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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
13/103

冷静沈着(1)

 ランタンの炎が大きく揺れて、マリエは思わず面を上げた。

 辺りを見回しても他の人の姿はなく、かえって背筋がぞくりとする。真夜中の静かな書庫に一人きりのはずだが、どこかから気配がしたように思え、マリエは開いていた書物に視線を戻す。


 こんな夜分遅く、黴臭い書庫に好きこのんで籠もっているのはマリエくらいのものだ。ここ数夜は書庫通いを再開し、調べ物に没頭していた。

 今宵もカレルは既に就寝し、マリエにはわずかな自由時間が許されている。今日も働きづめで疲れてはいたが、主のことを思えばまだ休む気にはなれなかった。一刻も早く寝床に潜り込みたいのを堪えながら、机へ向かい、本のページを繰り続けていた。

 読んでいたのは『求婚入門』という本だ。冒険者にして学者でもある著者が、旅の間に見知った古今東西の求婚のしきたりや作法をまとめた一冊だということだった。

 実のところ、求婚よりも先に逢い引きの作法を知りたかったマリエだったが、城の書庫には『求婚入門』こそあれど『逢い引き入門』などという本はない。書棚に並んだ本はほとんどが古い稀覯書で、歴史的及び文化的には貴重なものながら、新しい知識を得るには全く不向きだ。城下町には書店があり、そこでなら当世流行の恋物語も手に入れられるのだろうが、町まで出ていく暇はなく、使いを出して買ってきてもらうのも恥ずかしい。

 書庫を一通り探し歩いたマリエは、求婚と逢い引きには通ずるものがあるはずだと、『求婚入門』を読み始めた。逢い引きを重ねていった先に求婚があるものなのだから――マリエにも、その程度の知識は既にあった。その程度に留まっていることが問題だった。


 また、ランタンの炎が大きく揺れた。

 再びぞくりとして面を上げると、今度ははっきりと人の気配が感じられた。暗い書庫にもう一つの明かりが現れ、大柄な人影が踏み込んでくる。

「こちらでしたか、マリエ殿」

 名を呼ばれたマリエは目を凝らすと、壮年の男がこちらに近づいてくるのが見えた。長身かつ屈強な身体つきのその男は、足音が静かで、歩き方にもまるで隙がない。

「アロイス様? どうして、こちらに?」

 書庫を訪ねてきたのは近衛兵を統べる隊長、アロイスだった。

「当直を終えたところです。用があり、あなたを捜しておりました」

 マリエの傍まで近づいてきたアロイスが、穏やかな笑みを向けてくる。

 近衛兵はアロイスを筆頭に、眼光鋭い剛健な男たちの一団だった。城内でも常に帯剣し、鎧に身を包んだその姿は総じて近づきがたい緊張感を醸し出していた。

 しかし武装を解き職務を離れた今のアロイスは、歳相応に温厚そうな雰囲気を身にまとっていた。刈り込んだ褐色の髪を無造作にかき上げ、ランタンに照らされた表情は普段よりも優しく映る。

 マリエは珍しいものを見るような思いで彼に尋ねた。

「一体、どのようなご用でしょうか」

「ええ。隣、よろしいですか」

 アロイスが、脇に置かれた椅子を指し示す。マリエが顎を引くと、すぐにそこへと腰かけた。マリエが座った時よりも大きな音を立てて椅子が軋んだ。

 長い脚を持て余すように座るアロイスを、マリエは落ち着かない思いでそっと窺った。三十をとうに過ぎた男と二人、こうして夜遅くに人気のないところで隣り合っているのは、マリエのような娘には慣れないものだった。

 しかしアロイスの方は平然とした様子で、目が合うなり優しく微笑んだ。そしてはっとしたマリエに対し、抑えた声で切り出した。

「用というのは他でもない、カレル殿下のことです」

 その名前を出されれば、マリエの背筋も自然と伸びる。

「殿下がどうなさったのですか?」

「いえ、今ではありません。近頃の殿下についてです」

 宥めるようにアロイスはかぶりを振る。

「あなたもお気づきかと思いますが、近頃のあの方はどうもご様子がおかしい。何か抱え込んでいらっしゃるように私には見えるのです」

 マリエはぎょっとした。

 ひとまず動揺を悟られぬよう、ぎこちなく相槌を打った。

「……ええ、そのようです」

 城内の他の者からも、既に何度となく尋ねられていた問いだ。はぐらかすことには慣れているつもりだった。

「やはり、あなたもご存知でしたか」

 アロイスは厳つい顔に安堵を滲ませた。

「兵たちも皆、案じております。殿下のご様子が妙であると。不意に顔を赤らめたり、ぶつぶつと独りごちてみたり、急に機嫌を損ねたかと思えば、子供のようにしょげ返ってみたり、挙句の果てには誰が声をかけても気づかぬほどに物思いに耽ったりと……明らかに不審でいらっしゃる」

 何とわかりやすい態度なのだろう、マリエも内心嘆息する。

 居室の中でのカレルも同じようなものだったが、外でもそんな振る舞いをしているのなら問題だ。このままでは懸想を潜めておくどころではなくなる。折を見て注進しなくてはならないだろう。

「一体どうなさったのか、我々にはまるで解せません。とんと心当たりもない」

 アロイスが首を捻り、それから何気なく目の前の机上に視線を向けた。

 マリエもつられて手元を見やり、そこに開かれたままの本が――『求婚入門』があることを思い出し、今更のようにぎくりとする。

 何を読んでいたのか、アロイスに知られると面倒なことになる。何せこの話の流れだ。マリエはその本を閉じようと、目立たぬように手を伸ばした。

 ちょうどその時、

「マリエ殿」

 彼がマリエに目を向けた。

「は、はい」

 マリエはすぐさま手を引っ込め、恐る恐る近衛隊長を見返す。

「あなたはご存知なのですか? 殿下が何を思い煩っていらっしゃるのか」

 アロイスは至って穏和に畳みかけてくる。

「ご存知なら私に教えていただけませんか。あの方が何に悩み、心煩わされていらっしゃるのか。あの方をお守りする私には、あの方の心配の種をも取り除く義務がある。そう思うのです」

 だがマリエは、答えに窮した。


 何せマリエは知っている。

 事の次第を当のカレルから聞かされている。他言せぬようにと命ぜられた経緯がある。当然、誰にも打ち明けることはできない。

 だが、アロイスの物言いにはどこか有無を言わさぬ調子があった。表情とは裏腹に、眼光だけが鋭く、尋問するかのようにマリエを見据えている。上辺だけの言葉ではぐらかしても、そうたやすくは引き下がらないように思えた。


 開きっ放しの『求婚入門』も気にかかったが、マリエはひとまず彼の問いに答えた。

「わたくしは、存じません」

 答えを聞き、アロイスは意外そうに笑った。

「本当に?」

「ええ。わたくしを疑っておいでですか、アロイス様」

 機嫌を損ねたように装いながら尋ね返すと、アロイスはやんわりかぶりを振る。

「そうではありません。ただ、他でもないあなたにも、殿下について知らぬことがあるのだなと驚いたまでです」

「当然のことです。わたくしは一介の従者でございますから」

 マリエはそう答えたが、つい最近まではアロイスと同じように思っていたのだった。

 カレルについて、知らぬようなことがよもやあるだろうかと。

 何から何まで知り得ているものと思っていた。しかしそうではなく、今のカレルはマリエにも秘密を持っている。核心に近いところまでは明かされながら、最も重要で、重大な部分が潜められたままの秘密を。

「あなたは我々とは違う。我々よりも殿下のお傍に、近しいところにいる」

 気のせいか、アロイスは含んだような物言いをする。

 マリエはあまりよい心持ちがせず、粛々と応じた。

「とんでもないことでございます。わたくしと近衛の皆様との間には何の違いもございません。殿下にかしずく身であるのは同じはずです」

「そうでしょうか。あなたはその中でも特別であると、私は常々思っておりましたが」

 アロイスが薄く笑い、マリエは思わず口を噤む。

 特別。

 カレルも確かにそう言った。マリエは特別なのだと、あの時に言った。

 だが、マリエ自身がそれを自覚するのは驕りにしかならないだろう。そうであってはならない。近侍として分をわきまえなくてはならない。だからあの芝居の誘いも、はっきり辞退すべきだと思っているのだが――。

 マリエがうろたえたのを見て、アロイスはそこで首を竦めた。

「これは失礼。いささか不敬でしたか」

「……いえ、その。畏れ多いことでございます」

 追及されているような気分になり、マリエは椅子の上で身を引いた。

 その矢先、引いた肘が何か硬いものにぶつかった。

 ごとんと重い音がした時、マリエの顔は引きつった。卓上に開いたままだったあの本が、床に落ちた音に違いなかった。

「おや、マリエ殿。本が落ちましたよ」

 アロイスが席を立つ。日頃の鍛錬の賜物か、素早い動作で床に落ちた本を拾い上げる。マリエが声を出す暇もなかった。

 本を拾ったアロイスは、背表紙に印字された題名に気づいたようだ。にわかに眉根を寄せた。

「あ、あの、それは……」

 一層狼狽するマリエが口を開きかけると、アロイスが瞳を光らせる。

「これは? あなたが読んでいたものでしょうか」

「それはその、わたくしが、その」

「マリエ殿がこんな本を読まれるとは、何とも意外なものです」

「え、ええ。機があれば是非参考にしようと」

 苦し紛れの返答をどう見たか、アロイスは低い声でその言葉を繰り返す。

「参考、ですか」


 背筋が冷えるような、嫌な間があった。

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