10・嘘
『走って!』
声と共に、寧々子も横道から飛び出す。
蓮華がカギを盗んでくれることを信じて。ただ、走る。
アイテム投擲の有効射程は最大で二十メートル。寧々子の仕事は、その二十メートルを守り抜き、ゴールにたどり着くことだ。
だが――
『きゃっ!』
叫びと共に、《レンカ》の体が《ネコ》の方へと吹き飛ばされてくる。
炎のせいで見えなかったが、恐らく何らかの魔法珠の効果だろう。
『私の事は構わないで、そのまま行って』
ぶつかった衝撃から立ち直りながら、蓮華が再び《シド》の元へと駆け出す。もはや、選択の余地はなかった。
短距離を走り抜け、距離を保ったまま二人の戦いをただ見守る。
ぶつかり合う細剣と刀。火花を散り、甲高い音が響く。
魔法珠が弾かれ、逸らされ、壁を、床を破壊していく。
だが、情勢は圧倒的に不利。
蓮華の攻撃の全てが《シド》に弾かれているのに、相手は徐々にではあるが、《レンカ》に傷を与えていた。
じわじわ、じわじわと蓮華が追い詰められていく。
そこで、違和感に気付いた。
蓮華が《盗賊のグローブ》とやらの効果を、使おうとしていないことに。
「え、何……で?」
作戦と違う。なぜ、どうして。
「まさ、か……?」
その時、寧々子の不安に答えるかのように蓮華が動いた。
半歩ステップし、何かを地面に設置したのだ。おそらく、《地雷》だ。
『時間稼ぎか? 無駄だ』
《シド》が再び死体を拾おうとした瞬間だった。
閃光と爆音が、寧々子の視界を支配した。
「……やっ、ぱり」
通常の攻撃は《シド》には通用しない。レベルでも、技術でも圧倒的な差があるからだ。
だから蓮華は絶対に通用する攻撃を放つことにした。
地雷の詳細な効果はこうだ。
地雷の周囲、半径三メートルにいる全てのプレイヤーに、【現在HPの半分のダメージ】を与える。
蓮華は密着状態で地雷を発動させ、自分もろとも《シド》にダメージを与えようとしていた。
そして、彼女の行動は一つの事実を浮かび上がらせていた。
――嘘、だったの。盗賊のグローブ、だなんて。
蓮華は、最初から死ぬつもりだった。自爆するつもりだった。
一緒に生き残ると約束したのに、一方的に反故にするつもりだったのだ。
慌てて距離を取ろうとする《シド》だったが、予想外の事に反応が遅れたのだろう。
再び《レンカ》が地面に叩きつけるように《地雷》を設置し、すぐさま踏みつける。
「止めて、蓮華!」
寧々子の声は届かない。助けなければ。早く行かなければ。
必死に指を動かし、《ネコ》を操作する。
だが、異様なまでに時間がゆっくりと感じられ、たった二十メートルの距離は一向に縮まる気がしなかった。
『これで、あんたのHPは四分の一。そして――』
蓮華の迫力に気圧されたのか、それとも冷静に体勢を立て直す為か、《シド》が一歩下がる。直後、三度目の爆音が響いた。
『これで、八分の一』
実は、蓮華は通路のさらに奥に間隔を空けてもう一つの地雷を仕掛けていたのだ。相手が大きく下がることを読んで。
『一応、ベテランの盗賊なの。罠の扱いならお手の物よ』
熱風に混じり、蓮華の声が届く。
勇気を振り絞るように気丈に振る舞う彼女に対し、《シド》は歓喜の哄笑を挙げていた。
『いい、実にいい。今、オレは充実している。これだよ。こういう戦いを待っていたんだよ。
だけど、どうする? 防御も回避も不能な地雷でHPを削るのは素晴らしいアイデアだ。
だが、どんなに俺を傷つけても致命傷は与えられない。地雷は現在HPの割合ダメージだ。いくら爆発させようと、俺を殺せはし、な……?』
その時、初めて《シド》の余裕が消えた。
寧々子からは蓮華が何をしようとしているのか見えない。
《レンカ》が背中を向けているからだ。だが、容易に予想がついた。
――止めないと。止めないと蓮華が死んじゃう。
成功すれば確実に《シド》は倒せるだろう。
だが、代償は間違いなく蓮華の死だ。
いくら走っても距離は縮まらない。
何分も走った気がするのに、まだ五メートルも進めていなかった。
「だめっ!」
《レンカ》が手に持っているのは、間違いなく《リモコン爆弾》。
地雷に似てはいるが、違いは自分の意志で爆破できる事。
そして、ダメージは【最大HPの十五%】である事。
今までの爆発で二人のHPは八分の一、つまり十二・五%まで減少している。
最後に残るのは――双方の爆死体。
数字上の能力でも勝てない。技術でも勝てない。
最後に親友が取ろうとした手段は、命を衝突ける事だった。
『さよな――』
かすかな声で、別れが告げられる。ほんの僅かに蓮華が首を向け、微笑んだように見えた。
静かな声ともにスイッチが押されようとした時。
『最高だ。だが、遅い』
寧々子の視界に見えたのは、最悪の光景だった。
親友の、蓮華の、《レンカ》の背中から、日本刀の刃が突き出していた。
「少しは退屈しのぎになったけれど、残念だ。どうやら、俺の方が一瞬だけ早かったようだ」
蓮華が起爆スイッチを押すより早く、《シド》の一撃が《レンカ》を貫いたのだ。
言葉も出ずにただ固まる。
《シド》も久方ぶりの緊張感と充実感で震え、動けずにいるようだった。
だが、だが――!
蓮華は、違った。
『ええ、とっても残念。あの子と一緒に帰りたかったのに。ぜんぶ、ぜんぶ台無しじゃない』
彼女はまだ生きていた。直後、寧々子の脳裏に過去の光景が思い浮かぶ。
四層に到着した直後に渡した、レアアイテムの存在だ。
――そうだ。《天使のロザリオ》。
寧々子が親友の命を守るために捧げた装備品。
その効果は、致死ダメージを受けた際に一度だけHP1で生存させる、だ。
そう、蓮華は生き残るつもりだったのだ。
《天使のロザリオ》を用いた自爆戦術で、勝利を得ようとしたのだ。
だが、それももはや、はかなく虚ろな夢まぼろしに過ぎない。
「ありがとう。信じてくれて」
「ありがとう。赦してくれて」
「ありがとう。親友でいてくれて」
「ありがとう。あんただけは生きて。生き残って」
さいごに、確かに聞こえた。親友の声が。
瞬きほどの時間に、どこか寂しそうに、蓮華は言った。
ありがとう、と。
直後、轟音と爆音が寧々子の視界を照らす。
まばゆい光が画面いっぱいに広がり、仮想世界の火薬臭が寧々子の鼻腔を突き刺す錯覚を感じた。
終わった。
何もかも、終わったのだ。
ホワイトアウトした携帯電話の画面が復活し、土煙が晴れていく。
後に残るは、腕が吹き飛び黒こげになった《レンカ》の死体と……
『死ぬかと思ったじゃあないか』
瀕死の、《シド》だった。
『天使のロザリオか。なるほどね。だけど、どうして気づかないかなあ。自分の切り札は、相手も使える可能性がある、って』
砕けたロザリオを投げ捨てながら、《シド》が吐き捨て、素早く回復アイテムを使用する。
そう。相手もまた、《天使のロザリオ》を所持していたのだ。