4・ヒトの逆襲
初めて人に向けて引き金を引いた。
正確には人ではないが、今まで人間として接していたのだから同じだ。
覆せない事実が恭一の手を震わせる。
恐怖でも罪悪感でもない。ただ不気味な胸の疼きだけが今の全てだった。
「人間が一番脆い瞬間を教えてやるよ。そいつは渾身の一撃を決め、勝利を確信した瞬間だ。どうやら悪魔も同じようだったな」
胸の鼓動を抑える為、倒れ伏した涼原に語り掛ける。火薬のにおいが酷く不快だった。
椅子の背もたれでぐったりした涼原を観察する。
眉間と心臓を正確に撃ち抜かれ、周囲に血をまき散らしている。従業員が来る気配はない。だが時間の問題だろう。
携帯電話を取り出し、登録された番号に発信する。
「やはり涼原は悪魔でした」
『こちらでもモニターしていた。しかし本当にD案件なんてオカルト事件があるとはなァ。世間ってのは広ぇもんだ』
電話の相手は恭一の元上司の田烏。定年退職した元一課長だ。
警視庁捜査一課は課長による完全スカウト制。所轄の刑事である恭一を見出し、無茶をする自分を随分と可愛がってくれた大恩ある男だ。
まさか定年後まで世話になるとは思わなかったが、今の警察内に仲間がいない恭一にとって田烏は最後の頼りだった。
『上の方にハナシはつけておいた。射殺は内々で処理されるだろうよ。派閥ってのはこういう時には便利でなァ。こんな時でも上層部では涼原さんの件をドロドロの政治闘争に発展させるだろう』
今になったからこそ理解できたが、公安所属になっても部下や相棒を付けられなかったのは、恭一を孤立させ涼原専用の駒として扱うためだったのだろう。
前課長がいなければ恭一はただの殺人犯になるところだった。
『だがこれが限界だ。化物に対抗する増援も送れなきゃ、援護の武器も渡せなかった。所詮俺はロートルだからな』
「十分ですよ。ありがとうございます」
悪魔たちの陰謀を打ち砕く最後のチャンスとして、彼に連絡を取るほかに手は残されていなかった。
先程までの涼原とのすべての会話はリアルタイムで録音・送信してある。
田烏の口添えと録音データがあれば恭一が殺人罪に問われる可能性は低いだろう。
『しっかし。お前も意地張らずに上手く世渡りしてりゃあそんな道には落ちなかったろうに』
「こういう生き方しかできませんから」
『強情を張るばかりが強さじゃねぇぞ。お前の強さは我儘と紙一重だ。そいつをそっくりそのまま受け入れちまうのは逃げでしかねぇんだ』
「逃げ、か。そうかもしれませんね。俺は強くなんかない」
自嘲しながら通話を切る。
何せ悪魔を一人撃ち殺しただけで手が震えそうになっているのだ。寧々子に言った「笑え」という言葉が妙に空虚に感じてしまう。
涼原の死体に目を向ける。
物言わぬ悪魔の亡骸は虚ろな目で虚空を見ていた。
「冥土の土産に色々と教えてやりたかったが、一秒でも早くあんたを始末しないとこっちがやられちまうんでね。悪く思わないでくれよ」
言いながら近づく。
今は悪魔ではあるが、人間の総真のために目くらいは閉じさせてやりたかった。
そっと顔へと手を伸ばす。
その時だった。
「ケチくさい事言わないで教えてほしいものだね。どうやって支配から抜けたのか」
脳と心臓を破壊されたはずの、間違いなく死んだはずの涼原が、恭一の右手首を握り締めていた。
「驚いたかい? けど、考えてみれば分かるだろう。十二年前、あの爆発事故で総真は死んだはずだった。死んだのに、生きていた。
そして《ネクロマンサー》討伐戦の際も、神経と腱が断たれたというのにこんなにピンピンしている」
迂闊だった。考えれば分かる事だというのに。
脳と心臓を撃ち抜けば普通は死ぬ。だが、目の前の男は人間の形をした化け物なのだ。
「まさか本当に奇跡を起こすとはね。それもまたニヒルとの戦いによって成長させた君の精神的強靭さによるものか」
額に小さな穴を開けた男が憎悪と好奇心をそのままぶつけてくる。
常軌を逸した圧迫感ではあったが、顔に出すつもりはなかった。
「俺は、強くなんかない。むしろ弱いだろうよ」
涼原や寧々子は恭一を強いという。だが、そんなものは勘違いだ。
恭一は、弱い。
剣道が駄目だった時、自分は女に逃げた。女が死んだら、次は仕事に没頭した。
そして仕事が駄目だった時、逃げ場所はどこにもなくなった。
がむしゃらにやってきたことは逃避の結果でしかなく、警察組織を追われたのも恭一に大人としての強さがなかったからだ。
「けど、強いフリをしねぇと、大事な奴に笑われちまうんでね」
凄まじい力で締め付けられ骨が悲鳴を上げる。激痛に叫び出しそうになるが歯を食いしばり、耐える。
痛みは怖くない。本当に恐ろしいのは喪失だ。
思い浮かんだのはもういない幼馴染と、そしてどういう訳か寧々子の笑い顔。
涼原を止めなければ、また罪のない誰かが犠牲になる。
――そんなのもう、御免だ。
瞬間。本能的に体が自動的に動いた。
開いた左手をポケットに突っ込む。即座にライターを取り出し着火する。顔面に向けて、投擲。
ブランデーでぐっしょりと濡れた涼原に炎の花が咲いた。力が緩み、後ろに退避し距離を取る。
右手の感覚がない。
銃は右ポケットの中だ。取り出せるとは思えなかった。
「どうして抗う。拳銃やちゃちな炎如きで私は殺せない。そして例え私を殺してもミサイルは落ちる。加速を終えたICBMはたとえ悪魔ニヒルと言えど止めようがないのだから」
炎を上げながら涼原が問いかける。全く堪えた様子はなかった。
「言っただろ。笑われたくないヤツがいるって」
どうしてだろうか。今度浮かんだのは幼馴染の麗の顔ではなく、寧々子だった。
虚勢と虚仮に塗れた恭一を必死に追いかけ、大切な友人を信じぬこうとした少女。彼女は真っ直ぐだった。そして強かった。
大切な者を信じ抜き、残酷な現実を受け入れ、それでも抗い続けた寧々子は、強い。
彼女の持つ強さは、恭一のような独りよがりの強さではない。誰かのための強さだ。
だからこそ彼女の持つ光と勢いに周囲の人々は巻き込まれ、変えがたい現実が動いていく。
寧々子を見捨てろと言われた恭一が命令に抗ったように。
悪魔の誘惑に負け、一度は寧々子を殺そうとした蓮華が再び味方に付いたように。
殺意と憎しみの塊であった黒羽が、最後は命を盾に寧々子を守ったように。
――あの子は、強い。現実を受け入れられなかった俺なんかより、ずっとずっと。
逃げ続けたことに後悔はない。
逃避も含めて、全部が自分の人生だったのだから。
「だから、俺は立ち向かう。未来の俺が、今立ち向かったことに胸を張れるように。誇りに思えるように。俺が尊敬するあの子に、笑われないように」
わずかに感覚を取り戻した腕を必死に操り、ポケットから拳銃を取り出す。そのまま左手に持ち替え全弾撃ち尽くす。右手がロクに扱えない以上、予備の弾を込められはしないだろう。
だが――
「無駄だ。無駄なんだよ! 例え燃やそうと、何発弾丸を叩き込もうと私は死なない。人間とは違うんだ。ミサイルを止めるのも、私を殺すのも不可能なんだよ!」
揮発したアルコールが燃えていたのは僅かな時間だけ。
鎮火したのちに現れたのは、無傷となった涼原だった。熱で歪んだ眼鏡を押し上げようとするが、しっくりこないようでそのまま投げ捨てる。
直後、頭をよぎるのは本能からの警告だ。
直感に従い床に伏せると、銃声が響き渡る。涼原が握り締めていたのは官給品の回転式拳銃だった。
右手は使用不可。銃弾も残っていなければ、そもそも銃は通用しない。
増援はなく、頼れる者も誰一人いない。
絶体絶命の危機の中、体を起こして駆け、バーカウンターの裏に飛び込む。
「おいおい、そんな所に隠れてちゃ破滅を見届けれないだろう? 私は君に絶望を与えたいんだよ」
「そいつはこっちのセリフだ」
カウンターに身を潜め小さく呟く。どうやら涼原にも声が聞こえたようで、困惑する気配が感じ取れた。
「よく考えてみろよ。あんたがニヒルに命令して、何分経った?」
「……っ!」
聞こえるような大声で告げた瞬間、涼原の口から声にならない声が漏れた。
「答えは、二十分だ。さっきテメェは何分でミサイルが落ちるって言ってたっけか?」
戦闘と緊張の連続で気付いていなかったようだが、既にミサイル発射を命令してから二十分近くが経っていたのだ。
「何故、だ。何をした……?」
初めて涼原から本心からの驚愕が漏れる。ざまあみろだ。
「さあ、ね。もしかしたらあんたは別人にでも能力をかけてたんじゃないのか?」
余裕綽々に言い放ち、左手を握り締める。
「不可能を一つ可能にしたぜ? 次は何を可能にしてやろうか」
全て、全て恭一の計算通りだった。
寧々子達がゲームをクリアするのも、その後に涼原が本性を現すのも。
相手が勝利を確信した瞬間に逆転するために、恭一はずっと策を練り込み、最後の最後で実行したのだ。
涼原の能力に操られながら雌伏の時を耐え、下準備を行い、元上司を巻き込み、さらには悪魔までもを手玉に取って。
「言っておく。ミサイルは発射されていない。そしてテメェがミサイルを落とすのは、不可能だ」
涼原にとって致命的な台詞を突きつけながら思う。自分は賭けに勝てたのだ、と。
脳裏に浮かぶのはほんの二時間前の出来事だった。