1・プレイヤーキラー
▼七月十九日 午前十一時 大田区某所
香取義博、職業・工場経営。負債総額二億。
涼原の報告書に書かれた数字を思い返し、恭一は深く嘆息した。
捜査用車の窓から外を眺める。
彼女の連絡先に書かれた住所は、町工場の密集地だった。景気対策が成功しつつあるとはいえ、いまだ中小企業には冷え込んだ空気が流れている。長い不況を吹き飛ばすような風は、未だ起きていない。
――家庭崩壊の危機、か。
煙草を車載灰皿に押し付け、心中で呟く。数字を見た瞬間、大まかな筋書きは想像できた。
だが、彼女の苦境が判明したところで何もできない。
恭一は経済や会社経営に関しては門外漢だ。世間の荒波に翻弄される少女の気持ちは心底からは理解できはしないだろうし、何の手も差し伸べられないだろう。
「どうしたんです?」
寧々子の声で思考が現実に引き戻される。彼女は既に合流し、助手席に座っていた。
「どこから話そうかと思ってな」
一晩かけて恭一はD案件に関する過去の資料を読める限り読んでいた。
結果、彼が下した結論はやはり「外部には絶対に漏らせない」という強い決意だった。
口惜しいが、涼原はあらゆる判断で間違っていない。
「なあ、君は悪魔って信じるか?」
だが、当事者に何も話さないわけにはいかない。結果、恭一は今件の概要と恭一の立ち位置だけに絞って明かす事にする。
ただし、彼の逮捕と出所に関しては後ろ暗いものがあるので『表向きの世界から姿を消す必要があった』と、荒唐無稽な設定を教えておいた。
静かに聞き入ったのち、彼女は小さく呟いた。
「悪魔、か。信じられないけど、本当なんですよね」
「そうだ。そして、もし他言したら、君だけではなく君の家族にも迷惑がかかるだろう」
「ふふっ、なんだかスパイ映画みたい。おかしいですよね、こんな状況なのに」
「おかしくはないさ。人間は異常な状況に置かれたら、逆に冷静になっちまう事もある」
「そう、ですか。あの、ところで……蓮華は見つかりましたか?」
「目下捜索中。だが、君がゲームで生き残りさえすれば、再会できる可能性もある」
彼は寧々子を生き残らせるために捜査の手を止め、ここまで来た。そろそろレクチャーを開始せねばなるまい。
「カネはそのバッグの中か?」
「はい。今のところ一千万円くらいあります」
寧々子がスポーツバッグの口を開けると、どっさりと札束が顔を覗かせた。恭一は新しい煙草に火を点け、静かに最初の教えを口にする。
「レッスン1だ。そいつはカネじゃない。カネと思えば、死ぬ」
カネだと思うから人はプレッシャーを感じる。
プレッシャーに負ければ正常な判断を失う。
正常な判断を失えば、その瞬間、死ぬ。
そして全ては失われる。桐崎彰のように。
「このゲームの本当の目的は生存だ。クリアでもカネ稼ぎでもない。敵を倒すより、自分が死なない事。危険を避け、とにかく生き残る。宝探しなぞ諦めちまったほうが良い」
宝箱を開けるのにも、モンスターと戦ってレベルを上げるにも、全てはリスクが付きまとう。
生き残るだけを考えれば『降り』の一択が正解だ。
「……稼いだら、駄目」
絞り出すような声で寧々子が呟く。
当然だ。到底飲める話ではないに違いなかった。
だが、恭一の言葉には続きがある。彼の選択肢に『降りる』などというものはなかった。
「稼ぐな、とは言ってない」
先程、涼原は言った。寧々子は裏切るかもしれないと。
彼女にはカネが必要だ。家族を救うために。
追い詰められれば恭一の指示を無視し、勝手に墓穴を掘り、事態を悪化させるかもしれない。
涼原が危惧していたのは、寧々子が暴走する可能性だ。
全てを秘密裏に処理しなければならないD案件の特性上、彼女を仲間に引き込むのは、懐に爆弾を抱えるようなものなのだから。
だが、恭一は問題ないと考えていた。
全てを駒とみなし、コントロールするのが涼原の仕事だ。故に、不安要素は極力排除しようとする。
だが自分の考えは違う。
「俺が教えるのは、稼ぎながら生き延びる。その方法だ」
恭一は、その不安要素さえも受け入れようとしていた。
情ではない、理の話だ。
寧々子は同年代の少女と比べて冷静で頭も切れる。
ゲーム中の死がプレイヤーの死であるデスゲームだといち早く見抜き、ランキングを確認して生き延びるしたたかさも持っている。
《DF》世界に身を置く協力者としてはこの上ない存在だ。
ならば、互いの利害を一致させながら協調すればいい。
「確か、アイテムは宝箱から手に入れるか、現金で購入するかだったよな?」
「武器や防具は拾うしかないですけど、消耗品は色々売ってるみたいです。役に立つかもわからない変なのもありますけど。
ゲーム中の自販機でアイテムを購入すると、目の前のおカネがパッと消えて……それで購入できちゃってるみたいです」
問いかけに対して、寧々子が頷くと同時に携帯電話を取り出した。
そのまま《DF》のアプリを起動する。
「レッスン2はゲーム画面を見ながらだ……って、どうした?」
視線を横にやると、寧々子が携帯電話を握ったまま硬直していた。
問いかけてみると、彼女は不安そうな顔を向け、声にならないような小さな声を漏らした。
「……バージョンアップ、って」
何か、嫌な予感がした。
「内容は?」
バージョンアップ。
不具合の修正などが主だが、時には機能の追加などがなされる。
恭一自身は最近のゲームはやらないが、大まかなところはゲーム以外のアプリと同じだろう。
「えっと、変更は三つあるみたい。まずは……『ボス討伐イベント』?」
寧々子の顔色が変わった。助手席から身を乗り出し、画面が恭一に見えるように手を差し出す。
最初の追加要素はゲームを盛り上げるためのイベントの告知だった。
かつて寧々子と蓮華を分断した1Fの階層主、《ネクロマンサー》の討伐が目的だ。
「ネクロ……マンサー……」
寧々子の頭に、腐敗した表皮と異形の六本腕を持った怪物の姿が蘇ったのだろう。苦い表情を浮かべていた。
《ネクロマンサー》が寧々子と蓮華を別ってから一週間と経っていない。彼女が平静でいられないのも仕方がなかった。
開催日は、来週の日曜日。
二十七日の午後零時から二時までの二時間。
イベントに参加したプレイヤー全員に特典が与えられるらしい。
ボスを撃破した場合、全てのプレイヤーは一週間の間、獲得する経験値とカネが二倍になるとの事だ。
「イベント、ってのはゲームとしては普通なのか?」
「ネトゲではよくある、かな。討伐のために人が一杯集まってお祭りみたいになるんです」
「……なるほど、な」
主催者の目的はわからないが、このクソゲームをゲームとして成立させたいのだけは理解できた。
動機などなく、ただの愉快犯の可能性も視野に入れておく。
「次は『ランキング機能の拡張』。死んだ人とは別に、生きてる人から上位五人がランキングに載るみたい」
他には、今後死者が出た場合、ゲームオーバーになる様を動画で見れるようになったとの事。
動画で確認できれば、危険への対策は取りやすくなるだろう。
「不謹慎だが有難……いや、待て」
だが、同時に疑問が湧く。違和感を覚える。
実際に人が死んでいる事を抜きにすれば、ランキングシステムはよくできていると思う。
恭一が子供の頃に夢中になった『不思義なダンジョン』や『FF6』では、初見殺しと言われる即死級の罠やモンスターが配置されていた。プレイヤーは殺されてから、改めて装備などの対応を練り、再び挑戦する。
そうやって乗り越えた時の快感はひとしおだ。
だが、キャラクターとプレイヤーが命を共有する《DF》では、『死に覚え』はない。
だからこそ代替として他のプレイヤーの死亡パターンを調べれるのだろう。
プレイヤーの知略と警戒心が試され、そこにゲームとしての面白さが生まれる。
――だが、おかしい。
それでは、ゲームが停滞してしまうのではないか?
寧々子のように賢い人間は他人の死亡パターンを予習してから攻略に挑むはずだ。
だが、賢い人間だけが残れば、誰もが動きを止める。
ゲームは停滞、もしくは停滞に準ずる状況になるはず。
主催者の目的は分からないが、そんな状況を喜ぶだろうか。
「何かが、ズレている?」
「……嘘っ! 何、これ」
恭一が口にしたと同時、寧々子が悲鳴混じりの声を上げた。
「どうした」と声をかけると、無言で携帯電話を差し出してくる。
そこには、恐るべき新要素が記されていたのだ。
――バージョンアップ情報3――――
新要素:PKが実装されました。
当要素により、プレイヤー同士での戦闘が可能になります。
プレイヤーを殺害する事で、所持金の半分と所持品を奪う事が出来、より多くの経験値も得られます。
――――――――――――――――
所持金の半分と所持品。二つの文言だけで、容易に危険は感じ取れた。
「マズいっ。すぐに動ける準備をしろ!」
何しろ、寧々子を除くほぼ全てのプレイヤーは、《DF》での死が現実の死に直結するのを知らないのだ。
一部の人間は嬉々としてPKを仕掛けてくるに違いない。
躊躇のない相手と正面から戦って勝つ見込みはゼロだった。
しかも、いまの《ネコ》はキャンプを張った状態だ。
完全な無防備、どうしようもない無抵抗。レッスンどころではない。
何があっても即応できる態勢を整えるのが先決だった。
「まだ無理です! アップデートデータのダウンロードが終わらなくて……!」
バージョンアップ情報の下では、黄色いバーが亀のようにゆっくりと伸びていた。
七十……七十五……八十……
八十五……九十……
そして、百。
バーが消えるなり、素早い操作で寧々子が『つづきから』を選択し、《DF》の世界へと潜り込む。
画面が暗転し、薄暗い地下迷宮が映し出される。
どうやら彼女は壁の横穴に潜り込んでいたのだろう。狭苦しい洞穴が視界の全てだった。
寧々子が画面をフリックし、視点を変える。とにかく外を確認せねばならなかった。
だが外の様子は、分からなかった。
分かる訳が、なかった。
何故なら――
狭い穴の出口、薄い光が漏れる穴の向こうでは――
人間の顔が外を塞ぎ――
ぎらついた双眸が――
じぃ……っと《ネコ》を眺めていたのだから。