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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
12/103

初めて(2)

 マリエはまず、書物で読んだ通りのことをカレルに語った。

「逢い引きの最も基本に忠実なやり方は、待ち合わせをすることでございます」

「待ち合わせとな」

 薄絹越しに、カレルの訝しげな声がする。

「はい、殿下。逢い引きをする場所を決めたら、その日、その場所の前で待ち合わせをするのでございます。決して遅れてはなりませんし、相手よりも早く着いていることが肝要と聞きました」

 そうは語りつつも、カレルを待たせること婦人がこの国にいるだろうかとマリエは思う。しかし何分杓子定規な知識では融通の利く解釈などできるはずもなく、そのまま告げた。


 話を聞いたカレルは、まず唸った。

「待ち合わせか。それはいささか難しい」

「一体、何が難しいと仰るのですか」

「まずこの部屋をいかにして脱出するか、それを考えねばならぬ」

「……脱出?」

 マリエはぽかんとした。言葉の意味がとっさに把握できなかった。

 何気ない調子でカレルは言い添える。

「人目を忍ばなくてはならぬからな」

 表沙汰にできぬ恋である以上、人目を避けるのは当然だろう。

 そうなれば、逢い引きの場もよく吟味して選ばなくてはならない。だが『脱出』とはどういう意味か。内心首を傾げながらも、マリエは話の続きに耳を傾けた。

「慎重を期すつもりで、私は脱出経路を考えていた」

 カレルは腕組みをしたようだ。薄絹に移る影の動きでわかった。

「そこで、窓から抜け出そうと思う」

 途端にマリエは思わず立ち上がる。 

「窓でございますか!」

「声が大きいぞ、マリエ。兵に聞かれる」

 強く咎められ、慌てて椅子に座り直した。

 だが驚きに打ち震える心は、すぐには静まらない。窓から脱出する気だとは。

「お、お言葉ですが、殿下……ここは三階です」

「そうだな」

「なのに、窓から抜け出すおつもりですか?」

「その通りだ。縄梯子を使えば容易い」

 カレルの口ぶりには不安など微塵も窺えない。マリエは肝を冷やした。

「いけません、殿下。殿下にもしものことがあっては、相手の方も嘆きましょう」

「相手? 誰のことだ」

「殿下の逢い引きのお相手、想っていらっしゃるご婦人でございます」

「……ああ」

 まるで忘れていたかのように、カレルは得心してみせる。

 時々噛み合わぬような会話になるのはなぜだろう、マリエは密かに訝しがった。

「かのご婦人の為にも、どうぞ危ない真似はなさらないでください」

「そうは申すがな、マリエ。そうでもしなければ近衛の連中の目を盗むことはできぬ」

 カレルはどうしても近衛兵の目につかぬところで逢い引きがしたいようだ。

 本来の意味では、逢い引きとは二人きりでするもの。

 書物にもそうあったから、マリエにもその心情はわからなくもない。だが近衛兵たちは常に命がけの覚悟でカレルの身辺を守っている。疎んじるのはよくないことだろう。

「近衛の皆様も一緒に、お出かけするのではいけませんか」

 おずおずとマリエは進言した。

 人目を忍ぶ必要があるにしても、近衛兵たちはその実力、資質共に選りすぐりの精鋭揃いで、当然ながら忠心も篤い。近侍のマリエと同様に、仕えるべき主の秘密は守るだろう。連れて行ったところでカレルの逢い引きの相手を詮索し、よそへ言い触らすような真似もしないはずだ。

 しかし、カレルは声に不機嫌さを滲ませ反論してきた。

「それでは逢い引きとは言わぬ。お前は本当に逢い引きの意味を知っているのか」

 その問いはマリエの耳に痛かった。素直に頭を垂れた。

「申し訳ございません。わたくしには本で読んだだけでございます」

「一体いかような本を読んだのだ。逢い引きについて、他には何を知っている?」

 カレルに問い詰められ、マリエは洗いざらいを打ち明ける。

「わたくしが存じておりましたのは、二人で待ち合わせて、どこかへ出かけてゆく行為そのものが逢い引きなのだということでございます」

「それは先程聞いた。他には?」

 続きを促され、マリエは以前読んだ書物の内容を記憶から手繰り寄せる。

「確か、出かけた先ではお二人で、たくさんのことを話すのだそうです」

「例えば、どんなことを話す?」

「ええと、お花のことや、ドレスのことや、宝石のことや、あるいは他の方の噂話などと聞いております。逢い引きの場ではとにかく暗い話や難しい話や、頭の堅いことを言ってはならないのだそうです。軽妙に、朗らかに、相手の方を楽しませるようにすること。そういうものだと存じておりました」

 もちろん、全てが読んで得ただけの知識だが、マリエはそういうふうに答えた。

 カレルが寝台の上で身じろぎをする。

「それで?」

「おしまいでございます。次の約束ができれば、逢い引きは成功と思ってよいのだそうです」

「それだけか?」

「それだけでございます」

 他にすることがあるのだろうかとマリエは思う。

 しかしカレルは物足りぬ様子を隠さなかった。

「今の話では、単に外へ出かけて話をしただけではないか。本当にそれでおしまいなのか。他にすることもあるはずだが」

「お言葉ですが、そのように本には記されておりました」

「かような逢い引きなど、楽しいものか?」

 カレルのその言葉には、マリエも同意を寄せたくなった。花や服や宝石や、あるいは他愛ない噂話などを交わして、楽しいものなのだろうか。本にはその通りに書いてあったとは言え、どうにも想像がつかない。

「そもそも話題がよくない。花や着る物や宝石のことなんぞ語り合って何が楽しい」

 興味なさそうな口調でカレルは言い、次いでおかしそうな笑い声を立てた。

「お前がかつて話してくれた、ケーキの焼き方や湿布の作り方などの方がよほど面白かったぞ。どうせするならああいう話がよい」

 だが当時、幼かった王子殿下はマリエの苦し紛れの話題を『つまらぬ』と一刀両断したものだった。カレルがそれを楽しい思い出として振り返っているのも、やはり大人になったからなのだろう。

「想う方とならば、どんな話題であろうときっと楽しいものなのでしょう。本にはそうありましたから、わたくしもそう思います」

 マリエは取り成すように告げた。

「殿下もその方との逢い引きであれば、どんな話をしても楽しいとお感じになるに違いありません」

「……なるほどな」

 腑に落ちた様子でカレルが呟く。

 だがその後で、どこか失望したように言ってきた。

「そういう楽しさはもう知っておるのだ。私はもう少し、具体的なところを知りたい」

「具体的と仰いますと……」

「そう聞き返してくる時点で、お前は逢い引きの何たるかをまるでわかってはおらぬ」

 鋭い指摘はまさしくその通りであり、マリエはぐうの音も出ない。

「も、申し訳ございません、殿下」

 やはり本で得た知識だけでは限界があったようだった。

 追い討ちをかけるようにカレルは言い放つ。

「まずは逢い引きについて、もう少し学んでもらわなければならぬようだ。そうでなければ話が進まぬ」

「はい……」

 項垂れながらマリエは思う。


 カレルの役に立ちたくとも、不勉強の身ではどうにもならない。

 本から得る知識だけでは限界があるのだろうか。それとも、城の書庫に眠る膨大な量の蔵書のその中に、マリエの得るべき知識が綴られた本が他にも存在しているのだろうか。

 マリエにとっては実地で学ぶことのできぬ事柄だ、どうしても書物に頼らざるを得ない。ともかくひたすら読み続けて、カレルの為になる知識を探し当てなければなるまい。

 そこまで考えて、ふと気づく。


 マリエは面を上げ、天蓋から垂れる薄絹越しに主を見やる。

「殿下」

「何だ」

 カレルが溜息と共に応じる。

「殿下は……逢い引きの何たるかを、もうご存知なのですか」

 その問いかけに対する返事には、わずかな、しかし不自然な間があった。

 主が何を思ったのか、表情は見えない。だが、聞こえてきた声は切なげだった。

「知っているからこそ、私はそれを望んだのだ」

 いつの間に主はそんなことを学んだのだろう。歴史の勉強と同じように、教師に習ったわけではないだろうに――呆然とするマリエに、カレルはもどかしそうに語を継ぐ。

「しかしそれを、今ここでお前に語り聞かせてやるつもりはない」

 冷たい通告だった。

「どうせまた、例の俗な本を読むのであろう。ならば自ら学べ。逢い引きの何たるかを知ってもらわねば、話が進まぬ」

 主からのすげない返事に、マリエは肩を落とした。知っているのなら教えてくださってもいいのに、などと不敬な思いが頭をもたげる。だがカレルはマリエにも勤勉であれ、怠けるなと言いたいのだろう。

「承知いたしました。刻苦勉励して参ります」

 マリエは深々と頭を下げると、叱られた気分で席を立つ。

 そのまますごすごと立ち去ろうとして、

「マリエ」

 カレルがふと、焦ったように名を呼んだ。

 同時に薄絹の隙間から腕が伸びてきて、マリエの手首を掴んだ。引き止めるというより、縋りつくように。手のひらが広く指が長い、じわりと熱い手だった。

 突然のことにマリエは硬直し、掴まれた手首を声も出せずに見下ろす。予想もしていなかった行動だった。

 かつて幼い主に袖を掴まれ、引き止められたことはある。だが今のはそれとは違う行動に思えた。大きな手に手首を掴まれたのは、初めてだった。

 やがれカレルもびくりとして、我に返ったようだ。

「……いや、違う。その、あれだ、挨拶をしていなかったから」

 歯切れの悪い口調で弁明すると、微かに震える手を離した。

 解放されたマリエの手が力なく落ち、閉ざされた薄絹の向こうで主は言う。

「長話に付き合わせたな。戻って休むがよい、マリエ」

「はい……」

 掴まれた手首に、熱っぽい体温がまだ残っている。マリエはその熱に眩暈を覚えつつ、訳のわからぬ思いで挨拶をした。

「殿下もどうぞ、ゆっくりお休みくださいませ」

「できるものなら、そうしよう」

 小さくぼやいたカレルには、夜通し考えたいことがあるのかもしれなかった。


 それにしてもカレルは、いつの間に逢い引きの何たるかを知ったのだろう。

 マリエの知らぬうちにカレルは成長し続け、主に知識の面で、とうに追い抜かされてしまっているようだ。マリエは年下の主に対し、少しの悔しさを覚えた。自分の方が年上だという意識は、もう持つべきではないのかもしれない。

 そして初めて逢い引きという行為に、強い興味を抱いた。

 それがどんなものか、ちゃんと知りたいとマリエは思う。まるで囚われるように強く思った。


 カレルに対し、聞き忘れたことがあるという事実に――芝居の件について尋ねるのを忘れたことについては、自室に戻ってから気づいたほどだった。

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