まり合う。

「逢い引きとはとても優しく、穏やかなものでございますね」

 もしこれが、このひとときが逢い引きだというのなら、マリエにとっては生まれて初めてのことになる。

 初めての逢い引きがこんなにも優しく、穏やかな時間だったなら、さぞかし幸せなことだろう。静かな庭園に二人、夕暮れの色に染まりゆく風景を眺めている。手には美しい花束を抱え、特に言葉は交わさなくとも、互いに満ち足りた心でいる。言葉を探す必要もなく、沈黙さえ楽しめるこのひとといは、間違いなく幸せな時間と呼べるだろう。もし、逢い引きだったなら。もしも――そうであってくれたら。

 しかしそうと認めることは、立場を思えば決して許されない。

 だから胸中はおくびにも出さず、控えめに告げた。

「逢い引きのことを教えてくださり、ありがとうございます、殿下」

 長く息をついたカレルが、ゆっくりと頷いてみせる。

 何も言いはしなかったが、赤い夕日に染められた横顔は和らいでいた。


 いつしか、庭園から緑の色は消えていた。

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