2・暗殺者
▼八月二十日 十五時四十一分/00班本部
溶岩の煮えたぎる第四階層は、猛々しい見た目に反して妙に静かだった。
出現する怪物一匹一匹は非常に手ごわかったが、絶対数は少ない。
恐らく、ここまで下層に降りてくるプレイヤーは僅かなため、敵も少数精鋭の設定にされたのだろう。
事実、ランキングを確認すると、死亡者は既に九十人。
警察の調べではプレイヤー総数は百六人とのこと。ゲームから降りたプレイヤーもいるため、もはや《DF》には事実上寧々子たち以外存在しないと見ていいだろう。
ちなみに、四階に降りてからすぐにランキング機能に制限がかかった。
死者の名前、職業、稼いだカネは閲覧できるが、詳細な死亡状況や動画は確認できなくなっていた。
寧々子たちは最前線にいるため影響は少ないが、「これから頼っていいのは己自身の機転のみだ」という悪魔のメッセージを聞いているようで非情に不快だった。
理不尽ギリギリの困難なバランス。
もし《DF》にゲームオーバーという概念がなければ、繰り返し挑戦することで先に進むタイプのゲームならば、さぞ攻略のし甲斐があるゲームだったろう。
憎々しい事に、このゲームを設定した悪魔は人間の心理をよく分かっていた。
『大丈夫? 疲れてない?』
自販機のそばで休憩を取っていると、蓮華が心配そうに問いかけてきた。
「うん、平気。それに、もう時間はあまりないらしいから。弱音なんて言ってられないよ」
浅い階層と違い、今は安定してカネを手に入れる手段はない。残されたカネと食料を効率的に回しながらどこまで行けるかは未知数だった。
困難は多い。
どれだけの広さかもわからない迷宮を最下層まで降りきり、七人ものプレイヤーを蹂躙した『封印されし者』を討伐せねばならない。
レベルは足りているのだろうか。
装備は満足いくほど強化できているのだろうか。
消耗品は足りるのだろうか。
そもそも、たった二人で最下層までたどり着けるのだろうか。
不安の黴が頭をみるみる覆っていくのが自分でもよく分かる。
考えては駄目だと思えば思うほど、悲観的な未来を想像してしまうのだ。
寧々子の両肩に背負わされた重荷は、一回の高校生の手に追えるものではない。
もし寧々子が失敗すれば米国のサイバー攻撃が、そしてさらに米国さえも失敗してしまえば、人類史始まって以来の大虐殺が襲い掛かるのだから。
それでも、やるしかなかった。
現時点で誰よりも上手く《ネコ》を操作できるのは寧々子自身であるのは事実なのだから。
重い雰囲気を吹き飛ばそうと、わざと明るい声を絞り出す。
「もっと気楽にいこ。おカネもアイテムもあるし、大丈夫だってば。心配し過ぎよ、まるで蓮華じゃないみたい」
『そう、かもね。だって今の私は、悪魔だもの』
ちょっとした軽口から思いもよらない反応を引き出してしまい、目を剥く。
「どういう、意味?」
『悪魔と契約した人間は、大なり小なり心が変容するの。映画とかでもよくあるじゃない。悪魔に取り憑かれて別人みたいになってしまう話、とか。
だから今の私は小鳥遊蓮華であって、ほんの数か月前の小鳥遊蓮華とは少しだけ違う別人。ううん、別人とも違う。半分は悪魔よ。
だって、私が契約したせいで、こんなゲームを生み出しちゃったんだから……』
「ねえ、蓮華はどこまで知ってるの? 悪魔についても、このゲームについても」
『何も知らないも同然よ。私はただ、悪魔の嘲る声を聞いただけ。ゲームについてもそう。あいつがどうやってプレイヤーを苦しめるか、自分勝手な偏執狂に仕立て上げるかを嬉々として語ってるのを、聞いただけ』
嗚咽交じりの声に嘘も誤魔化しもない。
寧々子には本能で理解できた。さらには、今の蓮華の言葉は今回の事件の核心を突いているかのような奇妙な予感さえ感じられた。
「ねえ、蓮華。これ、覚えてる?」
そう言って画面の中の《ネコ》が差し出したのは、銀色に輝く十字架だった。
「蓮華がわたしを誘って《DF》をプレイした最初の日。モンスターが落とした宝箱に入ってたの。後になって気付いたけど、かなりのレアアイテムだったみたい」
《防具:天使のロザリオ》。
致死ダメージを受けた際、HP1で生存させるアイテム。
一度効果を発動させると砕け散ってしまうデメリットがあるが、強力な防具であることに間違いはない。
「これ、あげる。蓮華に持ってて欲しいの」
『どう、して? ネコが拾ったアイテムでしょ。あんたが持つべきよ』
「ううん。わたしじゃダメなの。だって、蓮華……死にたがってるように、見えるから。だから、死なないで。これは、わたしの願い。わがまま」
今までの蓮華の行動や言動を見ていた寧々子には理解できた。
蓮華は自殺できない何らかの枷を嵌められている。
恐らく、自殺すればミサイルを東京に放つとでも言われているのだろう。
だからこそ寧々子の前に姿を現し、敵視する《チョコ》にかりそめの仲間として背中を曝け出し、そして七人のPKと戦う死地へと赴いた。
自殺ではなく、誰かに自分を殺してもらうために。
「受け取らなきゃ、捨てちゃうから」
冗談めかして言ってみるが、本気だ。きっと彼女にも伝わるだろう。
瞬きを幾度かするほどの時間が二人の間を通り過ぎると、不承不承といった感じで《レンカ》がロザリオを受け取った。
装着するのを確認して、寧々子が小さく微笑む。
「ありがとね。わがまま、聞いてくれて」
答えは、ない。
漏れ聞こえるのは、蓮華の小さな嗚咽だけ。
しずかに、しずかに二人並んで歩きだす。
蓮華が転校する前、二人で学校へ向かっていたあの日みたいに。溶岩の流れる仮想世界ではあったけれど関係なかった。
『ねえ、ネコ。私……』
決意したかのように蓮華が口を開いた時だった。
瞬時に、彼女が放とうとした言葉が飲み込まれてしまう。
それもそのはず。
何故なら――
長い通路が終わり、大きな部屋へと踏み込んだ瞬間。
数えきれないほどのおびただしい数の怪物が、数メートルの距離を置いて、二人を取り囲んでいたのだから。
もはや壁にさえ感じられるほどの魔物の群れの奥には、黒く、大きく開いた下り階段。
どうやら、悪魔は寧々子たちに僅かなノスタルジーを感じる時間も与えるつもりがないようだった。
怪物達と、目が合う。
巨人の単眼が、銀鱗に覆われたドラゴンの鋭い瞳が。
その他無数の殺意ある視線が《ネコ》達に突き刺さっていた。
――逃げなきゃ。
戸惑いと混乱の中で寧々子が結論を出したと同時だった。
通路から、風のような勢いで《レンカ》が飛び出していた。
あれほど言い含めたのに、また死にたがりの癖が出たのか、と舌打ちしそうになる。
だが違った。
蓮華は、二人が生き残るための最良の手を取ろうとしていたのだ。
怪物の群れを狭い通路に誘い込めば、倒すのは難しくはないだろう。だが、持久戦は免れない。
戦闘行動は急激にスタミナを奪う。食料にも回復アイテムにも限りがあるのだ。
勿論、寧々子たちプレイヤーの集中力にも。
目の前の敵全てを倒し終えるのが先か、寧々子たちが力尽きるのが先か。
答えは考えるまでもなかった。
逃げ出すのも論外。
四層の地図はまだ半分しか埋まっていない。どのような罠があるのかも分からず、また目の前のように怪物だらけの部屋が他にない保証は、どこにもないのだ。
ならば、進むのみだ。
《レンカ》に続き、通路から飛び出す。
《火炎珠》を怪物の壁に向けて投擲。弾丸のような勢いで放たれた魔法珠が戦闘の巨人を炎に包む。
広大な部屋に響き渡るのは、一つ目の巨人が漏らす、苦悶の悲鳴。
だが、相手は倒れない。今まで切り札として必殺の威力を誇っていた《火炎珠》をもってしても、四層の怪物は一撃で葬り去ることはできなかった。
《レンカ》が細剣を突き出し、追撃する。
巨人の馬鹿でかい目を正確に打ち貫くと、ようやく醜悪な魔物は叫ぶのを止め、紫色の液体を吹き出しながら溶け落ち、床の汚れへと姿を変えた。
すぐさま《レンカ》が後ろに退き、《ネコ》に肩を寄せる。
ようやく、一匹。
だが、周囲には何十もの敵が残っている。
躊躇している暇はなかった。
最短距離を突き進み、最小限の敵を無力化し、階段を降りる。道は一つしかないのだ。
階段までの距離は短い。
目算で十数メートルだろう。通常ならば五秒とかからない距離だ。
だが、絶対の防壁となってひしめき合う怪物たちをどうやって無力化すればいいのか。
《突風玉》を地面に打ち付け、袋叩きにしようとする怪物を凌ぎながら、アイテム欄を確認する。
《魅了》や《幻覚》などの状態異常を与え、同士討ちさせることが出来れば随分と楽になるのだが、生憎それらの消耗品は広範囲に影響を与える。
今回のような密集地帯での乱戦で使用はできない。仲間である《レンカ》を巻き込む恐れがあるからだ。
――何か、他に。
ありったけの攻撃アイテムを周囲にばら撒きながら、徐々に前進する。
嵐のように投擲される消耗品に、怪物たちが僅かながらに後ろに下がる。
だが、寧々子たちの前進よりは遅い。相対的に距離は詰まっていく形だ。
階段まで残り十メートル。
考えろ。方法はあるはずだ。
準備はしっかりと行った。自販機で消耗品の補充だってした。
自分が気づいていないだけで、何か手段が、きっと――
瞬間、目に入ったのは、今まで使用したことのないアイテムだった。
鑑定屋をやっていた際に、どさくさで手に入れた魔法珠。用途は限られているが切り札になると思い、残していたのをすっかり忘れていたものだった。
――これなら!
チャンスとばかりにタッチパネルに指を滑らせ、全力で放り投げる。
的を絞る必要はなかった。何せ、真後ろ以外の全ては敵なのだから。
「蓮華、走って! 多分、いける!」
叫びながら、《ネコ》も駆け出す。抉れた地面につまずくが、必死に踏ん張る。足を止める訳にはいかなかった。
安堵するには早いが、寧々子が放った起死回生の魔法珠はきっと事態を打開するに違いない。
張りつめた緊張感の中で、ただ走り続ける。
集中していた彼女は気付いていなかった。
現実世界の寧々子の背後。
ゲームをプレイする彼女のそばに、いつの間にか恭一が気配を殺して立っている事に。
オフィス備え付けの壁掛け時計は、午後四時を示そうとしていた。