5・彼女の回答は
▼十六時四分
悪魔の言葉を受け取り、寧々子の頭は混乱でいっぱいになった。
蓮華からは何の反応もない。ただ、不快な沈黙だけがこの場の全てだ。
『蓮華ちゃんは君に言った。ネコは私が守る、と。まるで、一度は殺意を抱いてしまった親友に贖罪するように。だがそいつはとんでもない欺瞞。そこの女は、今も寧々子ちゃんの背中を狙っているのだよ』
言われて、思わず画面の中の《ネコ》を振り向かせ、《レンカ》の様子を確認する。
だが、ゲームの中の彼女は何の表情も見せず棒立ちしているだけだった。
「嘘よ。嘘に決まってる」
震える声で必死に反論するが、悪魔は一歩も引かない。
『嘘かどうかはおれの話を聞き終えてからでいいと思うがね。以前にも同じような体験をしなかったかい?
そう、《チョコ》の企てた陰謀だ。彼は君に深い絶望を与え、殺すために仲間になるフリをした。
どうして君は蓮華ちゃんをそこまで信じられる? 友達だから? 助けてくれたから?
まったくナンセンスだ。根拠にも論拠にも欠いている』
何か、恐ろしい事が起きようとしていた。
言葉の裏で不気味な陰謀が展開しているように感じられた。
『おれは、見てきたんだ。そこの刑事なら知っているだろ?
憎しみは、消えない。そして殺意も。いつまでも、心の奥底、暗澹とした泥濘の中でいつまでも燃え続けるものだと。
悪魔と契約した人間は、その精神の一部を悪魔と溶融させる。いわば、別人となるんだ。この女は、寧々子ちゃんが知る小鳥遊蓮華じゃない。形だけよく似た悪魔だ』
瞬間、寧々子の視界に変化が生じた。
見慣れた00班本部の部屋が、ゲームの中と同じ暗闇の階段とだぶついて見えたのだ。闇の中では、膝を震わす寧々子を、美しい天使の姿をした何者かが抱きしめていた。
二、三度瞬きすると奇妙な光景が消え去る。
どうやら、錯覚だったらしい。だが、悪魔のどこか蠱惑的な声は、別の現実を見せつけるほどの圧倒的な存在感があったのだ。
『四層の事も思い出せ。モンスターで満ちたあの部屋に真っ先に踏み込んだのは誰だ?
あの場面での正解は一時離脱のはずだ。危機を乗り越えるきっかけを作ったのも、蓮華ちゃんではなく寧々子ちゃんじゃないか』
再び、幻覚が寧々子の世界を覆う。
膝を抱えて蹲る蓮華のそばに立つ自分に、天使の姿をした悪魔。
悪魔は寧々子の頬を撫で、まるで誘惑するかのように囁いていた。
『人間は本当に追い詰められると、言葉を失う。蓮華ちゃんが今何も言えないのはなぜか。それはおれが真実を言っているからだよ』
「そんな事を教えて、あなたはわたしに何をさせたいの。わたしに、蓮華を殺せとでも、言いたいの?」
幻覚はさらに現実を侵食し、世界は寧々子と蓮華、そして悪魔だけの三人になる。
不思議な事に、目の前にいるのは《レンカ》ではなく蓮華本人だった。
『まさか。自分を殺そうとした相手でさえ救おうとした寧々子ちゃんに、親友を殺せだなんて言えないともさ。
ここまでたどり着いた君に対する好意の表れと思ってくれていい。
おれが伝えたいメッセージは一つ。本当にゲームクリアを目指すなら、その女は切り捨てるべきだというアドバイスさ』
「切り、捨てる……?」
『そう。傷つける必要はない。ただ、そこでへたばる負け犬を置いて先に進むだけでいい。
そうすれば、寧々子ちゃんが勝利を得る確率は、きっと上がるはずさ』
蓮華が寧々子をずっと殺そうとしていた。
最高の裏切りのタイミングを模索していた。
今まで助けてくれたのもすべて嘘だった。
悪魔の方が嘘を言っているかもしれない。
だが、ならばなぜ蓮華は反論しない。
どうすればいい。何が正しい。寧々子にはわからない。
恭一の声がどこか遠くから聞こえる。
だが、導いてくれるはずの彼の声は、何を言っているのかさえ聞き取れなかった。
自分で、決めなければならない。
ならば、答えは一つだ。
闇に浮かぶ階段で蹲る蓮華に向け、寧々子が取り出したのは一本の短剣だった。
現実において、寧々子は《ネコ》を操作しているだけのはずなのに、自分自身が短剣を握り締めているような錯覚に陥っていた。
そのまま短剣を蓮華の喉元に突きつけ、言う。
「ねえ、蓮華。もし、わたしがこの短剣をあなたに刺したら、どうする?」
「文句は、無いわ。いいえ、お願い、殺して。私は、ネコになら殺されてもいいと思ってる。それだけの事をしたんだから」
――やっぱり。
心の中に静かな満足感が寄せる。
ならば、やることは一つだ。
蓮華の手を取り、固く握りしめていた拳を開かせる。その上にそっと、持っていた短剣を乗せ、再び握らせる。
そして、短剣を握り締めた手を、寧々子自身の喉元に持って行く。
「わたしも、同じ。蓮華になら殺されてもいい。わたしは、それだけの事をあなたにしてしまったから。死が、たった一つの救いになるのなら、それでも構わない」
蓮華は、動かない。
寧々子も、また同じだ。
闇の中で薄く光る階段の上で、二人はただ見つめ合っていた。
寧々子自身の喉元に刃を突きつけたまま。
「これが私の答え。さあ、蓮華。殺すなら殺してみて。私は、蓮華に殺されるのなら笑って死ねる。だって、絶望に沈む蓮華を、さらに奥まで引きずり込んでしまったのは、わたしだもん」
目を閉じ、告げる。
全身を切り刻んでしまいそうな緊張感が周囲を見たし、鼓膜が破れるほどの沈黙が支配する。
心臓が脈打ち、血液が流れる音だけが寧々子の感じる全てだ。
ただ、答えを待つ。
悪魔の言葉が真実ならば寧々子はここで死ぬだろう。
両親は悲しむに違いない。《DF》で稼いだカネもどうなるかわからない。
何もかも投げ捨てる無責任な形になるが、それでも構わなかった。
――だって。
待つ。ただじっと、待つ。
限りなく永遠に近い数秒が過ぎ、そして。
答えの瞬間はやってきた。