5・水面下
▼十六時三十五分(約二時間前)
蓮華を討つために乗ったタクシーの中で、恭一の携帯電話が再び鳴っていた。
懐に収めていた通信機をバッグに詰め込み、電話を手に取る。
「お客さん。人気者ですね」
運転手が茶化してくるが無視してそのまま出る。
『なぜ電話を切った』
案の定、電話の相手は悪魔ニヒルだった。
取引とやらを聞きもせずに通話を切断したのを随分と怒っているようだ。
「悪魔の取引に応じる必要なんざないと思ったからだ。どうせ寧々子を殺せとかゲームの邪魔をしろとかそんな所だろう?」
ぶっきらぼうに言い放ちながら内心でほくそ笑む。
恭一は知っていた。ニヒルは追い込まれている。四層と五層を繋ぐ階段で、今までだんまりを決め込んでいたニヒルが介入してきたのが証拠だ。
悪魔が寧々子と蓮華を引き裂こうとしたのは、二人で組まれると迷惑だからに違いない。
裏切りと奪い合いのゲームに置いて最大の攻略法は、互いを信頼し合い協力することだ。
だが、普通はできない。欲と命を秤にかけられ、人間は正常ではいられないのだから。
信頼しあえば攻略が容易になるのに、信頼はできない。絶妙なジレンマに苛まれる人間を観察するためにニヒルは《DF》のルールを設定したのだろう。
だが、そのルールこそが今のニヒルを追い詰めていた。
蓮華ならともかく寧々子にクリアされる訳にはいかないからだ。
恭一にはニヒルの思惑の全てが理解できていた。
ニヒルにとって最後の手段は恭一を取り込む事。再び連絡を取ってくるのは確信していた。
――口先で勝負して俺に勝てると思うなよ?
交渉の基本は相手の足元を見ること。これから先良好な関係を築くつもりがないならなおさらだ。
『そう言っていられるのか? 今から貴様に重要な事を教えてやろう』
「涼原総真は悪魔だ、だろ?」
電話の向こうで相手が息を呑むのが聞こえた。
電子の悪魔に呼吸が必要なのかは分からないが、精神的ショックを与えたのは間違いない。
『いつから気付いていた』
「そんな事はどうでもいい。全部終わったらゆっくり説明してやる。重要なのは俺が今、涼原の命令を拒否できず、テメェも賭けに負けそうになってヒィヒィいってる事実だ」
恭一は涼原の悪魔能力により、彼の命令を拒否できない。
自分は間違いなく能力の支配下にいた。このままでは間違いなく蓮華を殺してしまうし、涼原の最期の目論見を止めることはできない。
追い詰められているのは恭一とて同じだ。
それでも気をしっかりと持たねばならない。悪魔は人間の心理的弱味を巧みに突いてくる。
相手に呑まれない為には自分がペースを掴むしかなかった。
「先に言っておく。そちらの要求は一切聞かない。どれだけ俺にとって有利であってもだ」
『そこまで理解しておきながら、どうして。交渉は決裂か。後悔するぞ』
「後悔はさせねぇさ。何故なら、お前はこれから俺の提案を呑むからだ」
きっぱりと断言すると、悪魔が唖然にとられた気配が感じ取れた。
『何を言っている? こちらに要求は述べさせず、一方的に自分の都合だけを押し付けるつもりか?』
「そうだ。だが、悪魔ニヒル。お前は絶対に断らない。いや、断れない」
不敵に笑い、自信満々に言い放つ。
《DF》事件の裏側で蠢く恐るべき陰謀を打ち破るための言葉を。
「悪魔ニヒル。今すぐ小鳥遊蓮華との契約を解除して俺と契約しろ。
願いは悪魔である涼原総真をぶっ殺す事。そしてその目的以外に能力と技術の一切を行使しない事だ」
『論外だ。おれと貴様が手を組んだところでいまさら何ができる』
だが、恭一の要求に対し、ニヒルの返答は冷淡なものだった。
『契約を解除しても《DF》は人死にの出ないゲームとして続く。
涼原の賭けの内容は、葛城恭一か香取寧々子がゲームを終わらせる、だ。契約そのものに関しては、おれと蓮華双方の合意があれば解除可能だが、無駄だ』
「それはどうかな?」
契約解除をすれば死人はもう出ないというのは僥倖だった。合意があれば契約解除が可能なのも。
「問題だ。悪魔と契約した人間は、どうなる?」
『契約した悪魔の力を行使する媒体となる。おれは蓮華を上手く騙して、彼女が能力を行使できなくはしたが、原則としてはこうだ』
「契約者の人格に影響は?」
『もちろんある。個人差はあれど、契約者は残忍さや凶暴さを得る。小鳥遊蓮華が親友を生贄にしようとしたように、彼女を守るためにPKを殺そうとしたように。
契約により精神と魂が悪魔と溶け合い、互いに影響し合うからだ』
「今、お前が言った台詞が答えだ」
口にした瞬間、ニヒルがはっと声を漏らした。
「00班が調べた過去の事例によれば、まるで別人のように変容してしまった契約者もいるらしい」
以前、蓮華本人も口にしていた。
悪魔と契約した人間は、大なり小なり心が変容する。
だから今の自分は小鳥遊蓮華に限りなく近く、少しだけ違う別人だと。
「ここで一つの道を提示してやる。俺とお前が契約すれば、俺は今の自分とほんの少し違う別人になる。そうなったら涼原の能力はどうなると思う?」
『分からない。だが、支配から抜け出せる可能性はある。おれも同じだ。
一度混ざった精神は契約を解除しても元には戻らない。コーヒーにミルクを混ぜてしまえば分離できないように。だが、お前と契約すれば……』
「どうする、悪魔よ。俺と契約するか座して死を待つか」
恭一が提示したのはあくまでも可能性だ。
涼原の能力が精神に影響する物ならば、精神そのものを変質させてしまえばいいという理屈からなるものだ。
だが、悪魔の能力に理屈が通用するかは五分と五分。決して高い勝機とは言えなかった。
「俺はテメェの提案には絶対に乗らない。そしてこのままだと俺達は百パーセント涼原に負ける。共倒れだ。
だが、俺の提案に乗ればゼロパーセントを五十にまでは上げれるぜ」
勝負師は決して一か八かの博打はしない。
運否天賦をどれだけ排除できるかが、勝てる者の条件なのだ。
もちろん恭一には五割を六割にする策があり、六割を七割にする切り札があった。
『面白い、面白いではないか。おれはね、人間が好きなんだ。それも、お前のような常軌を逸してイカれた人間が』
「ゴタクはいい。とっとと選べ。俺に賭けるか、そのまま諦めるか」
『いいだろう、契約だ。お前という最高の人間に敬意を表して、すべての条件を受け入れよう。
以前に幾度となく小鳥遊蓮華からは契約解除の申し出を受けている。ならば後はおれが受け入れるだけで貴様の思惑通りに行くだろう』
興奮した様子のニヒルが高笑いを上げながら言う。
『お膳立ては整った。さあ、見せてもらおうか。人間が成す悪魔殺しを!』