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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
11/103

初めて(1)

 近侍の一日を締めくくる務めは、カレルの寝室にあるランタンに、油を足しておくことだ。


「殿下、失礼いたします」

 二間続きの居室の奥の方、寝室の扉に声をかける。

 返事がないのを確かめてから、マリエは主の寝室に立ち入った。今日は剣術の稽古で疲れていたようだから、恐らくもう寝ついているだろうとは思っていた。

 案の定、室内の明かりは既に消えていた。マリエが自分のランタンを掲げると、寝室の奥には天蓋から薄絹が下りた寝台が見える。その薄絹越しには夜具が人を呑み込んだように盛り上がっているのは見えたが、白金色の髪の主の寝姿を確かめることはできなかった。

 寝台の脇机の上に、火が消えたランタンが置かれている。マリエは寝台に光がかからぬよう注意を払いながら、そのランタンに油を注いだ。

 そして足し終えたランタンの蓋を閉め、油壺の蓋もしっかりと閉ざしたところで、不意に寝台が軋む音が聞こえた。カレルが夜具ごと寝返りを打ったようだ。

 マリエは急いで寝室から出ていこうと、自分のランタンを持ち上げる。

「……済んだか、マリエ」

 その時、寝台から声がした。

 驚きのあまり身を震わせたマリエに対し、カレルは薄絹を自らの手で開くと、眩しそうに目を細めてみせた。

「申し訳ございません。お休みのところ、お邪魔をいたしました」

 マリエは慌ててひざまずく。

 だがカレルは半身を起こし、どこか自嘲気味に笑ってみせた。

「いや、違う。今宵は眠れなくてな……お前が入ってきた時から起きていた」

「まさか、昼間のお傷が痛むのでは……」

「それも違う。そもそもこの程度の傷に、お前は騒ぎすぎだ」

 昼間の稽古で作った傷はまだ赤く残っている。半日やそこらで跡形もなく治ってしまうはずがない。それはわかっているが、マリエは案じずにはいられなかった。

「殿下の端整なお顔に傷が残っては、一大事でございます」

「何だ、それは。誉めているつもりか」

 カレルは照れ隠しのように鼻を鳴らす。それからおどけて続けた。

「それに傷がある方が箔がつく。いかにも歴戦の戦士のように見えるであろう」

「殿下は、戦士ではございませんでしょう」

 マリエは生真面目に応じる。

 昼間の記憶が胸裏に強く焼きついていた。正視に堪えないほど緊張で張り詰めた中庭の光景と、それでも目にした時に惹きつけられたあの横顔。

 そして、守りたいと言われたその言葉もだ。

 異性からあんな言葉をかけられたのは初めてだった。マリエはその響きに呆気なく酔わされ、あの時は否定することすらままならなかった。

「昼間も言ったはずだ。私は……お前を守る為なら、剣を取る」

 カレルは自らに言い聞かせるように呟く。

 だがそれは間違いだとマリエは思う。守られるべきは自分ではない。そして、自分が主に守られる機会など、断じて作ってはならない。

「……殿下」

 マリエは膝をついたまま、寝台の主に呼びかけた。

 薄絹を開くカレルは目が冴えた顔でマリエを見下ろしている。

「どうした、マリエ」

 優しい声で聞き返され、一瞬だけ決心が鈍った。

 だが、言わなければならない。

「実は、伺いたいと思っていたことがございます」

「奇遇だな。私もお前に聞きたいことがある」

 マリエの言葉に、カレルが少し笑う。

「今宵はそのことを考えていたのだ。お前に明日、何と尋ねようかと」

「あ……でしたら殿下の方から、お先にどうぞ」

 気勢を削がれたマリエは、話の順番を主に譲った。

「では、少しだけ私の話に付き合えるか、マリエ」

「かしこまりました、殿下」

「疲れているだろうに……感謝する」

 カレルは一度目を伏せると、寝室に置かれていた一脚の椅子を指し示した。

「長くなるかもしれぬ、椅子を引け」


 脇机に置かれたランタンの光が、寝室をぼんやりと照らしている。

 カレルは寝台に上体を起こし、枕を背にして座っている。マリエは寝台の傍らに椅子を引き、薄絹越しに主の姿を見つめていた。

「こうしていると、昔を思い出すな」

 静かな夜に合わせるように、カレルがそっと口を開く。

「お前が城に上がったばかりの頃、よく寝る前の話をねだったものだ」

 マリエが近侍として仕え始めた当時、カレルは乳母から引き離されたばかりの寂しい子供だった。乳母がそうしてくれたからと、マリエに対しても寝る前にお伽話を聞かせるようねだってきた。

 だが幼いマリエは、お伽話なるものをろくに知らなかった。マリエの母親は厳格で、マリエには何より早く一人で寝つけるようにと教育を施した。無論、寝る前に話をしてもらった覚えもない。

「それでお前が語り聞かせてきたのは、上手いケーキの作り方やら、湿布の作りかたやら、鉤裂きの繕い方やら……面白みのない話ばかりだった」

 カレルが喉を鳴らして笑うので、マリエも恥じ入りつつ微笑んだ。

「申し訳ございません。あの頃のわたくしは今以上に無知でございました」

「気に病むな。あれはあれで楽しかった」

 ランタンの柔らかい光の中、今宵のカレルの語り口は穏やかで、どこか大人びているようだった。マリエの謝罪を笑い飛ばした後、静かに、長い息をつく。

「あれから……随分と経ったな」

「はい。殿下はすっかり大人になられました」

 寝る前の話をねだられなくなってからは、一体どれほど経っただろうか。こうして主の寝室に入り、寝台の傍に椅子を引いて二人で話をするのも、前がいつか思い出せぬほど久方ぶりのことだった。

「お前に、聞きたいことがある」

 カレルがそう続けて、マリエは居住まいを正す。

「何なりと、殿下」

 何を聞かれるのか、まるで察しがつかなかった。明日を待たず、わざわざ夜のうちに引き留めてまで切り出される話だ。もしかすれば重大な内容かもしれない。

 もしそれが――先日語られた芝居についての話なら、マリエにも言うべきことがある。

 だがまずは主の話の続きを待とう。マリエは唇を結んだ。

 カレルは言葉を選ぶように間を置いてから、

「お前は近頃、例の、俗な本とやらを読んでいるのか」

 身構えていたマリエをきょとんとさせることを口にした。

「俗な……?」

「例の、くだらぬ知識ばかりを仕入れてきた書物のことだ」

「ああ、あの本のことでございますか」

 カレルに想う相手がいると知らされた日から、マリエは城の書庫で読書に励んでいた。カレルの為に役立てようと、さまざまな恋の物語や手練手管について、綴られた本を読み耽った。だが元より経験もなく、知識も乏しいマリエのこと、そうして得た知識が上手く身につくはずもなかった。ましてやカレルの役に立つこともまるでなかったように思う。

 それで挫けてしまったというわけではないのだが、ここ数日は書庫から足が遠退きがちだった。マリエ自身が物思いに耽っていたからだ。

 カレルが教えてくれた芝居のことを、手が空いた時にふと考えるようになっていた。カレルがそれに、マリエを連れていくと言ってくれたことも――特別だ、と言ってくれたことも。

「申し訳ございません、殿下。この頃はあまり……」

 マリエが素直に詫びると、カレルは気にしたそぶりもなく応じた。

「そうか。ならば仕方あるまい」

 それからわずかに躊躇した後、

「ところでお前は、逢い引きなるものを知っているか」

 その単語はやや照れながら、ためらいがちに口にされた。

 思わずマリエも目を瞬かせる。

「あ、逢い引き……でございますか」

 マリエにとってもその単語は縁遠く、そして大人めいた艶っぽさを帯びていた。聞き返す時に面映ささえ覚えたほどだ。

「そうだ。どのようなものかは知っているか」

「もちろん存じております。お二人でどこかで連れ立って出かけられたり、どこかで会って話をされることでございましょう」

 知っている通りに答えたマリエに対し、カレルが首を傾げたのが薄絹越しにわかった。

「その通りなのだが……お前が口にすると、どうも無味乾燥なものに思えるな」

 それから気を取り直したように続ける。

「これまで、どこぞの者と逢い引きをしたことがあるか、マリエ」

「いえ、ございません。その、書物で読んだのみでございます」

 城勤めの日々は多忙であり、出会いもなく、逢い引きをする暇も機会もまるでない。マリエ自身、これまで誰かと逢い引きをしたいと望んだことはなかった。

「そうか。そうであろうな」

 いたく納得したようにカレルは言った。

「私もある程度のことは知ってはいるが、細かい作法や流儀などなかなか学ぶ機会もない。そこで、お前に尋ねたいのだ。お前の思う逢い引きとはどんなものか。どんなものを理想の逢い引きと呼ぶのかを」

 そう告げられ、マリエは驚いた。即座に問い返した。

「殿下……もしや、逢い引きをなさるおつもりなのですか」

 それは無論、かねてより打ち明けられていた『かの婦人』となされるものだろう。

 問いの直截さに、カレルは一瞬怯んだようだ。しかし深く息を吸い込み、やがて意を決したように答える。

「そうだ」

 力強い答えを聞き、マリエの胸には不思議な思いが湧き起こった。


 潮が満ちるように、穏やかに確信していた。

 ――殿下は本当に大人になられたのだ。

 断片的に語られるカレルの懸想は切なく、深刻で、残酷でもあった。

 はっきりとは語られなかったものの、カレルが想う相手が身分の低い婦人であることはマリエも察していた。当然ながら叶えようのない想いであり、たとえ相手の婦人が同じ想いを抱いていたとしても、妃として迎えることはできないだろう。

 それでも、それをわかっていてもカレルは、その想いを諦められないようだ。きっとマリエには想像もつかない深く熱烈な思慕を抱いているのだろう。だからこそ逢い引きという単語を口にして、せめてそれだけでも叶えようとしているのなら――マリエの心は切ない痛みと、主への憐みに揺れた。

 今のカレルならば、逢い引きの場でも相手の婦人を楽しませ、喜ばせることができるだろう。逢い引きの時は素晴らしいものとなるだろう。

 不敬には違いない羨望と、ほんの少しの物寂しさを抱きながらも、マリエはカレルの成長を喜び、そして寿いだ。


「殿下。わたくし、必ずや殿下のお力になります」

 マリエは椅子から身を乗り出し、寝台のカレルへと語りかけた。

「殿下が想う方と素晴らしい時をお過ごしになれるよう、わたくしも尽力いたします。どうぞ何なりとお申しつけくださいませ」

 忠心を込めた言葉は、しかし肝心の主にはいまいち伝わらなかったようだ。

 薄絹の向こうで、深々と溜息が響いた。

「……案の定、そういう解釈をしたか」

 なぜか落胆された気配を感じ取り、マリエは恐る恐る尋ねる。

「殿下、わたくしに何か、至らぬ点がございましたか」

「まあよい。ともかく、お前の知り得る限りのことを聞かせてもらおうか」

 噛み合わぬやり取りは一方的に打ち切られ、釈然としないマリエをカレルが促す。


 仕方なしにマリエも些細な疑問は打ち捨てた。

 そして主の期待に応えるべく、頭を捻り始めた。

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