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懸想する殿下の溜息  作者: 森崎緩
懸想する殿下の溜息
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運命の日

 溜息をつき、おもむろにカレルは言った。

「マリエ、お前に話しておきたいことがある」

 いつになく重々しい主の声を聞き、マリエはその面前にひざまずく。

「何でございましょう、殿下」

 近侍として、王子であるカレルの身の回りの世話をするのがマリエの仕事だ。城に上がってから既に十年が経っていたが、その間一日たりとも休むことなく務めを果たしてきた。

 だが今日、いつものようにカレルの居室を訪ねたマリエに、カレルは務めの全てを差し置くように言った後、切り出した。

 ――話しておきたいことがある、と。


 マリエにとってのカレルは、絶対の忠誠を誓う主だ。

 カレルはこの小国を治める国王陛下の唯一の御子であり、目下唯一の王位継承者でもある。

 王族には近侍と呼ばれる側仕えが宛がわれるのが決まりで、マリエはカレルが八つの頃から近侍として傍らに仕えていた。三つ年下のカレルに対し、マリエは揺るぎない忠誠心と深い慈しみの両方を抱いて今日まで付き従ってきた。


 そのカレルのいつになく思い詰めた表情を、マリエは怪訝に思う。

 黒い瞳でじっと注視すれば、その視線さえ恐れるようにカレルは目を背けた。

 端整では繊細そうな王子の面差しは、常に厳粛な顔つきの国王陛下とはあまり似ていなかった。白金色の髪も美しい青い瞳も、王族ではカレルだけが持ち得ているものだった。だがその顔に、今は深い懊悩の影が差している。

 カレルは近侍を見ぬまま続けた。

「今からお前に告げることは、私と、お前だけの秘密となる」

 静寂が支配する室内に、囁きのような声が溶けていく。

 過ごし易いように誂えられた王子の居室は、いつ何時も手抜かりなく、隅々まで近侍の気配りが行き届いていた。カレルにとっても一番居心地のよい場所のはずだったが、今はたびたび足を組み替えては腰かけた椅子を軋ませ、実に落ち着きのないそぶりだった。主と近侍が二人きりでいる部屋に、かつてない緊張感が満ち満ちている。

「決して他言してはならぬ。お前の胸の内に収め、誰にも口を滑らせぬよう、重々留意するように」

 言い含めるカレルの表情は陰鬱だった。何かを胸に巣食わせて、ただそれのみに囚われているような憂慮の顔だ。

 十八歳の王子から幼さが掻き消えた瞬間を、今まさに、マリエは目の当たりにしていた。


 まだあどけないばかりの少年だと思っていた。

 カレルの傍らに仕えた十年のうちに、マリエの心中には主に対する忠誠の念が深く根づいていた。一国の王子として臣民の期待と重責を担うカレルの為に、せめて普段の生活においては思い煩うことのないよう、一心に働いてきたつもりだった。マリエの働きはカレルの信頼を得る結果となり、ふたりは主従として密に関わり合ってきた。

 だから、この度のカレルの言動はマリエにとって光栄なことのはずだった。他の誰にも告げられぬ秘密を、自分にだけは打ち明けると言うのだから。忠心に報いる、この上ない信頼の証だ。

 だが。

「……はい、殿下。仰せの通りにいたします」

 ゆっくりと頷くマリエは、内心で察していた。

 これから明かされる秘密は、恐らくよい秘密ではないのだろう。

 主にとって物憂い事柄であるからこそ、近侍にだけは密かに打ち明けようと考えたのだろう。

 少年らしく快活な表情こそが殿下には似合う――マリエは常々そう思っていた。

 だから今、その面差しを占める影が何によるものなのか、不安と憂慮で胸がきりきりしてくる。だがマリエは主の為なら、どんな労も惜しむつもりはない。

 明かされる秘密について、自分に何かできることがあるなら、粛々とそれをなそう。

 カレルが口を開く前から、マリエは心の内で決意していた。


 近侍の気遣わしげなそぶりを認めたか、カレルはもう一度嘆息し、低く言葉を紡ぎだす。

「私も既に、十八歳となった」

 マリエの眼前でカレルは、少年とも青年ともつかぬ顔つきをしていた。

「この先のことについて考えるうち、一つ気づいたことがある。そしてそれを突き詰めようとすると気が滅入り、どうにもならぬのかと、溜息をつきたくなる」

「この先のこと、でございますか」

 問い返したマリエに、カレルは鋭い眼光を向けた。

「ああ。私は、私のなすべきを理解しているつもりだ。この先の未来において、私がどうあり、何をすべきか、覚悟もしている」

 カレルは幼いながらも聡明な王子だった。次代の王位継承者としての重責も理解しているのだろう。生まれながらにして全ての運命が定められ、全ての臣民に愛され、護られ、そして期待を負わされる。カレルはそういう立場にいた。

「しかし」

 と、またカレルが溜息をついた。

「私は、このところ、ある思いに囚われているのだ。この先のことを思う度、その思いが膨れ上がって胸を占め、私の思考をさらってしまう。そうして他のことは何も考えられなくなる。それではいけない、許されぬのだと思いながらも、気付けば囚われてしまう」

 そこまで主の心を捉えているものとは、一体何だろう。

 マリエは息を詰め、カレルの言葉を聞き逃さぬよう、身構えた。

「私は……」

 カレルがふと、声を途切れさせた。

 思案に暮れる表情、内心が、未だ揺れているのがわかる。しかし何に揺らがされているのか、何に惑っているのか、マリエには察することができずにいた。

 そうして一時、室内は水を打ったように静まり返った。


 居室の窓も扉も、固く閉ざされている。外からの音は何も聞こえず、二人が身じろぎしなければ空気さえぴたりと動かない。

 緊張に張り詰めた室内で、マリエは黙して語が継がれるのを待つ。

 ちらと、カレルがマリエを見た。顔色を窺うように目の端で、二度、三度と繰り返し視線を走らせてくる。

 近侍の様子が、あるいは反応がよほど気にかかるのだろうか。マリエもそわそわと落ち着かない心持だったが、やはり口は開かなかった。あくまでカレルの言葉を待ち続けた。

 やがて、

「マリエ」

 カレルが名を呼んできた。

 安堵と不安と緊張がないまぜになった心境で、マリエは恭しく頭を垂れる。

「はい、殿下」

 しかし後が続かない。聞こえてきたのは溜息だけだった。

 ためらうような間があって、室内にはまた沈黙が落ちた。

 マリエにとって待つこと自体に苦痛はない。だが強い不安には囚われていた。

 ここまでためらうほどの秘密とは何か。それを自分に受け止められるだろうか。きっと重大なことに違いない。もしかすると国家の存亡に係わるほどの――。

「マリエ、面を上げよ」

 再びカレルが声を発し、マリエはその言葉に従った。

 視界に、王子の緊張の面持ちが飛び込んでくる。青い瞳から向けられる眼差しは、射抜くほどに鋭い。形のいい唇は重たげに、ゆっくりと続きを紡いだ。

「私には、……想う相手がいる」


 確かに、重大な告白だった。

 マリエははっと息を呑み、眼前に座る主をまじまじと見つめた。その赤らんだ頬と逸らされた視線を見るに、告げられた言葉の意味を誤解することはなさそうだ。

 妙齢の婦人に該当するはずのマリエだが、長きにわたる城勤めの影響か、ことそういった事例には疎かった。単純に縁遠かったというのも一因だろう。事実、二十一にして未だ独り身、浮いた話の一つもない。

 そんなマリエを飛び越えていくように、この度のカレルの告白があった。三つも年少の主は『そういった事例』を身をもって体験しているのだろう。驚いた、というのが正直な思いだった。


 国王陛下、つまりカレルの父親たる人物には現在、王妃がいなかった。

 マリエが物心つく頃には既に存在していなかったらしく、マリエはその姿も、名前すら知り得ない。

 それゆえかカレルには日頃よりマリエに甘えるそぶりがあり、肉親に対するようにわがままを言ったり、畏れ多いほど親しげに接してくる。二人の仲睦まじさは『まるで姉弟のようだ』と周囲からも囁かれていた。

 主から寄せられる親愛の情を、マリエはこれまで恐縮しながらも受け止めてきた。求められるがままに慈しむのも近侍の務めと思っていた。

 それでも年頃となった今、カレルが他の婦人に目が向かない様子では困る。妃となる婦人が無事見つかればよいとかねがね思っていたのだが――いざ想い人の存在を告げられると存外に驚いてしまう。

 殿下が遂に、懸想をされるお年頃になったとは。

 次いで別の思いが過ぎった。カレルには身分と立場がある。その上で、想う相手がいるということは。許されぬことだというのは、つまり。


 カレルはマリエを見据えていた。

 握り固めた拳が小刻みに震えていたが、言葉は震えず、真っ直ぐに聞こえてきた。

「許されぬことも、わかっている。しかしどうしても、消し去り、封じておくことができぬのだ。私はこのことをお前だけに打ち明ける。だからお前には、私のこの想いを胸の内に留めておいて欲しい」

 そして驚きを隠さない近侍に対し、確かめるように尋ねた。

「これがどういうことかわかるか、マリエ」

「はい、殿下」

 マリエは首肯した。

「殿下が、どなたかに想いを寄せていらっしゃる。そういうことでございますね」

 その時、カレルが一瞬だけ奇妙な顔をした。眉を顰め、何か不足があるとでも言いたげに。

 しかし言及はせず、表情も直に戻った。

「そうだ」

 認めたカレルは、その後、意を決したように息を深く吸い込む。

 それから言った。

「それで、マリエ。お前は……その相手が誰かということを理解しているのか?」

 今度はマリエも頷けなかった。

 というのも、全く心当たりがなかったからだ。

 カレルが年頃とあってか、ここのところあちらこちらの貴族たちが挙って子女を会わせたがった。王子の妃には、家柄と資質の揃った令嬢こそが相応しい。王位継承者という立場からしても、カレルもいつかはその令嬢の中から一人、妃を選ばなければいけなかった。

 しかし口ぶりから察するに、カレルの想う相手はそういった令嬢たちではないのだろう。恐らくは身分の低い、あるいは貴族ですらない婦人なのだろう。立場を鑑みれば当然、許されることではなかった。

「申し訳ございません。わたくしには、わかりかねます」

 正直な答えは主を失望させたようだ。カレルはマリエを恨めしげに睨んだ。

「わからぬと申すか」

「はい……」

「そうか」

 唸るような声でカレルは言うと、しばし瞑目した。思案を巡らせているのか、唇をきつく結んでいる。

 不安の中で、マリエはカレルの言葉を待つ。

 役立たずの近侍と思われたのかもしれない。殿下の為、何を擲ってでも尽くし遂げようと思っていたのに。信頼に報いる忠心を、と胸の内で思っていたのに――酷く、悔しかった。

 やがて、カレルが何度目になるかわからない溜息をついた。

「では、もうよい」

 そう言って、目を瞠る近侍に命じる。

「下がってよいぞ、マリエ。この度のことはくれぐれも他言せぬように」

 拍子抜けするほどにあっさりと告げられた。

 マリエは困惑した。他にも用があるのかと思っていた。想う相手の為に何かをするから手を貸せと、命じられる覚悟までしていた。それが許されぬことであろうとも、マリエはカレルの意に沿うつもりでいた。

「は……はい、あの、よろしいのですか?」

 おずおずと問い返せば、また、カレルは嘆息する。

「もうよい」

 疲弊し切った声が更に続いた。

「……これ以上、何と言葉を重ねればよいのか、見当もつかぬ」

 その呟きも含めて、マリエには腑に落ちぬことだらけだった。しかし主の命はいつ何時も絶対だ。従わない選択肢はなく、恭しく場を辞した。


 カレルの居室を退出した後、マリエは改めて決意した。

 きっと殿下は、初めての懸想に戸惑っておいでなのだ。何をすべきか、何をすればそのお気持ちが晴れるのかをわからずにいらっしゃるのだ。

 ――この度の奇妙な、あっさりとした告白をそう結論づけた。

 ならば信頼に報いる忠心を。打ち明けられた秘密を守りながら、主の為に、なせることをなそう。近侍として、年長者として、何かできることがあるはずだとマリエは思う。

 思案を巡らせ、次になすべきを思いつく。自分に必要なものは何か。足りないものは一体何か。考えればすぐにわかった。

 知識だ。


 その日から、マリエは書庫通いを始めた。

 絶対の忠誠を誓うカレルの懸想に力添えができるよう、書物をひもとくことから始めた。

 相応の知識を身に着けるべく――歳の割に知識も経験も乏しいマリエにとって、これが出発点だった。 


 そしてその日から、運命は動き始めていた。

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